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十住心論四季の閑話 月刊「観自在」11月号掲載

 弘法大師著「秘密曼荼羅十住心論」をもとに 其の十六 

                           観自在編集部


第九住心(じゅうしん)
     「極無自性心(ごくむじしょうしん)」

 華厳宗(けごんしゅう)の初祖、杜順(とじゅん)和尚は「華厳三昧
(けごんざんまい)」でいう。
「我(われ)、という実体の存しないものを信じ、その我執(がしゅう)
にしがみついて生きている者に、いくら言って聞かせても仕方のな
いことである。

 つまり、すべてのものは、縁(よすが)にしたがって起こり、相互
に関係しあって存在するものであって、我々の身体も、結局は五つ
の要素で構成される仮(かり)の和合から成っているにすぎない。だ
から、そこに我という実体は存在しない。この理を自覚しなければ、
正しいさとりを得ることはできない。」

大智度論(だいちどろん)」は、そこのところをこう説明する。
「人の鼻の下に悪臭を放つものがついていれば、沈香(じんこう)や
麝香(じゃこう)など、どんなに芳(かんば)しい香りを嗅(かい)いで
も、悪臭でしかしない」と。

 それゆえに、さとりの妨げとなる妄想(もうそう)をまず打ち払い、
しかるのちに完全な教えを説く一乗円教(いちじょうえんぎょう)の
世界をめざすべきである。
 その人が諸法(しょほう)に通じ、素質的にも充分資格があれば、
必ずしも、「さとりに到る手立て」として説いた五教のうちの、
前の四つの権(かり)の教えを用いなくてもよい。

( 華厳宗の規定する五教

 一)小乗教、 声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)など。
 二)大乗始教、すべては実体がなく空(くう)であると説く『般若
        経』や縁起によって成立するものの本体と現象と
        を区別する『解深密経(げじんみつきょう)』など。
 三)大乗終教、すべてはもともと不変の絶対真理であるが、それ
        が条件によって、汚(けが)されたり清らかなもの
        として現れるとする『大乗起信論(だいじょうき
        しんろん)』などの教え。
 四)大乗頓教、速疾(そくしつ)にさとりに入ることを説く『維摩
        経(ゆいまぎょう)』などの教え。
 五)一乗円教、一大円教つまり一乗を説く完全な教えということ
        で『涅槃経(ねはんぎょう)』『法華経』などの教え )

 しかし、ただちに円教(えんぎょう)に入ることのできない者には、
よろしく初めの段階から、その理を一つ一つ懇切丁寧に説くことが
肝要である。
 つまり、人間が人間である証(あかし)として有している十八の構
成要素------眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官と、六つの
認識対象、そして、六つの認識作用(たとえば、視覚によって物を
見て、その物が何であるかを確認し、その物が花なら美しいと感じ
たり、子犬だったら可愛いと思うこと)を通じて、ものには実体性
のあることをはっきり認識させ、そこには、まがうことなき不変の
本性(ほんしょう)が存在することをさとらせ、偏(かたよ)った考え
方や迷いを取り除き、ありのままの現実を素直に見るべきである。

 質問していう。では、どのようにして色----物質などもろもろの
ものをさとって、大縁起法界(ほっかい)----あらゆるものとの関係
が、条件となって生起(しょうき)している、という 真理の世界に
入ることができるのか。

 答えていう。色(しき)などもろもろの事象は、もとより真実であ
るから、言葉などで表現する以前の問題であり、あれこれ思案する
ものではないからである。
 それゆえ『経』に説く。『言葉は人間の行為とは別のものであっ
て、真実は文字を離れたものである』と。
 だから、視覚・聴覚器官などによって、素直に事象(じしょう)を
感知し、あらゆるものが互いに条件となって生起している、という
現実認識、すなわち法界縁起(ほっかいえんぎ)のなかに入るのであ
る。
 なぜなら、これらのものは、すべて相互に関係しあってはじめて
存在するものであり、人間なら人間が 一個の実体として存在し、
その主体をなす本性が、どこどこにあるというものではないからで
ある。
 つまりそのものの本性は、どこにも求めることのできない 寄せ
集めものにすぎないから、その相(すがた)は、まさに幻(まぼろし)
のごときものである。
 条件より生ずるものは、それ自体の本性があるわけではないから、
無の本性によって幻のような存在をかたちづくる。
 だからもの自体と現象とが無理なく融(と)け合って一つにおさま
り、上下優劣(ゆうれつ)の差別がない。
 このゆえに、法をさとって、あらゆるものは相互に関係しあい、
条件によって生起しているという大縁起法界----大いなる真理の世
界に入るのである。

