十善戒のうち不邪淫、出家について、男女平等無差別の立場で、言語に出来ない覚り、
仏教徒や僧侶の妻帯の在り方、現在の社会における戒律、

鈴の 法話 (5月号-1)


 不邪淫(ふじゃいん)を説くのは困難
   仕方なく、私の考えを述べますが、難題

             観音院 法主 鈴之僧正
               
 僧侶の妻帯は戒律違反です。日本では明治五年の布告で「僧侶の
妻帯は好きなようにしなさい」ということになりました。が、歴史
と社会的な風土の異なる台湾やタイなど多くの外国では通用しませ
ん。僧侶に妻子が居ると言えば花和尚(ホワワーシャン)、何たる
生臭坊主と嘲笑されかねません。日本の僧籍は国際免許ではありま
せん。不浄だと断定されます。
 ですから、私が不邪淫について説くには、日本の僧侶は妻帯して
も戒律違反では無いと決めてからでないと、不邪淫については一切
語ることは不可能です。さて。

   邪淫は、よこしまで、みだらなこと
         配偶者以外と淫事を行うこと

*妻子の居る僧侶は日本では普通のことで、法律に違反はしていま
せんが、佛教の戒律をそのまま当てはめると戒律違反です。現在の
日本の多くの僧侶は世襲で、戒律違反の結果の子供が成長して僧侶
になった者が多くて、自然に、子供に妻帯することは戒律違反とは
教えていません。
 多くの日本の寺は、住職や僧侶が妻帯したのは祖々父くらいから
で、かれこれ百二十年の歴史があり、完全に定着しています。
 それ以前は、僧侶は独身で、他の多くの佛教国と同様に不犯(ふ
ぼん=女性と交わらない)が世間さまの常識でありました。
 明治五年の「僧侶ノ妻帯ハ勝手タルベシ」という布告があった当
初は法律では許容されましたが、多くの僧侶は、この法律は僧侶を
侮辱するものとして喧々諤々の大論議が起きたことは当時の出版物
を見れば明らかです。
 しかし、この論議は次第に下火になり、やがて僧侶の妻帯は普通
の日本の常識となるのに二十年くらいの歳月が流れました。

*日本の社会では僧侶の妻帯は常識となっています。先年遷化(せん
げ=僧侶が亡くなること)された高野山の高徳なご僧侶は一生不犯の
清僧であったと聞いています。不犯というのは、女性と一切関わり
が無かったこと、のみならず、碩学(せきがく=学問のひろく深い人、
僧侶)でもありました。私はこの僧侶に帰依(きえ)しています。

*「出家」という概念、これもずいぶんと曖昧(あいまい)になりま
した。本来の出家は、釈迦の出家のように、家族と絆を断ち、私有
財産を捨て、求道に生きることです。

*現在の私は出家できるか、可能です。妻子に別れを告げ、資産を
全て放棄して、寺を出て行くことは可能です。六十五歳まであれこ
れと考えて、執着を持つものは一切無いと言い切れるまで、考える
時間と機会がありました。

 二十歳代では、いいえ四十歳代でも、このようなサッパリとした
ことは申せなかったでしょう。
 五十歳で住職を引退することを目標としていた私は、昨今言われ
る「燃え尽き症候群」で、精も根も尽き果てて、いつ死んでも悔や
みが無いほど精根を使い果たして、引退できたのは五十二歳でした。
 そのまま入院して、過労と栄養失調で危篤状態でした。健康を回
復して退院出来たのは幸甚でした。

 引退後、信徒さんやファンはどうするのか、観音院に対する責任
はと聞かれますと、それは関係が無いと答えることが正確です。
 最善を尽くして、次の住職を選任する手続きを済ませて、本当は
全ての責任は済ませたわけで、これ以上追っかけられる謂われはあ
りません。理由は追々と述べます。
 言わば死んだのと同じことで、死者は責任を免除されます。
 寺を出て、妻子を放棄して、これでは全否定で、最高の選択では
ありません。現実的でもありません。多くの僧侶は発想の基盤は別
として、私と同じ主張をすることは可能であると想像します。

