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鈴の法話 ----全てに愛を光と祈りを----1998.12月 身内が亡くなったパニックに付け込み      高額な戒名料や祭壇料とはあこぎなことだ    --葬式をビジネスにしたら佛教は堕落する--                 観音院 法主 鈴之僧正  NHKで戒名料のことを放映していたが可笑しかった。このような簡 単なことを明確に出来ないようでは説明義務や情報開示に欠けていて寺 とは言えない。と私は考えるが、お坊さんも屁理屈をこねないで、さっ さと無料にすれば良いものを。それにしても百万円の院号料は高過ぎる、 三十万円も葬儀社にリベートを払うなんて馬鹿だ。  お金で戒名を買う方も、仕方の無い方々だ。葬儀に慣れている人がい ないのに付け込んで高額な読経料や祭壇料を要求するのは火事場泥棒み たいだ、と私は思う。  お坊さんの屁理屈、寺院護持料         寺を維持することは大変だから ■一ヵ寺を維持するためには年間四百万円くらいから、観音院のよ うに年間一億二千万万円くらい必要な場合もあって、お寺は経済的 にあまり余裕はありません。  全然知らない人が突然に葬儀を依頼されると、これは有り難いこ とです。五十万円から場合によっては三百万円、それ以上になるこ ともあります。  院号で百万円、居士(こじ)大姉(だいし)で七十万円、信士、 信女で五十万円とか、もっとも紹介してくれた葬儀社に三十%のリ ベートを払う必要がありますから全部丸儲けにはなりません。  日常、なんの付き合いも無くて葬儀だけ頼まれるのですから、檀 家や門徒並みに、日常の寺の維持費まで割り当てないと寺の運営が 成り立たない。多くの寺にとっては戒名料は大切な護持費用となり ます。ただし、知らないお坊さんから戒名を付けてもらっても有り 難くないかもしれません。 ■鈴(鈴之僧正)は、亡き人を追悼する気持ちとご遺族の心情を、 私の心情として葬儀を執行します。戒名料は無料です。読経料も式 場料も頂きたいとは思っていません。  知っている人が亡くなられると、菩提を願って読経するのが僧侶 として人間としての自然な日常だと思い、住職も弟子もそのように 指導しています。 ■明治くらいまでは結婚式にお寺の住職さんと駐在のお巡りさんを 招待するような風潮もありました。  格別尊敬されている訳ではないけれども、まあまあ大切に思われ ていたのでしょう。  そのお坊さんが付けてくれる戒名だから無条件で有り難い。  もっとも当時に戒名料を頂いていたかどうか、どうも戦後のこと のように思われてなりません。  昭和二十四年ころに寺院の集まりから「戒名の決まり」というの が送られてきて、院号は田地一反(三百坪)と書かれてあって、仰 天したことがありますが、父親は捨ててしまいました。土地一坪が 五百円くらいのころでしたが、それでも一万五千円、べらぼうとい えばべらぼうなことです。  このころには差別戒名という悪い戒名も存在し、それを引き継い だ住職さんは大変でした。観音院には戒名で差別するようなことは していなかったで糾弾されることはありませんでした。  戒名を付ける場合、生前ですと本人と相談したり、師匠筋を表す ようなことを考えたり、かなり面倒な作業になります。  これから使われる「名」ですから「姓」との釣合いも考えなくて はなりません。  画数だけで吉凶を選んで付けるのは危険です。同姓同名が生ずる ことが多いからです。  現在、松本さんや林さんという名字で子供さんが厭な思いをされ ている例を沢山知っています。  名前は読みやすく、他に読み方が無く、発音が優しく、字の意味 が善いものが第一です。ハヒフヘホとツの発音は要注意です。読ん でもらえない国があります。母音の次も注意したいものです。  佛教経典から引用することは極めて危険です。善い言葉も悪い言 葉も両方を含んでいるからです。  十善戒から抜き出して「殺生院偸盗邪淫居士」という極端な戒名 を想定して下されば理解頂けると思います。さりとて、人の一生を 四文字や六文字で表現することは不可能だと思います。  院号は三文字でなくても四文字でも構いません。普陀落院なんて 観音さまの浄土をとったものですが、いかがなものでしょうか。  僧侶は死んでも戒名を付けることはありません。僧侶になった時 に僧名を付け、それを位牌にそのまま刻みます。尤も、下に大僧正 とか中僧都とかがつきます。  