仏陀のこと、世の愛欲・性欲について、仏教徒や僧侶の妻帯の在り方、法律と戒律について
鈴の 法話 (5月号-2)


 難しい佛教の覚りの説明
   言語に出来ない部分もあるが

             観音院 法主 鈴之僧正

 佛陀は、覚(さと)りを開いて、解脱(げだつ)の悦びに浸り、しば
らくは、沈黙していました。言語によって説明することが難しい、
不可能であったからだと思います。

 伝説によれば梵天の勧請(かんじょう)によって説法を始めたとさ
れます。
 「すでに得た覚りの内容を捨て去って執着しない、智慧(ちえ)に
ついても特に拠(よ)り所としない」という自己否定、真理を語りな
がら一方では言葉で真理は語れない、言葉への過信と執着は否定さ
れます。
 解脱した覚者の精神内容は、他人を求めません。日常では他者を
求めないが、覚りの内容は言語で構成されています。

 佛教は討論を好みません。私も話すことも書くことも好みません。
 言葉を否定しながら話すことは独話の空間であり、本来、聞く人
を必要としないのです。
 言語さえ否定するくらいですから、佛教は「個の救い」に関わる
宗教で、対関係を求めません。
 佛教が否定する煩悩の中で最大のものが「愛欲」とされます。

 私は世の愛欲の肯定する立場にあります。かつて佛教でいわれた
女犯という概念をもちません。犯という概念が成立しない、対等の
男女の関係を認めます。
 そこから、愛の無い交わりは邪淫であり、愛が成立している交わ
りは尊い菩薩の境地であると断定し、そのように今後は説法を立て
て行こうとしています。
 愛があれば全て尊いとは言いません。邪淫に相当する男女の関係
があり、これは「不邪淫」の戒として示したいと考えています。

*私は真理と慈悲を標榜し、世俗倫理を上回る宗教倫理を確立して、
それを心とする人を、妻帯していても僧侶と認めたいと思います。
・ただし、当面これは観音院の僧籍で観音院以外には通用しません。
 概して日本の僧籍は国際免許ではありません。
・「よこしまに、淫らなことはしない」のは、これは社会倫理とし
て確立しているので、僧侶が触れることには躊躇しながら、慎重に
話を進めさせて下さい。
・邪はよこしまなこと、正しくないこと、淫は浸ること、耽ること、
度を過すこと、みだらなことです。婬と淫は同じ意味です。
・婬と言う字は好みませんので、淫と言う字で話を進めます。

*私が嫌悪するものに「淫らな言葉」があります。「淫らな言葉が
使われる」ときに「淫らな雰囲気」が生まれる可能性が高くなり、
「淫らな行為」が生じます。
 淫らな行為をしないためには、淫らな雰囲気、話題、絵画、写真
などに近づかぬようにすると、淫らな行為をせずに過ごせます。

 最近の印刷物は「淫らな写真」が多いと文部大臣が発言し、いや
あれは芸術であると関係者が反論しましたが、私は買わない、見な
い、貰わないので知りません。青少年を無知無菌状態で育成するの
はいかがかと思いますが、現在の社会の猥褻度は限界を超えている
ように思われます。

*援助交際という名の男女関係があります。成人が未成年者に金銭
物品を給付して性的な関係をもつのは邪淫の内に入ると申したいの
ですが、法律で罰則を設けるらしいので、これは私がかれこれ言う
必要はありません。
 年齢に関わらず、金銭物品を給付して性的関係をもつのは明確に
邪淫です。
・愛情が無く、一方の性欲を満たすだけの関係は、全て邪淫です。
相互に愛情がある場合は、邪淫とは言いません。
・但し、相互に愛情があっても親子間、兄弟姉妹間の性行為は邪淫
と定義されています。
・熱心に求愛した結果、相手の理解と同意が得られた結果としての
性行為は邪淫に該当しません。

・でも、これらは全て世間の常識的倫理で、僧侶が説く水準の不邪
淫からすれば当然も当然、口を出すような筋合いではありません。
・不倫、これは僧侶(と言っても日本国内だけのこと)、一般人に
共通して、善とは言えません。

*話を最初に戻します。私は、花和尚か、否か。妻子も資産も寺も、
全て捨てて、出て行くことは可能です。
・住職を引退して拾数年、私は慎重に日常生活を整理し、身の回り
を清潔にし、妻子に期待されることは果たし、観音院の運営につい
てはほぼ理想的な環境をつくり、私自身の存在をほとんど見えない
くらいに透明にして来ました。
・私に纏(まと)わる一切の執着は無い、私の物も無い。全てを捨て
て天涯無一物(てんがいむいちもつ)、死ぬことも恐怖は無く、況ん
や観音院から傘一本も持たず出る、山にでも籠もり、瀬戸の小島で
一人で瞑想が出来れば素晴らしいことですが屁理屈に近い。