 特別に私が特殊な存在でもなく、多くの僧侶はそれくらいのこと
は覚悟しておられるでしょう。

 なぜ、では額面通りの「出家」をしないかと聞かれれば、日本で
は僧侶が妻帯し、子供を持ち、幾許かの私有財産を持つことが社会
の当然となっているからです。
 日本の僧侶は、得度(とくど)の儀式を経て、受戒(じゅかい)して、
儀式行事が執行できるようになり、決められた学習をして、宗教団
体から資格を認められ、僧籍(そうせき)を登録されると僧侶になれ
る仕組みになっています。
 妻子の有無は、この経過で問われることは全くありません。
 妻帯することは本来は還俗(げんぞく)といって、一度、出家し
たものが、再び俗人にかえることを意味したものです。

※佛教で「出家」という場合は、家族の絆を断ち、修行に専念する
ことです。私は、日本の佛教を護持するためには寺の継承者が必要
で、継承者を教育するための費用を親である僧侶が必要とし、そこ
に僧侶の四苦八苦がある、と見ています。

※僧侶の妻帯は認められ、離婚も再婚もあります。しかし世間一般
の夫婦関係と同じで良いとは思いません、夫婦共に佛教を学び、日
常生活で生かし、世間に慈悲をもたらす共通目的をもって寺にいて、
檀信徒さまの立場になって助言し、檀信徒の佛教理解に生涯を通じ
て努力し尽くす態度が必要です。

※妻子が居ると、寺院内に個人的な場所が設置され、そこに個人的
な物が置かれます。家族の要望を満たすために、寺の繁栄を願い、
より良い生活をするために、檀信徒を増やそうとすることは動機が
不純です。妻帯は認めても、出来るだけ質素に暮らし、寺と檀信徒
のために生きるべきでと考えています。

※私は、家族や親族より寺に来られる人を優先して考えて生きてき
ました。家族もまたこの考えに協力的でした。しかし、私の考えは、
家族や親族にとっては辛いものであったかもしれません。僧侶とし
て三十五年、後悔は皆無です。


 タイなど東南アジアでは、若い時に一時期出家して、寺院に属し
て、やがて還俗して、社会人となる習慣が広く行われていますが、
寺院に居る僧侶は妻帯していることは絶対に考えられません。
 僧侶は托鉢(たくはつ)や供物で生活し、生産・販売などの活動は
しません。
 黄衣をまとい、寺院の規律に従い、儀式や作務(さむ)に従い、朝
食と昼食だけ、晩御飯は食べません。
 私物は皆無に近い状態で、三衣(さんね)と下着と鉢くらいが僧侶
の所有するものでありましょう。
 黄衣の時期は社会から大変に大事にされ、仏陀の代理の如く処遇
される世間があります。

 タイには日本人の独身僧が学校を卒業すると数人派遣されて現地
の佛教を学べる寺院があります。
 日本の佛教大学を卒業して、所定の修行を済ませて、さてバンコ
クに赴任しますと、一般の人と同じように剃髪(ていはつ)、受戒し
て、ようやく現地の僧侶と同じ黄衣をまとうことが許されます。
 その留学僧も日本に帰ると、日本の社会常識に従います。
 台湾やタイ、ベトナム系佛教徒の常識では、日本の佛教は戒律を
護持(ごじ)せず不浄なのです。どのように不浄かといえば淫戒放棄
して妻帯しているという理由からです。

 大きな意味で日本の佛教には戒律は無いといって良いでしょう。
 では何をもって戒律としているか、恐らくは道徳と法律ではない
かと私は思います。

 実際に法律に触れない限り、先ず僧侶は懲戒処分を受けることは
ありません。多少の道徳違反、実は道徳に触れるような行為が表面
化しても、人柄が善ければ、檀信徒に強く支持されたりして、その
上に寛容であったりすると住職の座を追われたり、僧籍を奪われる
ことは先ず無いでしょう。
 清廉潔白な僧侶は殆どいませんが、いたら尊敬されるより敬遠さ
れる傾向にあります。


※宗教には、さまざまな考えがあります。キリスト教では大まかに
分けて、カトリックとプロテスタントがあり、カトリックの神父は
妻帯しません。プロテスタントの牧師は妻帯します。善悪の問題よ
り考え方の相違です。日本の佛教は、プロテスタントの牧師さんに
似ているかも知れない、と私は考えています。      

※東南アジアの佛教徒の考え方は統一されていません。日本の僧侶
の生活は、他の国の佛教徒に理解を得ることは難しいことかもしれ
ません。根本的原因は、社会における佛教と僧侶の位置づけです。
次第に日本的になるでしょう。



