不偸盗、盗みについて、思いやりの心、日本の将来について
鈴の 法話 (4月号-1)


「不殺生」も「不偸盗」も設定の深い意味を
     その底にある「慈悲の心」を見つけること

             観音院 法主 鈴之僧正

「不殺生」が殺生(せっしょう)しないに止まらず、その人を生かし
育てること、その物を大切に使い、存在した理由を証明できるよう
にすること、と私は説いた。
 同じように十善戒の「不偸盗(ふちゅうとう)」も、盗んではなら
ない、盗みをしない、と、単純に受け止めてはならない。積極的に
与えること、期待しないで与えること、何を誰にどのように与える
かが大切になる。
不偸盗」は盗まないに止まらず、布施(ふせ)する心まで、更には
平和な世の中が維持されるように考え方を進めて行くのが正しい。
「盗まない」のは当たり前のことで、戒にするまでもない。

 偸盗(ちゅうとう)とは盗人のこと
      盗人の倫理観が低下しているとか

 他人の物を盗まないこと、この平凡なことが十善戒の一つに上げ
られていることに、人間の持つ本質的な行動形態のあり方の複雑さ
に驚嘆しています。

 盗んではならない規律は、「盗人の社会」の第一の鉄則だそうで
すから人間は困ったものです。
 盗人が盗んで所有している財物を、盗む専門家の盗人が盗んでな
らない、この定めを犯すと「死」が決まりだったそうですが、最近
は盗人の倫理観が低下して、しばしば盗んだ物が盗人から盗まれる
そうで、盗人社会の困った問題として盗人が嘆いているそうです。
 変な事態ですが、盗人の規律が守られなくて、盗人の人間関係や
社会が崩壊している。一般社会と同じように無秩序化しています。

 私は歴史学者ではありませんので、何時ころから「盗む」という
行為を人間が始めたか知りません。
 想像すれば、誰かが物を持っている、それを欲しい者がいて盗む、
多分人類発祥のころから盗人はいたと思います。
 そして、盗まれた人は悔しい、情けない思いをする、放置すると
社会が維持できない、だから「盗んではならない」という考え方が
成立し、対策として「盗んで得られた価値以上の罰」ができたのだ
ろうと思います。
 ですが現代でも「盗み」は日常的に横行し、多分、将来も盗みは
無くならないと思います。
 盗人から何も盗まれない方法は実に簡単なことで、何も私有財産
を持たねば盗まれることはありません。無い物は盗みようが無い。
 そう考えて、私は何も持たないように周囲を整理し清潔を心掛け
てきました。

 だから盗まれないと思っていたら、そうもいかないのです。
 文章や絵や写真が、盗まれることがしばしばあります。盗む対象
は「物」だけではありません。著作権侵害、商標権の侵害、肖像権
の侵害、このようなことが簡単になされているようです。インター
ネットの世界では文章や資料は簡単に複写することが可能で、画像
や写真も簡単に自分の記憶装置に取り込むことが可能で、再三被害
にあって諦めかけていますが、私ですら気分が悪くなります。

 多くの盗みは法律で刑罰を定めていて、私が特別に取り上げるよ
うな性質の盗みはありません。盗んで検挙されれば刑罰を受けるこ
とになっていて、僧侶が言及する必要は無いように思います。

 ところが、インターネットの世界では法律が予想していなかった
ような盗みが日常的であり、法律が追いついていないようです。


 盗まれるものは、人間も対象になります。子供を誘拐して自分の
子供だと言い張っている人が公判を受けていて、ま、人さらいは昔
からあったことですが、昔も今も将来も怖いことは続きます。
 何かがあれば、それを誰かが盗む、他の部族の人を拉致(らち)す
る、奴隷にしたりする----。現代ではこのようなことは無いと思い
たいのですが、形式を変え、時には国家的犯罪としてなされること
があり、人間のすることに恐ろしさを感じることがあります。

 植民地は国家的な盗みの代表的なものですが、永年の侵略と支配
によって、言語や文化までが破壊され、民族の怨念(おんねん)は消
えることは無いでしょう。世界史を学ぶと、先進諸国の多くは武力
によって植民地支配を行った歴史をもっています。この償いをする
には将来にわたって、長い時間と誠意をもって対処するしか方法が
ありません。
 イラクがクウェートを侵略し湾岸戦争があったことは記憶に新し
い事件ですが、イラクに課せられた経済制裁と屈辱的な査察----、
善悪の問題はさておいて、今後の成り行きについて見守り、学習す
る必要があると思います。

