十善戒のうち不殺生,人の心,法律を守る,僧侶について,人柄,自殺
鈴の 法話 (二)

不殺生の極意は 善い人柄つくり、
       善意は悪意を清める強い力がある

             法主(ほっす)鈴之僧正

 「不殺生(ふせっしょう)」は、殺生をしないという戒律。
以後の話は、戒律は大変ですから努力目標として進めて参ります。

 ありとあらゆるものに御仏様(みほとけ
さま)が宿っているという考え方が、殺生
をしないという考え方の基本です。

 ものを粗末にしない大切に使い切る、
料理で言えば、最大限に素材の味を引き出
す。ゴミを出さないようにすることです。
 南瓜(かぼちゃ)を例にとると実の部分
は何方でも全部食べられます。種の部分、
あれは油で上げて、皮を除いて中身を磨り
潰せば、いろいろな食材のベースに使うことが出来ます。先月号で
書いていた大根の葉っぱを炒めて食べるのと同じです。

 問題は手間です。南瓜の種の皮を除くには時間が必要です。しか
し大切にするという考え方の多くは人件費を考えません。

 限られた資源を無駄なく利用するには、大変な手間が必要です。
 下駄の歯の入替えという商売が昔はありました。歯が減ると入れ
換えていたのです。です。
 鋳掛屋(いかけや)ていう商売もありました。すり減った鍋や釜
の穴を塞(ふさ)ぐ商売です。
 最近では使い捨てが文化のようですが、少し見てくれが悪くなる
と買い換える。「修理するより、買い換える方が安くつきます」と
何処でも良く言われます。
 私は修理出来る物は、修理して使い切ります。物の耐久性よりは
便利性の方が大切にされていますが、これは大変な間違いです。

 寺では十年前のパソコンを、現役で四台使っています。その内の
一台は部品用として購入しました。
 メーカーの修理部品の在庫が十年は製造されていないような気が
します。パソコンは半年で半値になるようなサイクルで販売されて
いますが、資源の無駄です。
 日進月歩の製品とはいえ、完成度を上げて、一年か二年毎の新製
品の発売でも良いと思います。
 それでは商売にならないかもしれません。でもお客が付いていけ
ません。さりとて、最終的にはお客さんに愛想を尽かされるような
気がしてなりません。

 私は蒸気機関が発明されて産業革命が起きたというよりは、あれ
は人類の堕落の第一歩では無かったかと疑問を持っています。です
から、このような考え方もあるくらいに受け取って下さい。
 一馬力という意味が馬一頭の力と同じかどうか正確には知りませ
ん。ですが五馬力の機関と五十馬力の機関の比較は出来ます。どう
して大排気量の車が重用されるのか理解出来ません。

 人が移動することのは、歩いたり走ったりすることだと思います。
時速三十キロくらいが私の安心して使える乗物ですが時代錯誤です
ね。
 ラッパと法螺貝を比較するようなことは致しませんが、便利とか
道具とか、動力などについて人間は謙虚でありたいと願います。


 殺生をしないことの一つは、無駄をしないこと、と同時に、何を
大切にするかを明確にしなければなりません。

 大切にすべきものは人の心が一番だと思います。人の心は見たり
聞いたり、触ったり、五感で動きます。美しいもの、優しいもの、
心の和むもの、本当のこと、見習うべきもの、欲しいもの、危険な
もの、触りたくないもの、近づきたくないもの、といろいろありま
す。人間の心は情報で動いていることが判ります。

 情報は言葉や文字、音や画像によって伝えられます。人間は過去
のことを知り、将来を予測することが出来ます。
 いろいろなことを知ることは、それだけ、幸せが増すものであっ
て----欲しいものと願います。
 顔つきとか、言葉とか、動作など、これらは大切にすべきものの
代表です。

 戒律と言えば「絶対に守らなければならない決まり」というよう
に思えますが、本来は僧侶の団体の生活規律です。「」は自発的
に規律を守ろうとする心のはたらきです。「」は他律的な規則と
考えてください。
 宗教における生活規律と考えてもよいでしょう。「戒律を破る」
ことは僧侶の資格を失うこと、場合によっては法律によって役職を
自動的に失う場合もあります。
 破戒は受戒した者が戒法に違うことです。破戒した出家は次の世
で牛になるとも言われます。


 私は現代の社会には守るべき法律が用意されていて、十善戒は心
の働く方向と考えます。そして努力目標としてお勧めしています。

 目標には点数が付けられます。十点満点で六点くらい取れれば良
いと思います。
 言葉や動作や顔つきなどを良くする上で六点を目標にすれば相当
立派な人格が出来ると思います。

 法律は守ることが絶対で、法に触れると処罰されます。これは、
現実には奇妙なことで、道路交通法などは破っていない人がいない、
未成年者の喫煙や飲酒を禁じた法律もありますが、これについて、
皆さんは如何ですか。
 法律にも揺れがあるように思われてなりません。