		
   花和尚の説く日本佛教に於ける不邪淫とは     この問題は避けた過去の経緯を認識した上で  戒律の上では僧侶と一般人の区別は殆どありません。もしかする と、社会で普通の生活をしている人の方が、競争のなかにあって、 僧侶よりは高い道徳観をもっておられる場合が少なくありません。 ・不邪淫戒が設けられた直接の原因は、女性に対する恐怖心のよう なものがあります。佛教の禁欲は厳しく、女性は僧侶の修行を妨げ る存在で、女性は覚者にはなれないとされています。 ……私はこれに同調出来ません。 ・独身である時は智者として認められていても、性の交わりによっ て愚者となる。聖者はこの患難(かんなん)のあることを知り、固く 独身を守り性の交わりに耽(ふけ)ってはならない。 ……日本佛教の僧侶である私には理解は出来ますが、同調は難しい 佛教全般の考え方です。 ・釈迦は修行と悟りの軌跡で、愛着と嫌悪と貪欲と象徴される三人 の魔女を見ても性の交わりを欲しなかった。糞便袋のような女性に は足で触るのも嫌なことだと。 ……私は、男性の性的迷いは男性自身の問題で、女性に責任は有り ません。罪を女性に転嫁し、誘惑する悪の源泉とみなすことはでき ません。何ものにも執着するなと釈迦は説きましたが、釈迦時代の バラモン教の女性嫌悪感を引き継いでおられるように、思います。 *佛教の教義のうちで、性に肯定的な、象徴的な傾向を取ったのは 佛教諸派の中の真言密教で、その「理趣経」には「男女の交わりの 完全な恍惚境、それは菩薩の境である」と説かれています。  佛教の性についての和解は、親鸞上人を濫觴(らんしょう)としま す。それは私小説のような形で、非常に透明で美しく「女犯の夢告」 として、女性との交わりは観音菩薩との交わりであるという境地で した。  以来、浄土真宗の僧侶は妻帯が普通のことになったが、妻帯につ いて観音菩薩との交わりほどの自覚があるかどうかは疑問です。 *佛教は、女性の極楽往生は認めません。そこで、変成男子(へん じょうなんし)の教えを説いて、女性と和解をしています。  法華経には、生前に女性の性を放棄した八歳の竜女が「刹那(せ つな)の間に菩提心を発(おこ)して不退転を得たり」と、皆の見て いる前で男子になって、佛となって説法する姿を示したと説かれて います。  死後の変身については薬師如来本願経の第八願に「女性であること を厭(いと)い、女性の身を捨てたいと願うなら、わたしの名を心に念 ずれば、男子になって悟りに到達して」と説かれています。  私は、五障三従の女人という佛教の説に従うことが出来ません。  「五障(ごしょう)」は、女性は生まれながらに五つの乗り越えら れない障壁をもった性である、といわれました。  その上に「三従(さんじゅう)」とは儒教に影響されて、女性が従 うべき三つの道。すなわち、家にあっては父に従い、嫁しては夫に 従い、夫の死後は子に従うことを指します。  私は僧侶である前に、男女平等を強く支持し、そのような佛教の 教説は否定します。私は性差別を徹底して排除し、全ての性に覚者 の道を保証する立場にあります。  僧侶という立場になってからもこの主張は些(いささ)かも曲げま せん。  佛典にどのように説かれていても「罪業深重のあさましき女性」 と理解することは出来ません。この女性蔑視とも受け止められかね ない佛教の教説は、改訂されるべきと考えて努力します。 ※私は、現世の肯定から出発して、より良く生きることを標榜し、 皆さんから苦しみを取り除き、安楽を与えることを課題として日々 を努力しています。より良きあの世のためには、この世から改善を 積み重ねてと考えています。 ※私は、大きな現世利益(げんせりやく)の中に生きていて、みなさ んが幸せであるように祈ることを基本として、生きています。  刻苦(こっく)を厭(いと)わず、勤勉に拝み、優しく、どなたでも 受入れ、善行を積み、ご恩に報い、否定しなければならないほどの 自己をもたず、現世に嫌悪も感じていません。慈悲の心を広めたい と願います。              −月刊観自在98.5月号-1より−

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