 問う。すでに空(くう)と存在という、まるで相反するものが別々
でなく一つであって、その考え方に何の矛盾もさわりもないとすれ
ば、どうしてそのうえ、視覚・聴覚器官などを通じて、さらに真理
の世界にわけ入ろうとするのか。

 答える。もし、よく空と存在とを、このようにさとる者は、迷妄
の心がなくなって、まさに道理にしたがい、なんなく真理の世界に
入ることができる。
 なぜか。あらゆるものが互いに条件となって生起する真理の世界
は、われわれの常識や既成概念を離れ、あらゆる現象界の事物(じぶ
つ)をことごとく映(うつ)し現すからである。

 問う。もし、そうであるとすれば、どのような手立てで入ること
ができるのか。

 答える。手立ては同じではない。あらまし三つある。

 一つは、事の次第を明らかにして邪悪(じゃあく)な見解をなくさ
せる。仮(かり)に事象----観察しうる形をとって表れる事柄を例に
とり、視覚器官とはどのようなものかと考えると、声聞・縁覚など
小乗教においてこれまで論じたように、名称・事象・実体・様相・
作用・原因の六種においてこれを択(えら)ぶようなものである。

 また、あらゆる存在は、ただ名称のみとする、大乗始教の初歩の
見地から考えれば、一つとして名称でないものはない。視覚器官な
どで感知する事象が、なぜ名称だけでくくれるのか、その理由をつ
きつめて考えるべきである。このように次々に理由を解明していき、
そのうえでやがて言葉を封じ、邪悪な見解を絶(た)たせる。


 二つは、法(もの)を示すことによって、考えさせる。これにも、
二方法がある。
 一つは心のはたらきである意識をはぎ取って、法(もの)の存在
を確固たるものにする。たとえば色・香味・触など、他の感覚器官
によって意識を抑(おさ)え、誤(あやま)った思い込みを正す。あら
ゆる妄想は、法(もの)にしたがわない。
 すなわちこれは、意識というものが、過去からの間違った見解を、
その心にしっかり焼き付けることによって、なされるものであり、
無限の過去よりこのかた欲界・色界(しきかい)・無色界の三界を輪
のように連(つら)なって止(や)まないからである。
 もしも、この妄想が、条件によって生起する縁起(えんぎ)である
とさとるならば、そこは生滅(しょうめつ)変化しない世界のはずで
ある。

 二つは、法(もの)を示して疑いを断(た)たしめる。まず、妄心を
自覚しなければ、真理の教えを示したとしても、かえって混乱する
だけであろう。真理を示して、さとらしめなければ、妄心は逆に空
に執着する。だからまず、心から迷妄をはぎ取って、のちに真理を
示してさとらせるべきである。


 三つは、法(もの)は言語を離れ、思考に拘束されないことをあら
わす。その内容にまた二つある。
 一つは迷妄の心情をはらうこと、二つは真理を積極的に表示する
ことである。

 迷妄の心情をはらう、ということについて問う。条件によって、
生起する縁起は存在するのか。
 答える。存在しない。現れているものがそのまま空だからである。
条件によって生起する縁起は、それ自体の本性がなくて、現れてい
るものがそのまま空(くう)だからである。

 問う。では、その空は無なのか。
 答える。そうではない。現れているものはそのまま存在するから
である。条件によって生起する縁起は、無限の過去より存在してい
るものだからである。

 問う。ということは、または存在し、または非存在であるのか。
 答える。そうではない。空と存在は完全に融合し、分離できぬも
のである。条件によって生起する縁起は、空と存在とが一つにあわ
さり、その相(すがた)を消してしまうからだ。

 問う。では、存在でもなく、非存在でもないのか。
 答える。そうではない。存在と非存在との両方は、存することを
妨げない。条件によって生起する縁起は、空と存在とが互いに奪い
あって同時に成立するからである。

 念のため今一度問う。つまるところ非存在なのか。
 答える。そうではない。空(くう)と存在が互いに融合し、両方と
もに存しないからである。条件によって生起する縁起は、空は存在
をすっかり奪って、ただ空のみにして存在を消し、存在は空をすっ
かり奪って、ただ存在のみであって、空ではない。互いに奪うこと
が同時であって両方が相殺(そうさい)しあうのだ。