 日本は、南方系と北方系の渡来民族が混然として日本人となり、
日本独自の文化の発生や国としての成立がありました。
 佛教もまた、渡来の宗教です。儒教も同じです。孫子の兵法も、
同様です。
 歴史をみると、秀吉の国家統一と朝鮮出兵、鎖国、ペルーの来航
以来の開国、富国強兵の近代国家--、日露戦争、第一次世界大戦、
第二次世界大戦。
 その過程に於ける朝鮮併合、満州国建設など、それが今日の日本
にとってどれだけ恥ずべきことであったか、偸盗(ちゅうとう)の立
場から謙虚に反省してみたいと思います。
 第二次世界大戦をなぜ日本が起こしたか、敗戦と戦後処理につい
ては様々な角度から検証が行われていますが、どうして戦争が起き
たのかは検証が十分では無いように思います。
 戦争は、殺生(せっしょう)であると同時に盗みでもあります。も
しかすると国家の生存競争かもしれません。

 そのような意味では、戦後の日本経済の発展も、どこかに侵略的
要素があるかもしれません。
 外国に対する投資は歓迎されることが多く、経済の国際的な開放
や規制の撤廃は、時代の流れのように思われます。
 しかし、2010年には、2020年には、どこかの巨大な資本の集合体
が、今までの戦争とは異なった方法で経済構造を武器として、多く
の国々を侵略している結果にならないとは言い切れません。

 盗みがとても巧妙になり、相手が契約に基づいて納得し、合法的
に、気が付かない間になされている可能性が極めて高い、と私は考
えます。このようなことを盗みという概念で括ることは難しいこと
ですが、納得しながら結果として、納得できない富の移転が行われ
ることは盗みの内に入ります。
 経済行為は人の心を盗むことがあるので慎重にありたいものです。

※盗んではいけない。この当たり前のことを、戒(かい)の中にわざ
わざ入れることには抵抗がありましたが、人間の歴史は盗むことと
盗まれないことで経過しているようにも考えられます。盗まれるこ
とは悲しい、悔しい、取り返したくなる。際限の無い争いを生むの
で、盗まないようにしようと決められたのです。       

※盗みは単に他人の物を盗むに止まらず、持主の心を傷つけ、持主
の過去を盗み、その物を得るために働いて流した汗まで盗むことに
なります。盗みは人間の尊厳を侵害する行為で根絶したいものです
が、巧妙に盗まれます。

※盗みは、小は万引きから、国家に対する侵略まで、幅広く根深い
行為と言えます。盗みは悪いことです。このような単純な禁止事項
に国連までが乗り出さなくてはならないほど性質があります。盗ま
ない世の中が望まれますが。

※戦争は略奪とか、拉致とか、捕虜の強制労働とか、場合によって
は、相手国の文化や言語まで盗むことで、しかも計画的に、国家の
中枢が関与して行われる大規模な盗みそのものです。盗まないこと
は戦争をしないことと同じように考えなくてはなりません。戦争の
大義名分は盗人の屁理屈と言えます。


