太陽,自然の恩寵,摂理,前世,来世,言葉,霊魂について,仏陀,彼岸について
鈴の 法話 (3月号-4)

与えてくれるものに尊敬と感謝が大切
     果実をとるために樹を切り倒すは大殺生

             観音院 法主 鈴之僧正

 朝になれば太陽が昇る。暖かい日差しがある、作物が育つ、普通
のことですが、太陽の恵みには深く思いをめぐらし、大いなる感謝
の心を持ちたいものです。
 雨が降るのも、風雪も全て太陽の恵みです。私たちが生きている
のも、貴方が居るのも太陽の恵みによるものです。
 自然の恩寵(おんちょう)は全て、「太陽の恵み」と受けとめるの
が大切なことです。
 一年365日で自転する地球、大地の恵みは私どもの生活の基盤
であり、私は尊敬と感謝と畏敬の念で大切にしたいと考えます。

 私は海が好きです。特に冬の酷しい海が好きです。出来ることな
ら一週間の内、二日は、海か、小さな島で海に関わりながら生涯を
送りたいと願っています。
 私は日の出と沈む太陽の景色が好きです。
 海は月の干満と連動しています。海を愛すると、取り分けて、月
がいとおしくなるものです。
 多くの動物は月に影響された海と同じように影響を受けています。
「海」は生物の母であると聞いていますが、最近の海の様子は大分
奇怪しくなっています。船舶塗料や漁網などに有機水銀は使われな
くなりましたが、現在でも以前の影響が海に残されています。

 豊かな山林から動植物の繁殖に適した水が川となって海になり、
そこには無数の生命の営みがありました。今、山林も森も荒れてい
ます。これは困ったことです。
 大量に使用される洗剤や焼却されるゴミから発生するダイオキシ
ン、冷暖房器具に使用されているフロンガスなどが、大気や大地を
汚染しています。農薬や抗生物質などは使い放題に放置されていて、
その他にも地球に害を加える行為は後を絶ちません。

 私が子供のころに遊んだ野山は住宅地に変貌しました。海は埋め
立てられて埠頭(ふとう)や建物になる予定で、広島市は大変な財政
赤字です。
 私は大地や自然環境が破壊されるままであるとは思いません。何
処(どこ)かに自然治癒の機能があると信じていますが、人間はそれ
を上回る破壊をやるのではないかと心配しています。


 受験勉強は地獄と怠惰を産み
      考えることをさせない傾向に

 日本の子供は受験のための要領の良い暗記を強制され、点数さえ
取れれば親は満足します。受験勉強は手抜きの仕方を教えています。
それで満足する親は、子供が礼儀知らずであろうと、他人に迷惑を
掛けようと、何も言いません。挨拶も出来ないような子供、情緒に
乏しい子供が育てられています。

 日本の義務教育は充実していて社会生活をする上で、中学までを
真面目に勉強していれば、後は、個人で好きなことを勉強したり、
仕事で要請されることを勉強していれば不自由はありません。
 大半の子弟が高校に行き、大学を目指しますが、社会人として役
立つ学校は司法関係と医者などの専門分野で、日本の大学は現在の
十分の一もあれば事足ります。
 日本の組織は学歴とか大学の名前を大事にしますが、どのような
仕事が出来るか考えていません。
 多くの私立の学校は、子供の減少で経営困難が予想され、生徒を
集めるのに苦労する傾向にあります。

 多くの日本の子供は、童話や文学書などは好まず、漫画が好きな
ようです。野山や海や川で遊ぶことを知らない子供が多く、電算機
のゲームに興じているようです。
 知らない他人と会話をしないことや、物をもらわないことを教え
られます。これは犯罪者による被害を防ぐための方針ですが、だか
らと言って、挨拶も出来ないような躾や教育は、別の次元の大切な
課題のように思います。

 日本の教育のシステムの欠陥は「貴方に何が出来るか」と聞けば
明確な返事が得られないことにあります。卒業証書は能力とは関係
が無いようです。
 依頼心が強く、責任転嫁の傾向が強い、自分さえ良ければという
利己的な傾向が強く、食事作法すら心得ていません。

 つまりは、何かを指示されないと出来ない人が増えています。細
かく指示しないと、先輩や周囲と相談せずにやりますから失敗しま
す。使用説明書を読まずにハイテク機器が操作され、壊されること
は珍しくない出来事です。

 そのような人はどの仕事にも適合出来ないで、結局は失業する結
果となります。原因は仕事の遂行能力が無い、人間関係が悪くて周
囲の人に教えてもらえない、説明書を読まない、物を壊しても平気
な人間を社会に送り出した学校と家庭に責任があります。

 多くのこれらの人は誠実さに欠け、怠惰であり、物事を学ぶ意欲
にも欠け、無気力でもあります。
 これらの人を指導あるいは管理する立場にある人は大変で、最近
では、事業所は直ぐ仕事に使える人を求め、社内訓練は高度なもの
に移行しつつあります。
 昔は挨拶の仕方から、電話の話方、仕事の手順など、まるで親の
ように新入社員を教育することが普通でありました。最近では競争
が激化して余裕が無くなったこともあり、そのような社会適応訓練
は例外のことです。新入社員の質が著しく下がっているのも事実で
すが、その責任は最終的には本人が負うことになりつつあります。