 それが自由に出来るか、皆さんで考えて下さい。信徒さんや役員
さんは、私の観音院に対する社会人としての責任感を問われます。
責任感で考える限り、清僧になることは不可能です。が清僧を望ま
れます。
 むしろ妻子を捨て、寺を出ることのほうが、様々な角度から非難
されるのは間違いありません。
 皆さまから受けた好意に対してどのようにご恩報謝をするか、私
が皆さまにもっている好意をどうするか、佛教の本来の教義からす
ればこれも否定されるべきものなのです。これは「苦」なのです。

 私は佛教の教義は大半を尊重しますが、私は現実も肯定する立場
で、無理矢理に自分の信じることを実行することはしません。
 現実から出発して、その中に結果を得ようとしているのです。


   人間の繁栄と性欲について
        性は邪淫に結びつくか疑問

 人類から雌雄を除くとどのようなことになるでしょうか。家庭が
成立しない、子供も生まれない。
 仮に雌雄一体とでも、単性増殖が可能であったとしても、おそら
く文化は成立しなかったでしょう。
 不犯(ふぼん)、男女が交わらないことは大変な禁欲することにな
ります。一生不犯の僧侶は尊敬されてました。佛教以外にも司祭の
不犯を戒律と定めた宗教はあります。

 佛教を説いた釈迦には妻子や豊かな人間関係がありました。出家
に際して釈迦は周囲の人々をどのように判断されたのでしょうか。
 私はあまり深くは考えていませんが、正直にいえば観音院にいる
ことを苦と思っていません。私にも周囲にも苦の種がありません。
 苦を滅するように生きて来た、いいえ、苦を避けるよう、苦に近
づかないように生きて来ました。
 もちろん、私のまわりには四苦八苦に関わって苦しんでおられる
方は沢山おられます。
 その人たちを放置して、私一人が出て行くことは考えられません。

 花和尚は困る、住職も花和尚に相当します。戒律違反は現実です。
そのように社会が望めば、私は何とか清僧になれそうですが、住職
に離婚を勧めることはできません。
 実は私は沢山のお寺さんや総代さんから他の寺院の住職や後継者
の配偶者探しを頼まれて、何とかして上げたいと思っています。
 戒律違反は止めよう、住職は不犯で妻帯するなと呼び掛けるなら
時代錯誤と言われるか、黙殺されるか、宗教家も宗教界も賛成どこ
ろか「今頃になって妙なことに関心をもって」とあきれられます。
 ならば、現実的に、半僧半俗を宣言すれば、私一人で宣言しても
仕方のないことです。さりとて、この問題は、佛教界では正面から
考えらることなく、触れないで、しかも、日本以外の佛教徒からは
軽侮されている現状は、日本佛教の尊厳に関わる問題でもあります。

 佛教界の事情はさておいて、私は観音院に限って、妻帯は破戒で
はないと観音院の戒律を定めます。
 日本では問題にならなくても、世界的に関心を集める寺院として
は明確にする必要が生じました。
 そこで、観音院の僧侶は妻帯することが破戒では無いと決めても、
その妻帯が世間と同じでは意味ありません。
 どこかに、社会倫理と違いのある妻帯する僧侶しての高い倫理を、
戒律を定めなくてはと思います。

※不倫とは「人倫にはずれること」、人道にそむくことです。日本
で不倫と言う場合は姦通を意味します。強姦の場合も「乱暴」とか
「暴行」などと言い換えるのが用字用語です。姦通とか強姦は当然
に非難されるべきことです。金銭や物品の給付による性行為は人倫
にそむき、社会も認容していません。

※「姦通」とは、配偶者のある者が配偶者以外の異性と肉体関係を
もつことを意味します。邪淫の最も非難されるべき性質のものです。
独身者同志の性的な関係も、当事者が複数以上と関係をもつと邪淫
に分類されます。当然ですね。


※佛教徒は、強引に腕力を用いて、あるいは、誘惑して性的関係を
もってはなりません。愛情と同意と世間に受入れられる関係であり、
僧侶にはさらに相互に帰依を必要と考えています。帰依なき交わり
は僧侶としては厳禁事項です。


※「帰依」は相手を絶対者として、心身ともに将来にわたり服従し、
信頼や献身、扶養は当然、行動には連帯責任を伴います。合わせて
佛教における考え方を共通し、佛教の護持と伝達の義務を負います。
当然に思いやり深く、指導者として模範となり、寺を大切にお預か
りする立場が、観音院の僧侶です。