 真理を積極的に表示することについて問う。条件によって生起す
る縁起は、存在するか。
 答える。そのとおり。幻のごとき存在も無ではないからである。

 問う。そして、それはまた非存在でもあるのか。
 答える。そうである。それ自体の本性がないものは、現れている
ものがそのまま空だからである。

 かさねて問う。かつは存在し、かつは非存在でもあるのか。
 答える。そのとおり、存在と非存在は両方存するのを妨げない。

 問う。存在でなく、非存在でもないのか。
 答える。そのとおり。互いに奪いあって両方消滅するからである。

また、条件によって生起するから存在し、条件によって生起するか
ら非存在でもある。条件によって生起するから、これは存在せず、
非存在でもない。
 このように、迷妄の心情をはらうことと、真理を積極的に表示す
ることが融合して矛盾しないのは、みな条件によって生起する縁起
が思いのままだからである。この理(ことわり)をよく理解すれば、
まさしく法界縁起をさとり知ることができる。

 なぜか。矛盾することなく一つに融合し、真理にかなってさとり
知るからである。もしも同時ではなく、このことを後先(あとさき)
に知るならば、それは道理にそむいて、正しい知見ではない。前後
別々にさとり知るのは、真理にかなわないからである。


 末学(まつがく)の凡夫、あながちに胸臆(きょうおく)に任せて、
難思(なんじ)の境界(きょうがい)を判摂(はんしょう)すべからず。
高きに居て、低きを摂(しょう)すれば、功徳(くどく)無量なり。
劣(れつ)を執(しゅう)して勝を潜(かく)さば、定(さだ)んで深底に
入る。
 信ぜずんばあるべからず、慎まずんばあるべからず。かくの如く、
諸佛(しょぶつ)及び所説所証の教理境界、ことごとく一字に摂(しょ
う)し尽くす。
 有智(うち)の薩捶(さった)、極めて善く思念せよ、まくのみ。


 第九住心(じゅうしん)の結びで、お大師さまはおっしゃいます。
 後世(こうせい)に佛法(ぶっぽう)を学ぶ者は、自分の考え及ばぬ
分野にまで立ち入り、勝手な判断を下(くだ)してはならない。高い
レベルに達すれば、学びとるその恵みは、量(はか)りしれないが、
そうでない場合はとかく、どうでもよいことに心をうばわれ、悩み
の種子(たね)を背負いこむことになる。このことに、心しなければ
ならない。慎まなくてはならない。
 このように、もろもろの佛や説かれたところの教理、さとったと
ころの境界は、ことごとく一字におさめ尽くされてしまう。
 智慧(ちえ)ある道を求める者は、よくよくこのことを心に思うが
よい。


 吉祥天女像に恋して、奇(く)しき感応(かんのう)があった話
                「日本霊異記」より

 和泉(いずみ)の国の山寺に、吉祥天女(きちじょうてんにょ)の塑
像(そぞう)があった。聖武天皇の御世(みよ)、その山寺に、信濃の
国からやって来た半僧半俗の一人の行者(ぎょうじゃ)が住みついた。

 行者は、その天女像のあまりの美しさに心を惹(ひ)かれ、いつし
か恋するようになった。そして、昼三度、夜三度の佛前の勤行(ごん
ぎょう)のたびに、「なにとぞ天女のごとき見目好(みめよ)い女を、
私にお与えください」と願っていた。
 そんなある晩のこと、行者はあろうことか、その天女像を相手に、
けしからぬ艶夢(えんむ)を見てしまったのである。

 翌朝、ねむい目をこすりながら天女像を調べてみると、たしかに
それらしい痕跡(こんせき)が残されている。とんでもないことをし
でかしたと、「私は、貴女のお姿に似た女を--、とお願いしたのに、
勿体(もったい)ないことに天女を----」と、像に謝った。

 行者は自分の恥を誰にも話さなかったが、その秘密を知っている
一人の弟子がいた。
 あるとき、その弟子は、師の行者の怒りをかって、山寺を追い出
されることになった。村里に下りてきた弟子は、行者の悪口を言い
触らし、うっぷんを晴らした。むろん悪口のなかには、吉祥天女像
の一件が細大もらさず語られた。

 里人はその話を面白がって、本当かどうか早速連れ立って山寺に
登り、くだんの像をためつすがめつ検分したから、行者もついに、
隠しきれず一切を白状したのである。

 深く信じ、願(がん)をたてれば、色欲(しきよく)でさえ、神佛に
通じないことはない。涅槃経(ねはんぎょう)に言う「画女の像を見
またまた貪(むさぼり)を生ず。貪を生ずるを以(もっ)ての故に、
種々(くさぐさ)の罪を得(う)るが如(ごと)し」
とはこのことであろう。

前稿/其の十五(97/10)前稿/其の十七(97/12)


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