 これらの改善については家庭教育の見直し、教育システムの改善
と、学ぶ態度を作ることで、将来的には問題が解決するでしょう。
 教育したり、学ばせることは、時として本人の望まぬことをさせ
ることになります、これを人権の侵害と受け止める人がありますが、
自由でしたいことをさせて、それで生きて行くには、本人に過大な
負担を掛けることになります。

 やる気が無い人、学ぶ態度が無い人、責任感に掛ける人、礼儀作
法に欠ける人は増加の一方で、これは今後の日本の重要な課題です。
 それはそのまま、親の老後の面倒を見る気が無い、責任を国家や
施設に転嫁する人たちです。

 公衆道徳は著しく低下しています。公衆便所は悪臭が立ち込め、
汚れていて使いものになりません。
 管理者のいる駅の誰でも使える便所は使用を躊躇するものです、
構内の便所は使用出来ます。
 多くの寺院の便所も、同様に汚れていて、落書きも多く、不潔に
放置されています。観音院の便所は清潔で気持ち良く使えるように
気を配っていますが、参詣者でない通りがかりの人の使用は随分と
酷い場合があり、職員を悲しませています。これが日本の現状です。


 最近、日本では、青少年の間に凶悪な事件が頻発し、文部大臣が
生徒の持ち物検査を提案するなど、困った事態になっています。
 刃渡り六センチ以上のナイフを所持することが法律で禁止されて
いますが、保護者の同意が無いと刃物を売らない店も増えました。
教師が殺されたりすることもあって尋常ではありません。

 嫌いな科目、苦手な科目はあるものです。画一的な授業は教える
方も習う方も苦痛です。だからストレスが嵩(こう)じて善悪の判断
がつかなくなって、暴力や殺傷に及ぶのは如何なものでしょうか。
誰が何を仕出かすか分かりません。

「公衆道徳」という言葉は、日本から消えつつあります。だからと
言って、各自がしたい放題のことをして、世間が暮らし難いように
なるのも放置出来ません。困った世の中になりました。でも何とか
したいのが私たちの願いです。

 世の中が随分と悪くなったように書いていますが、単純に百年昔
と現在を比較して得失を対比するならば、現在の方が確実に世の中
は良くなっているのが本当です。何時の時代でも奇怪しなことはあ
りますが、百年後は多分、現在よりは暮らしやすくなっている、と
想像します。希望を失ってはいません。