私の場合は「鈴之僧正」で、例外で間に大中小は入りません。  多くの場合は誕生時に通称でも僧侶でも通用する名前を親が付け るようですが、僧名をわざわざ立てた場合は家庭裁判所に得度を理 由として改名を申請すれば許可されるようです。  名前を変更したいから得度授戒をしたのでは許可されません。  私は俗名でも通用するような僧名を選んで上げています。女性は 女性らしく、男性は男性らしくといった程度の意味です。  最近の名付けはとても難しくなりました。外国へ転住なり出張さ れことが多くなって、発音次第では使えない意味をもった名前にな ることがありますので、外国に住まれる知り合いに聞いてみること が普通です。  元気な内に戒名を付けてあげるのが私の考え方で、これには十善 戒を努力目標として生きて行く約束を頂き、親兄弟のようにお互い に思いやりをもち、相手の立場で考える私の立場を支持して下さる こと、その約束の儀式に参加して頂きます。  この儀式には止む得ない限りは斎戒沐浴(さいかいもくよく)し て頂き、礼服で出席して頂きます。  儀式は事前に打合せし、儀礼で数珠・袈裟・経典を、最後に「戒 名」を差し上げます。  この式場には十二天の掛け軸で道場を荘厳し、導師・戒師・剃髪 師、少々ぎょうぎょうしいことですが、案内を努める会奉行(えぶ ぎょう)などが面倒をみます。 ▼授戒が済むと、全員で記念写真を撮影することになっています。 入壇料は五万円と決められています。 ▼儀式の中で少し髪を頂き、その髪はその人の幸せを祈って観音院 に永代供養する対象にされます。生前戒名有料は変でしょう。 葬儀に際してパニックにならない       冷静に無駄を省いて葬儀社と契約 ■最近は自宅で亡くなられるよりは病院の場合が多いようです。  特に希望すれば別として、ご遺体は病院に出入りされる葬儀社の 車で自宅なり、葬祭場に運ばれます。希望すれば寺院で葬儀を営ま れることも出来ます。  葬儀社と紹介される寺院との間には戒名料の三十%を寺院から葬 儀社にバックするのが普通です。  ですから、葬儀社はお寺さんに代わって戒名料や読経料を説明さ れるシステムになっています。  戒名料は、院号が百万円以上、居士・大姉が七十万円、信士・信 女が五十万円となっている場合が多いようです。  生前戒名をもらっていると、リベートは読経料からになります。 場合によると葬儀を引き受けない寺院もあり、戒名の付け直しとい う事態もあるようです。 ▼寺院や葬祭場の葬儀の場合は建物の建設費用を五百で割った金額 に維持費用の一日分が式場料と考えると妥当です。または建物の償 却費と営繕費の三百分の一くらいと考えても間違いありません。  他人さまが建てられた建物を使用させてもらうのですから、当然 のことです。公民館や町民の施設でも使用料は必要になります。  寺院を使われる際に内陣の前に葬儀社が祭壇を組むのは二重須弥 壇(しゅみだん)で不必要ですが、寺院は関知しない場合がありま す。観音院での寺葬儀は、担当者が喪主の代理として契約に立ち会 うことになっています。二重須弥壇は厳禁となっています。  極限すれば、自宅葬の場合でも、佛壇があれば祭壇を組む必要は 全くありません。葬儀社に祭壇を依頼されるのは虚飾といえます。  自宅葬について祭壇を組まれるか組まれないかは、観音院として は関知しないことにしています。 何もかも節約地味葬儀では葬儀社も経営出来ません、意識的に甘く しておかないと観音院の葬儀は儲からないから受けないと葬儀社に カシメられかねません。 ▼公民館や集会所は須弥壇がありませんので、葬儀社に祭壇を組ん でもらうことになります。  寺葬儀にしろ、集会所にしろ、依頼されれば観音院は葬儀の契約 に職員を派遣し、無用なサービスを省くことに協力しています。 ▼葬儀社がして下さるサービスは座布団の一枚、お茶の一杯、茶菓 子の一個、提灯など、大半が積み上げ方式の契約です。ある葬儀社 は一件当たり百六十万円を目標としておられると聞いています。  それに戒名料とか式場料が加算されることになります。 ■これらの環境の中で寺院がどのように葬儀を考えて関わって行く かは大切な課題と考えます。  軽率に関わると葬儀ビジネスに巻き込まれるだけで、観音院は宗 教団体としての主体性を維持し、ビジネスには関わりたくないと切 実に考えています。 ▼観音院の考え方は、単に葬儀を簡素化したり、地味葬を奨励する、 或いは出費を安くすることを工夫しているのではありません。 ▼戒名料に対する世間の不信感とか、意味不明な読経行為などにつ いて、もっと明確にしたいと考えているのです。 ▼単に葬儀費用だけで言えば、観音院は依頼されれば無料で、かつ 相当な持ち出しであっても受ける用意があります。  家族や知人の「死」に対して、情を同じくし、葬儀という儀式を 執行するのは当然の感情の動きであり、この心を大切にしたいと念 願します。 ▼同時に人の生涯に於いて、多様な角度から関わり、宗教倫理の高 揚を日常社会に広めたいと計画しています。 ▼信徒となり、倫理観を維持することを「み佛」と契約する授戒に 於いて生まれ変わる象徴としての改名、つまり「戒名」をもつこと が大切だと考えます。  日常は寺院と何ら関係無く、死ぬと同時に金銭で得ることが出来 る「有り難そうな戒名」が欲しくなる葬祭の文化に問題を感じてい ます。同時に生きている時に寺に参詣したことも無い、説教を聞い たことも無い、「み佛」の存在を信じていない人が、なぜ佛教で葬 儀をしなくてはならないかと強い疑問を感じます。 ▼宗教を信じるも信じないも自由です。日常に於いて僧侶を必要と しない方は葬儀も僧侶を呼ばず、読経が無ければ矛盾は生じません。  戒を受けず、戒名も不用な方は筋を通して俗名のままで、親族知 己だけで葬送は出来ます。 ■観音院の主体は信徒です。運営も信徒が決定します。「邯鄲(か んたん)の会」の会員の葬儀費用は寺に関する部分は無料です。会 費は入会時の八千二百四十円のみで年会費は不要で終身会員です。 ▼葬儀料を安く上げるために邯鄲の会に入会することは出来ません。 この会は観音院信徒の親睦会だからです。運営の中心でもあるから です。観音院の教師総代は県内の葬儀料を調査して、講中で七万円 で葬儀が出来る寺があることを知り、葬儀一式を五万円としました。  そのためには、無料奉仕の僧侶や台所のボランティア、調理する 材料となるお供え物が前提条件として整っていました。  一式五万円は、私にとってはどうでも良いことです。ところが、 五万円で僧侶を三名、通夜や告別式の朝の食事も含めて、四十九日 忌の料理まで依頼される喪主が現れて破綻することになりました。  葬儀の食い逃げとボランティアは言いますが、簡単に言えば、葬 儀の際だけの一時信徒、お試し会員みたいなものという不服です。  この不服も尤もだと思います。不服の原因は人間関係が皆無であ ることと、世話になっているという感謝の気持ちが喪主の親族に皆 無であることが原因でした。  以前に一切の費用を寺で負担して葬儀から法事まで全て執行し、 かつ手伝った僧侶やボランティアが涙を流して見送った例が何度か あるからです。  何やかやで、結局のところ葬儀費用は三十万円ということになり ましたが、大変に残念なことです。  私とすれば、一時信徒もお試し会員も慈悲の内で従前通りにして 欲しかったのです。  観音院は葬儀が低廉だ、親切で優しい寺だと、葬儀の際だけ都合 良く利用されても、それも佛縁の内と考えているからです。  さてさて、これから葬儀と佛教はどうなりますやら。 ※若し善行と社会が認めるなら、戒名の最高のランクのものを無料で 付けて上げます。戒名は売買してはなりません。  折角に東京寺務所をもっているのだから、無料戒名を馬鹿スカ出し ても良いのですが、出来れば生きている人たちが、佛教倫理を大切に することを努力目標として、改心の機会に願われるなら。 ※斎戒沐浴(さいかいもくよく)とは心を清め身を洗うことです。 礼服とは婚礼や葬儀に出席されるような基準で服装を選ぶことです。 お寺さんと付き合うことを内縁関係とするならば、授戒は挙式して 入籍するようなものです。戒名を売買することは売春のような感じで 公序良俗に違反しますと言ったら? ※東京都にも観音院のように親切で優しくて、経理と運営が公開で、 毎日三座礼拝するような寺院を建設したいと痛切に願います。それ にしても大都市ほど宗教に対する不信感が大きいようです。戒名料に しろ、読経にしろ、布教が殆どなされていません。  佛教を現代語で展開する努力がされていないのでは? ※東京に月一くらい行くようになって感じたことは、この都会に観音 院をもってきたら、波瀾万丈の展開になるだろうという予想です。  私は繁盛とか喧騒や、揉め事は好みません。しかし必要とされるな ら、観音院の在り方を、都内に置いても良いと思います。今日まで、 広島で大変な支持を頂いているから・・?      
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