 僧侶の心にも揺れがあります。九点くらまで行ったり三点の当た
りを迷ったり、そのような僧侶の現実を知っておいて下さい。
 三点のあたりで迷っているときに六点か七点を思い出して、今度
は上昇しようと願う、社会人で十点満点のような人もおられます。
 生涯が勉強だと思いますし、戒を持つことは、そのようなことだ
と考えて下さい。

 そのような意味で、自己採点をすれば、私自身は、十点満点で常
時零点だと自覚しています。努力に努力を重ねても、自分自身には
厳しくありたいと思ってます。
 皆さんが私のことをどのように評価しておられるか大体は知って
います。その評価の中で生きようとすると溺れます。僧侶としての
評価より、気のいい隣のおじさんくらいに思って下さることが、私
にとって有り難いことです。

 長所は欠点になることもあります。辛抱強く待つことが出来ます
が、これはせっかちな人にとっては、いらいらされる対応になると
思います。習性かも知れないと思いますが、待っていると良いこと
がある、「運」が良いとか強いとか思うことがあります。

 私は御仏様(みほとけさま)の働きを、ご守護を信じていて、頼り
きっています。
 御仏様は私のお願いに適切な応えて下さいます。今までも今後も、
御仏様と一体になって生きて行きたいと考えています。


 観音院は出家得度について、剃髪(ていはつ)を必須としていませ
ん。有髪の僧侶が許容されています。副住職の多くは善意の献身者
であり、在家の一面をもっておられますので、適切な配慮です。
 現代では僧侶は有髪剃髪で僧侶の資格を云々する時代ではなく、
門戸を広く人材を求めるには、有髪を許容する時代です。

 私は毎日頭を剃っていますが、僧侶は十日に一度剃れば良いので
すが、お洒落の意味もあって綺麗にしています。
 これから、仏教が大衆化されるためには、僧侶の剃髪は義務化し
ない方が望ましいと私は考え、合理的と思います。

 僧侶が法律に触れた時、宗教法人法では刑の執行が終わるまで、
または、執行猶予の期間が満了するまでは、住職や副住職、役員の
資格を自動的に失格します。破産、禁治産者となった場合も同様で
す。脱税も同様に考えます。

 観音院には僧侶が約七十名います。副住職が二十名です。内剃髪
者は四名です。頭を剃ることよりも心の汚れを剃ることが大切だと
考えています。観音院の現在はこれらの僧侶方の努力で維持されて
来ました。その他に責任役員十名、評議員五十名、監事三名、教師
総代七名で組織を維持運営しています。
        
                

                

  良い言葉は良い未来を創ることになる
     ただし、巧言令色は避けたいものです

 巧言令色鮮矣仁「こうげんれいしょくすくなしじん」と読みます。
 口先がうまく、顔色をやわらげて人を喜ばせ、媚び諂(へつら)う
ことが出来て、内面では仁の心に欠ける人たちのことを指します。

 「仁」は儒教の道徳思想の中心のようなもので、特に中国では、
万人の平等を実現する相互的な倫理のようにみなされていますが、
ここでは簡単に「人」とします。
 「口先がうまく、表現が巧みで、相手に取り入る・・・そのよう
な人にロクな人はいないょ」とでも解釈しておきましょう。

 人に信頼されるには、良い言葉を使うこと、嘘を言わないこと、
言った言葉に責任をもつこと、を全部ひっくるめて「良い言葉」と
言うのですが、言葉巧みに近づいて来て、物言いも、服装もまあま
あだし、そのような人に騙された経験はありませんですか。
 実は騙したことがあります、と言われるともっと困ります。年中
やってますと言われますと、とても困ります。

 ここで一番問題になるのは、実は言葉ではなくて人柄です。良い
人柄の言われることは大体間違いが無い。言葉の内容は知識や教養
や技術、それに交際の広さ、情報の量、分析などが含まれています。

 悪い人柄の人は、自然に交際範囲が悪い系統で、情報の質が悪く
なり、ご本人の推測、ひどい場合はデマなども含まれています。
 極端な場合は「美味い話」を作りだし、社員全体が洗脳されたよ
うな組織もありますから怖い話です。宗教にもありましたね。

 このような例は結構大きな看板を掲げた老舗(しにせ)でも構造
的に生み出す場合があります。
 美味い話が社会の構造になることもあります。銀行でお金を借り
て、生命保険を掛けて、それからどうなったか、皆さんもご存じの
通りのことです。
 これなどは情報開示が適切になされていなかった点が、後に問題
になりました。
 細かい字で書いてある契約書は気を付けた方が良い傾向がありま
す。善意が通用しない場合があるのが小さい字です。
 組織的な加害者に、良い人柄の人が含まれることもありますから
世間は複雑です。将来に期待する契約をする時は、反対の社会にな
ったらどのようになるか、多くの人が体験された通りです。

 良い人柄で、良い環境で、誠実に暮らしていて、不幸になること
は先ずありません。
 そのような意味では、組織も人の集団です。全ての人が良い人柄
で競争してもらうなら、もっと住みやすい世の中になります。