		
 徹底して大切にすべきは人の命です         人の住む環境を大切にする必要が  「不殺生の戒」はひとえに徹底して人の命を大切に考え、子供の 生まれ来る家庭を大切に思い、子供の育つ環境に配慮し、学ぶ機会 を与え、成人して職業に就き、配偶者を得て、子供に恵まれ、病め る時は適切な治療を受けられ、親を看とることを標準とし、そこに 公序良俗とか高い倫理観が大切になります。  人類が地球上に現れなかったら宗教も存在しません。人類は言葉 を話すようになり、文字を創り、村落を営み、代表者を選び、農耕 漁猟をなし、親子の情愛や、死者への恐れ、病気の苦しみ、生きて 行く苦労を知り、それらが集大成したものの一つに仏教があります。  仏教は極めて「言葉」を大切にし、十善戒という戒を持ち、この 内で最も重要視されているのが不殺生の教えです。  不殺生という概念は段々と拡大されて、全てのものに命がある、 全てのものには霊魂がある、それは私たち人間の生命や霊魂と同様 に尊重されるべきものである。  全てのものの中に山や川や海、風や水や火など、もちろん動物や 植物まで広い概念で捉えるような考え方です。  このような考え方は自然に敬虔な態度であり、自然の恩寵(おん ちょう)や摂理(せつり)を大切にする尊いものです。  仏教の教祖は釈迦ですが、真言宗の教主は大日如来であり、これ はキリスト教の神と同様な受けとめ方で説かれています。  釈迦は実在の人物ですが、大日如来は自然の摂理のように、人類 の発生とともに存在したと説かれています。  そして、人は、善く考え、善く行うことによって、誰でも仏陀 如くなれると説きます。  太陽が全ての人に平等に恵みを与えるように、誰でも他人に平等 に優しく生きることが出来る。ならば優しい人として生きてみよう かと言う提案が示されています。  これは真言宗独特の教義であって、仏教全てに共通する教義では ありません。 不殺生」は仏教に共通する教義ですが、決して生きている動物の 生命を殺してはならないというような単純なものではありません。 全ての動物のみならず自然やその現象までに生命を認めたのです。  これには「輪廻(りんね)」という考え方があり、人は霊魂の乗物 であり、前世から現世、やがて来世、そのまた来世と、連綿と続く 霊魂不滅の考えがあり、現世での行為次第で来世は牛にも馬にも、 色々な動物に生まれ代わることが予想され、時には石や水にすらな るという解釈です。  この考え方は、生きとし生けるもの全てを血縁として関連付け、 壮大な慈悲を求めたともいえます。  ものを粗末にする、自然を破壊する、植物を利用し、動物を殺す ことは殺生(せっしょう)に相当します。若しくは仏教を全面否定す ることになるのです。  現世の行い次第では、来世に様々な地獄が用意されました。人間 の想像出来る限りの過酷で残虐な世界が示されて、現世の行動次第 では永遠に過酷な世界に輪廻して、死ぬことも出来ないと予想した 経緯があります。  反面、現世に於いて善行を積むならば、来世に極楽浄土が用意さ れるとも説きました。  これらは仏教の古代の物語であり、大地を平面と理解していたこ ろの説話ですが、仏教は現代でも地獄と極楽を引きずっていて、詳 細に極楽の世界が説明されたりすることがあります。  これらの思想について、どれを採用し、どれを採用しないかは、 現代に生きる僧侶の説明責任でもあり、私の考えは、折りに触れて 説明させていただきます。この選択は私個人の選択で他の僧侶とは 異なる点が多々有りますのでご注意下さい。最初に申し上げたよう に、私は観音院の法主(ほっす)であって観音院を代表し、仏教界を 代表する僧侶ではありません。  私は常識で物事を考えます         社会人とあまり異なりません  日本の仏教界を代表するような僧侶で、地球は平面だと主張し続 けて生涯を終えた立派な方が居られます。彼は知識として地球は丸 いということは十分に知った上で、そのように言っておられました。  私は、地球は丸いことを知っていて、仏教に説かれている大地は 平面であると言う説を採用しません。  人間の霊魂については、来世はあると信じていますが、霊魂不滅 説は採用しません。何故ならば、霊魂は人類の発達と共に育まれ、 若し人類が滅亡するような事態になれば霊魂も滅亡し、当然に仏教 も支持する人は絶えます。  人間が輪廻転生して動物になったり、地獄に陥ちる説も採用しま せん。ついでですが脳死の説も採用しません、私は心臓死をもって 人間の死と考えています。心臓の動いている脳死者を荼毘(だび)に 付すことも埋葬もできません。この項については別に述べます。  自然をこよなく愛し、森の緑や海の青さも大切にしますが、殺生 は人間に限定して考えます。  動物は好きですし、草木も、やたらに切ることは好みません。  周囲の物も大切に生かして使います、型番が古くなったり新製品 が出ても簡単に乗り換えません。  私は太陽や自然の恩寵に、厚く感謝し、平和を太陽に祈ることも あります。夜空に照る月に一日を無事に終えたことを感謝すること もあります。  日々は、前向きに学習しながら努力して生きています。そして、 多くの信徒さんの平安を祈ることが大切な日課になっています。  死者の追憶(ついおく)については、来世での幸せを真面目に祈り ます。  葬儀の導師をするに当たっては一日も早い良き輪廻転生を願い、 死後四十九日間も霊魂が彷徨(さまよ)う説は採用しません。  追憶の供養は、遺族を元気づけるためと、輪廻した霊魂の宿る人 の良き出会いを祈って行います。  仏教について「八正道(はっしょうどう)」とか「十二因縁(じゅう にいんねん)」とか、難しい話は又の機会にさせていただきます。  私は、慎重に注意深く暮らしていて、借金は無く、家族や職員、 信徒さんを深く愛しています。  私個人の欲望としては、富とか名誉などは求めていません。脱税 とか法律に触れることはしません。  今日するべき仕事は寝るまでに済ませ、何時生命が終わっても、 それについての恐怖はありません。  朝、目が覚めれば、そのことが喜びの始まりであり、自然の恩寵 に感謝することから一日が始まり、皆さまに奉仕することを願います。  多くを求めず、質素に謙虚に暮らしたいと願います。  輪廻(りんね)とは、人が車輪が回転して止まらなくなったよう に生死を重ねて、生きかわり死にかわることを意味する言葉です。 日本人の多くは、死後に極楽に行くと教えられていますが、極楽は 輪廻を終わった永遠に静寂な世界のことです。多くの人は次の世が あることを期待し、私も期待します。 「地獄と極楽がこの世にある」ことは既に多くの人の同意するとこ ろです。現世で苦しんでいる場合に、これを前世の悪行に理由付け することを私は反対です。  苦しみや災難は、善人も悪人も平等に襲います。現世は相互扶助 の精神が大切です。  女性は極楽に往生(おうじょう)出来ないと説いた宗派があります が、これは女性蔑視だと思います。従って私はこの説を採用しませ ん。私は男女は完全に平等であり、子孫を残す役割が異なるだけだ と思います。世の中は変わりました。  もうすぐ春の彼岸です。「彼岸」は努力目標です。目標はあまり 遠くに置かないで、一歩ずつ近づいて行きたいものです。物を大切 にする。人を平等に愛する。このような目標も良いですね。  三月の彼岸の中日ごろには毎日朝十時と正午十二時と午後二時の 三座、丁重に彼岸の伝統的な仏教行事を執行いたします。                  −月刊観自在98.03月号-4より−

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