   僧侶の妻帯の在り方について
       観音菩薩と共に生きる考えで

 僧侶の妻帯を肯定する上で、親鸞上人の夢告は重要な提案です。
 僧侶は、妻帯を観音さまと共に生きることと同じ意味に受け取り、
観音さまに帰依(きえ)することと考えて、そこから社会人と異なる
倫理、乃至(ないし)戒律を展開したいものです。
 「犯」と「帰依」は全く異なります。私は帰依なら、日本の僧侶
は自然な有り様でそのまま認められます。

 社会一般では男女の性関係を、僧の場合は「帰依」でなくてはな
らないと定めます。そこで‥‥‥

一、僧は相手に帰依すること無く交わってはならない。
一、現に配偶者のある僧は、愛情を帰依にまで深める。
一、僧は、同時に複数の異性に帰依してはならない。
一、僧は帰依する配偶者が死亡した時は、二年以上の期間を置いて、
  配偶者を得ることが出来る。
一、僧は子供を扶養し教育するために必要な金銭を所有出来る。
一、僧は不必要な資産を所有してはならない。
一、僧は収入と資産を公開する。
一、僧は宗教法人の資産を恣意(しい)にに利用してはならない。
一、僧は生活範囲に劣情を催すような文書絵画を置いてはならないし、
  見てはならない。
一、僧は淫らな会話に参加してはならない。
一、僧は配偶者以外の身体に触れてはならない。
  ただし、人命救助の必要がある場合を除く。
一、僧は他人の嫌がることは絶対にしてはならない。
一、僧は禁酒、禁煙し、薬物に依存してはならない。
  *僧と尼僧と分けて考えていません。性差を想定していません。

※これらについては、多くの人の意見を聞いて加除しなければなり
ません。しかし、現在に相応しい戒律も必要となります。


   真言は不思議にして観誦して無明を除く
       一字に千理を含んでいると秘鍵にある

*私は饒舌(じょうぜつ)に話し過ぎたと反省しています。弘法大師
は般若心経秘鍵(ひけん)の中で「真言は不思議なり、観誦(かんじゅ)
すれば無明(むみょう)を除く。一字に千理(せんり)を含み、即身に
法如(ほうにょ)を證(しょう)す」と説いておられます。

 私の考えていることを言葉にして説明しようと思うことは無謀で、
あったと、少し後悔しています。
 女犯とか、邪淫とか、戒律を超えたところに、覚りがあります。
このようなことに執着して四苦八苦から解脱する筈も無いのですが、
僧侶の妻帯を可とし、花和尚の汚名を除いただけでも意義は有った
のですが、性欲というものについて色々と苦としている人が多いの
で、もう少し意見を述べます。

 多くの人は性に関する話が大好きで、「駆け込み寺の観音院」と
言われるところに四十年近く住んでいて、膨大な男女の葛藤を見て、
さまざまな相談にも乗ってきましたので、性について少しは述べる
資格がありましょうか‥‥‥

*経典にあるように、女性を罪業深重(ざいごうじんじゅう)、あさ
ましき性とは、毛頭考えることは出来ません。
 心身の発達も性欲の芽生えも、子孫を産むことも、社会を営む上
でも男女は完全に平等です。
 覚者の外見を、男性像に描いたことを引き継いで行くのは根本的
な時代錯誤だと考えます。そこから佛教は男性でないと覚者になれ
ないという考え、女性が覚者になる時は、身体的特徴が男性に成る
と説かれて来ましたが、これは否定します。
 往生とか覚者に、性差はありません。

*釈迦が、出家する際に、王子ではなくて、王女であって、王女が
覚者となっていたら、佛教の教義は現在私たちが奉じている傾向と
真反対の「罪業深重の浅ましき男の身なれば、女人に変成せざれば
往生は難し」となっていたかと考えることもありますが、このよう
な考え方に抵抗を感じられる方は多いと思います。
 仏陀の究極は、性差を超えていることは当然です。

・男女完全平等を前提にしないと、私は不邪淫を説けないのです。
・加えて、現在の社会から、考えるのが私の思考形態です。

 私たちの住んでいる現代の社会では、人間の性別を外見で定める
ことには無理があります。
 私は、男性的外見であっても、その人が自分を女性であると思っ
ていれば女性として受け止めます。
 外見で判断しません。女性的外見であっても、ご本人が男性だと
思っておられる人は男性として受け止めます。 
 女性の容姿・服装・言動などを真似て、女性のように振舞う男性
とか、同性愛の男性といった説明は受け入れられません。私はその
人たちを女性だと思います。

 心の平安を求める上で、男女の性別に些かも問題はありません。
 僧について、犯では無く帰依なら婚姻を可とすると述べましたが、
僧で無くても、世間一般の人でも行い正しく、努力すれば、覚者と
なれることは当然です。
 僧侶の職にあるならば、専念するならば、尚更、真面目であるべ
きと、平凡に素直に考えています。