 人柄と言えば難しくなりますから、性格と言葉を変えます。犬に
例えると具合が悪いのですが、例えて見て下さい。良い犬は誠実で、
学習力が高く、命令を良く聞き、知人に尾を振り、知らぬ人に吠え、
噛まないし、知らぬ人のくれた餌を食わない。
 人間で言えば、嘘をつかず、約束を守り、向上心があり、指示に
適切に反応し、お喋りでなく、利益に釣られて裏切らない、とでも
言うことになりましょうか。
 野犬の群れは怖いものです。野犬の群れのような組織もあります
ので気を付けたいものです。

 人間の困った点は、嘘をつくことと演技力で笑顔が出来ること、
口の上手い人がいることです。
 もっと困ることは、嘘を平気で言える、チィーズとかニィと言え
ば笑顔に見える、複雑な表現が誰でも出来ることです。
 人間を評価するには日時が必要になります。どのよう下心がある
か一見では理解出来ません。

 もっと困ったことは人間の性格は変化します。最初は良かった人
が段々悪くなることは珍しくありません。蓋棺録(がいかんろく)
という人物評価があります。
 人が亡くなって棺の蓋(ふた)をして、そこで初めて、その人の
生前の事業や性行の真価が定まると言う考え方です。

 今、有名な映画監督が不倫説を写真週刊誌に掲載されるとかで、
「潔白を証明するために自殺」したとの話を聞いたところです。
 自殺は「殺生」です。この監督の表現力なら「潔白を証明して余り
ある興味深い映画」が作れると瞬間思いました。

 有名人や身近な人が自殺する度に、聞かれることですが、例えが
悪いですが、私でも自殺は出来ます。
 そのような気持ちになったこともありますが、魔が差さなくって
良かったと思っています。

 人間は気が滅入っている時や、名誉が傷つきそうな時、債鬼に追
われている時、倫理的で無いことをした時、それらが表面化しそう
な時に死にたくなるものです。無常観が強くなっている時も死にた
いと思うことはあるものです。
 その上、疲れていたり、身体具合が悪い時も要注意です。
 元気が無い時に、ふっと死にたくなる、魔が差しているのです。

 昔、キリスト教社会では自殺者を教えを破った者として、道路に
埋めて通行人に踏ませていた時代もあります。
 自殺について日本人は寛容です、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱
(はずかし)めを受けず」と言う考え方が、五十年ほど前には小学生
でも知っていました。

 私は自殺については食い止めたいと願っています。遺族や関係者
の精神的負担があまりにも大きく、やる瀬ない苦しみが続きます。

 自殺すると「地獄」に陥ちるとまでは脅しませんが、侮辱された
ような感じはします。
 御仏様を信じる者として、相談すれば死なせはしないものをと、
悔しく思います。
 葬儀も難しく、導師を勤める自信も力量もありません。遺族のた
めに止む得ず葬儀という儀式を執行しているのが本当です。

 この年で、一日でも長生きをするために禁煙します。未練とか執
着ではありません。責任感です。
 英会話を習います。外国人の来客が増えたからです。生涯、学生
でありたいと願います。
 若い人たちのことを考えると、元気でいて、力になって上げたい
と願うからです。
 生老病死(しょうろうびょうし)については、とっくに心の整理が
ついています。この上は、御仏(みほとけ)様の慈悲を皆さまに広く
知って頂くこと以外に存在する理由はありません。

 そのような計画で、今後は慎重に生活し、より元気に、より皆さ
まが楽しまれるような、見本のような生き方をお見せするのが私の
勤めになります。


 喧嘩口論は、天に唾を吐くような行為です、自分に降りかかって
きます。嘘いつわりも信用を無くす原因になります。誠実に本当の
ことを慎重に話すことが求められます。
 いたわり、慈しみ、思いやり、温かい心で、相手の立場で考えて
行動するべきです。
 将来は、言葉と態度で左右され運命も転換されます。

 厭(いや)な人間、出来の悪い子供などについて、死んでくれれば
よいと思うと言う人があります。人にはそれぞれ生き方があり、人
間の尊厳を考えれば言ってはならない言葉です。「死ね」とか「死
ぬ」と言う言葉は言ってはなりません。

 死んで潔白を証明する。死んでお詫びをする。このような考え方
は安易です。生きて潔白が証明されるよう努力し、あるいは生きて
償うのが人間として正しい道です。人間は必ず何時かは死ぬのです。
命を大切にしましょう。

 死んだ人を追悼(ついとう)するのは人間の自然な行為です。ただ
し、自殺して死後に高額な保険金が支払われて、遺族が幸せになら
れた例を知りません。自殺の場合でも保険金が支払われる制度には
大きな疑問を抱いています。遺族に保険を残すような、生涯一度の
大商いをしてはなりません。決して報われません。

                   −観自在98.02月号(2)−

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