		
 相手を思いやる心が不偸盗(ちゅうとう)の極意         他人の心を盗むのは大泥棒の始め  物やお金を盗むと、それなりの法律があって痛い目に会いますか ら、どなたも普通は盗まないようにされています。  盗みは黙って静かにするものから、暴力や嘘を伴う性質があり、 発作的であったり計画的であったりします。  盗みは、世間に知れなければよいという風潮もあります。  日本では昨今、自転車は盗まれるものと定義できます。鍵が掛け てあっても防げません。盛り場などには自転車が数百台も停められ ている場所も珍しくありません。  私の住む寺では盗まれないように管理していますが、年間に一台 か二台は盗まれます。管理されていない路上では、盗まれるのが普 通で、自転車に乗る人は盗まれることを覚悟しておかなくてはなり ません。  盗まれた自転車は、鍵も付けずに利用され、目的地に着けば乗り 捨てられる。帰りに盗んだ自転車があれば再度利用する。無ければ 又どれかを適当に盗む。多分このようなことだと思います。  放置された自転車は通行の邪魔になりますので役所が移動して、 保管場所に移す。名前が書いてあればもちろん通知してくれます。  ところが、名前が書いてない自転車や盗まれた自転車は通知がさ れません。適当な期間が経つと競売されます。それを手入れして、 輸出している業者もあるという話を聞きました。  私は天気の良い日は川土手を四キロくらい散歩する習慣がありま すが、しばしば川底に自転車が放置されています。  多くの人が気が付くのですが、それを引き上げて警察に届け出る ような余裕は日本人にありません。  しばしば新聞の投書欄に「私の自転車を返して下さい」という記 事が掲載されます。  その多くは特別に思い入れのある自転車で、小学校の入学祝いに 買ってもらった自転車であったり、盗みに盗まれて三台目だとか、 投書が中々採用されないような普通の出来事になっています。  自転車のみならず、バイクもしばしば盗まれます。自動車も盗ま れて、大量に外国に陸揚げされたりすることもあります。  それで、盗むことは悪いことだと思っている人が多いのですが、 検挙されて辛い思いをするのは嫌だから、悪いことはしない、言い 換えれば、見つからねば悪いことでは無いという風潮があります。  良心の問題では無くて、法律と刑罰が怖い----、多くの国の刑務 所が満員だと聞いていますが、法律で悪いと定めてあることまで、 僧侶がその上に殊更に、悪いことですから盗みはしないように、と 説くのは可笑しなことだと思います。  贈賄も収賄もセクハラも、大きな意味では盗みです。盗みをする 人は、盗みをする人を増加させる傾向があるようです。  商業の盗みは巧妙になった        粉飾決算は悪質な盗みです  最近、大きな金融業界の不祥事が、続発しています。監督官庁の 大蔵省との癒着で、金融界幹部と高級官僚が次々と摘発され腐敗が 表面化していますが、このようなことは昔からあったことでしょう。  粉飾決算は悪質な盗みで大掛かりで複雑な仕組みでなされます。  大規模な会社の決算は一人や二人でできるものではなく、組織的 犯罪としてなされます。  破産倒産寸前かその状態にある会社を、優良会社に帳簿上で仕立 て上げるのですから、その決算書を見て、株や債券を買った人は、 紙切れを買わされたことになります。  粉飾を決心すると、検査官に贈賄はしなくてはならない、その技 術をもった専門家の協力も必要でしょう。  多くの粉飾は、価値のない資産を子会社などに転々と高い価格で 転がして売る手口が大半です。最後は自分のところへ帰って来ます。 その時に表面化します。その転々とする期間に被害者が出ます。  最近「飛ばし」とか「鉄砲取引」という言葉が、経済用語として 登場しますが、経済用語というよりは盗人仲間の間にだけ通用する 特別の隠語と言うべきでしょう。  「飛ばし」という手口は決算期の異なる関係会社や子会社の間を、 実際には安くなってしまった株を転々と高値のままで転売を続けて 行くことです。  その損失が証券会社一社で二千六百億円にもなり、大蔵省の検査 で内々に追認されていたらしいのですから大変です。  鉄砲取引とはAという安値の株券を所持しているものが、大量の 買い注文を出します。株価は当然上昇します。そこで自分のもって いるAという株券を高値を売り抜けて金銭を入手し、一方では買い 注文にお金は支払いません。最初から騙してお金を取る手段として 使われます。間違い無く刑務所行きの犯罪ですから絶対にしてはな らないことです。  証券会社や銀行の不祥事で、それらの株主はもとより、利用者は 大変な損失を被ります。そこで金融機関に公的資金(税金)を投入 して体力をつけようという目先の解決がなされることになりました。  この原稿を書いている三月五日には、大蔵省の担当者に贈賄をし ていたと疑われている大手銀行を含めて十八行が公的資金の申請を しました。一行あたり五百億円から千三百億円だそうですから驚異 の世界です。  それでも、盗人に追い銭を支払うようなことをしなくてはならな いのは、日本の経済が小さい方向に向かい、ちじみつつあるからで す。漠然で理解できることは、お役人も大銀行も盗みをやっていた こと、今やりつつあること、今後もやる可能性があることです。  ところで、私には困った立場があります。信徒さんにも沢山の金 融関係者やお役人がおられます。その人たちのことを思うと批判が とても難しいのです。  お役所や金融機関も、リストラをすべきだと思いますが、それが なされると、信徒さんも当然リストラされます。山一証券の廃業で 十名以上の信徒が失業しました。  私は金融機関や証券会社、それを監督する立場の大蔵省は、盗人 的だと思います。深く反省されて、国民のためになる組織になって 欲しいと願います。  権威からすれば大変な存在ですが、それらが「国民のための奉仕 に徹する」方針を立てられないと、日本の将来は目茶苦茶になりそ うです。改革に向けての壮大な実験は始まったばかりです。 ※盗みが巧妙になり、大胆になり、理性が働かなくなり、発覚しな ければ幸運、見つかれば運が悪い、というような安易な考えが蔓延 (まんえん)しつつあります。  官僚や政治家や経営者が癒着すると、巧妙な盗みが生まれます。 その結果に公的資金を導入するのは、盗人の尻拭いを国民の負担で することになりますね。 ※花盗人は免罪されるという説もありますが、最近の花盗人は鉢も 含めて、時には、保護植物を自動車で大規模に盗む例もあります。 野原に咲いている花も大切にしないと絶滅してしまいます。花盗人 は環境を破壊しかねません。 ※商業にからむ盗みは、巧妙かつ悪質です。多くの場合は粉飾決算 という形であり、監督官庁と癒着して行われます。天下り就職とか 贈収賄とか接待など、複雑な構造の中でなされていて、それが摘発 されつつあるのが最近です。 ※普通の人が家を買うのは一億円以下です。三人家族の収支の多く は年間六百万円以下です。五百億円とか一千億円なんて、想像でき ないお金です。この公的資金は、出す方も受け取る方も、見ている 国民も実感が伴いません。三十兆円なんてお金としての実感があり ません。物凄い単位の盗みがなされています。            −月刊観自在98.4月号-1より−

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