 性転換とか、男女の性別の変更は有ることと思います。法律の上
で戸籍の性の変換は困難ですが、宗教的には許容される範囲の人間
の存在の仕方です。

*性別の問題については多くの人から相談を受け、悩みも聞きまし
たが、その多くは家族や周囲の拒否反応によるもので、家族や周囲
や社会が、その人のありのままを受け入れることが出来れば、多く
の人が「苦」から救われます。
 そのようなことを経験していない人が好奇心をもったり、拒否反
応を起こすのは、差別だと思います。

 誕生の際の、見かけの性別で届出をしますが、本人が成長して、
届けられた性別の相違に気付いた時には、本人の希望する性に変更
できる制度が欲しいと願います。

 精神的に女性である人に男性を強制すること、精神的に男性であ
る人に女性を強いることは、邪淫であると考えています。
 どちらの性を選ぶかは個人の尊厳に関わることで、家族も周囲も
社会も受け入れて欲しいと、痛切に願うことが少なくありません。

*男女平等無差別が私の強い願いです。外見で性別を決定し、生涯
変更出来ないことを倫理的であるとも思いません。
 性別に関わる理由で苦をつくりだす現在の社会に強い疑問を感じ
ます。そのようなことで詮索したり、好奇心をもったりしない、人
それぞれの人格の尊厳を犯してはならないと思います。

*一切の執着からの解放を究極とする佛陀の教えに「性差別」など
存在する理由がありません。
 諸行無常(しょぎょう むじょう)、是生滅法(ぜしょう めっぽう)、
生滅滅己(しょうめつ めつい)、寂滅為楽(じゃくめつ いらく)に
「性差」など一切関係がありません。

*私は、僧の戒律の一つに飲酒喫煙をしない、薬物依存に陥らない
ことを上げましたが、これは珈琲、紅茶などカフェインを含む飲料
も含まれます。
 観音院を訪ねて来たモルモン教徒は珈琲を飲みませんでした。
・カフェインは薬物としては少量で神経中枢を興奮させ、多量では
麻痺させ、強心・利尿・興奮剤としての効果があり、軽い依存性が
認められます。効能は異なりますが、ニコチンやアルコールなどに
も依存性があり問題はあります。
・高脂血症の改善にはメバロチンという特効薬があります。多くの
向精神薬には依存性があります。多くのホルモン剤には副作用があ
りますが、糖尿病の治療に不可欠のインシュリンもホルモンの一種
ですが、これらを禁止する戒律を作る勇気がありません。
・嗜好品や医師の処方により治療に使われる薬物は、その社会、そ
の時の法律に期待し、僧は法律に反してはならないことは当然です
から、僧の戒律からは外すべきだと思います。

・性的嫌がらせは、日本では「セクハラ」として最近つとに話題に
なりつつあります。アメリカでは男女間で慎重にあるべきこととし
て、それらが表面化した時は、厳しく糾弾されます。
 その他、幼児ポルノや幼児虐待など、一般人も厳しく追求され、
日本にも禁止する法律があります。

 法律が禁止していることは、僧の戒律にはなじみません。法律以
上の高い水準に僧の戒律は定められるべきと私は考えています。

 不邪淫という戒律について、私は淫らな心をもたない、淫らなこ
とを言わない、淫らなことをしない‥‥、に尽きると思います。
 邪淫は「苦」に直結します。人間にとって「性」と「愛情」は大
きな課題であり、来月も続けて話を進めます。(次号につづく)


※私は佛教学者ではありません。ですから、佛教の教義に詳しくあ
りません。何時も現在から出発して物事を考えます。従って学問的
には、という発想で検証されることを予想してこの文章を書いてい
ません。僅かな知識と現在まで生きて来て、感じたことや考えたこ
とを直観的に書いています。

※愛欲と性欲は人間にとって最も尊く、その発露においても否定的
でなく、かつ肯定的ではあるが、尊厳な重要課題として関わりたい
と考えています。関わるに当たっては、性差別は絶対にあってはな
らないと、慎重に取り扱います。

※性行為には、自然が与えた強烈な衝動を起こす願望が含まれてい
て、かつ魅力的で快楽があり、なぜ執着が生じるか素直に受け止め、
受け止めるに当たっては「苦」が生じないような教養や秩序、責任
なども考えてみましょう。

※性行為には社会的に厳しく禁止される特定の行為----、触れたり
口に出したりしてはならないとされる事柄、禁忌事項があります。
何故このようなタブーが出来てきたか、厳粛に受け止めて、それを
犯さないことが「苦」をつくらない日常につながることを真面目に
考えて、人間関係を熟成したいものです。

                 −月刊観自在98.5月号-2より−

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