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十住心論四季の閑話 月刊「観自在」12月号掲載

 弘法大師著「秘密曼荼羅十住心論」をもとに 其の十七 

                           観自在編集部


第十住心(じゅうしん)
     「秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)」

 秘密荘厳心とは、これをつきつめていえば、自分の心が本来そな
えている浄菩提心(じょうぼだいしん)、つまり佛(ほとけ)と同質の
徳性があり、これがあるので成佛(じょうぶつ)が可能とされる----
--自心(じしん)の源底を覚知し、ありのままの自身の数量------自
分の肉体が、そのまま肉眼で見ることのできる法身(ほっしん)如来
のお姿であることを証悟(しょうご)することである。
 いわゆる胎蔵海会(たいぞうかいえ)の曼荼羅(まんだら)と、金剛
界会(こんごうかいえ)の曼荼羅とが、これである。

 曼荼羅には、それぞれに四種曼荼羅、四智印などがある。
 四種とは、摩訶(まか)と三昧耶と達磨(だるま)と羯磨がこれである。

 四種曼荼羅
 大曼荼羅は宇宙全体の相(そう)で、諸尊の形像で表現する。
 三昧耶(さんまや)曼荼羅は、諸尊の所持物や事物でそれらを象徴する。
 法(ほう)曼荼羅は、それらを諸尊の梵字で表現する。
 羯磨(かつま)曼荼羅は、諸尊の動作、造形の材質で表現する。

 四智印
 四智印は、四種曼荼羅のさとりの智慧(ちえ)を象徴するもので、
 大智印は、すべての対立を超越した最高の存在。
 三昧耶智印は、象徴の妙果、一切の不二(ふに)。
 法智印は、言語文字で表示される真理の世界。
 羯磨智印は、身体、言葉、意(こころ)のはたらきを表現する。

 このように四種曼荼羅は、その数が量(はか)り知れない。無数の
国土を微塵にしても、数量の多さの喩(たと)えにならず、大海の滴
(しずく)も比べものにならない。

『大日経』に、「菩提(さとり)とは何かというと、ありのままに
自(みずか)らの心を知ることである」とあるが、まさにこの一句に
量り知れない意味を含んでいる。縦(たて)には十段階の浅深の意味
をあらわし、横には塵(ちり)の数ほどの多さと拡がりを示す。また、
「心が流れてゆく相(すがた)は諸佛の偉大な秘密である。我 いま
これをことごとく開示する」というのは、
これは縦の説である。

 つまり、初めは雄羊(おひつじ)のような暗い心から、だんだんと
暗所に背を向けて、光のさす明るく高い所をめざすようになる。
階梯(かいてい)をこのように一歩一歩昇っていく次第は、概略して
十種ある。その十種が「十住心(じゅうじゅうしん)」のことであり、
すでに これまで説いたとおりである。

 また、いわく、「また次に正等覚(しょうとうがく)------正しい
完全なさとりの句を志し求めるものは、心が量り知れないものであ
ることを知るから、身体も量り知れないことを知る。身体の無量を
知るから、智の無量を知る。智の無量を知るから、すなわち生きと
し生ける衆生(しゅじょう)の無量を知る。衆生の無量を知るから、
そのまま虚空(こくう)の量り知れないことを知る」と。これは横の
説である。

 衆生の心と、その数は量り知れない。そのうえ、生きとし生ける
衆生の心は、欲望と本能のおもむくままに、覚(さと)らず知ること
がない。
 佛(ほとけ)は、それぞれ衆生の宗教的素質にしたがって、それと
同数の教えを開示される。

 唯蘊無我(ゆいうんむが)、抜業因種(ばつごういんじゅ)の二つの
教えは、眼・耳・鼻・舌・身・意の感覚器官による六識を知り、
他縁大乗(たえんだいじょう)、覚心不生(かくしんふしょう)の二つ
の教えは、ただ八識[六識に末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやし
き)を加える]を知り、一道無為(いちどうむい)、極無自性(ごくむじ
しょう)はただ九識を知る[八識に阿摩羅識(あまらしき)を加える]。

 『釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)』巻二には、九識に乾栗陀耶
識(けんりつだや)を加えて十識を説き、経典の王である『大日経』
には、量り知れない心のはたらき、量り知れない身体などを説く。

 このように、心と身体の究極を知ることは、とりもなおさず秘密
荘厳心の位(くらい)と価値を証(しょう)すことなのである。
 だから『大日経』にいう。
「もしも、大覚世尊(だいかくせそん)が大智灌頂(かんじょう)地--
----広大なる智慧(ちえ)を得た第十一地の佛地に入ったならば、お
のずから目(ま)のあたりに三三昧耶(さんさんまや)の境地に住す」と。

 三三昧耶というのは、佛部三昧耶、蓮華部三昧耶、金剛部三昧耶
である。
 一つには、理法(りほう)と智慧をかねそなえた佛部(ぶつぶ)三昧
耶。二つには、さとりの心を汚(けが)れに染まらぬ蓮華になぞらえ
た蓮華部三昧耶。三つには、堅固(けんご)な智慧の徳性を金剛にた
とえる金剛部三昧耶である。

 このように、量り知れない数の三部の諸尊と一体となるのである。
そしてそれらの諸尊は、それぞれに四種曼荼羅を具(そな)える。
佛部は身密(しんみつ)を、蓮華部は語密(ごみつ)を、そして金剛部
は心密(しんみつ)を具えているのである。

 すでに秘密荘厳心の所在および身密、語密、心密の数や量などを
知った。では、現在伝わる真言の教えは誰がつくったのであろう。

 答える。『大日経』に拠(よ)っていえば、諸佛や菩薩、声聞(しょ
うもん)や縁覚(えんがく)や佛法の守護神などでは勿論ない。この
人たちではつくることのできないものである。なぜそれを知ること
ができるかというと、大日如来が明らかに説(と)かれているからで
ある。
 どのように説かれたのか。佛が金剛薩捶(こんごうさった)に告げ
られて、「この真言の相は、あらゆる諸佛が作ったものでもなく、
他の者に作らせたものでもない。また衆生の功徳(くどく)のためで
もない。
 なぜか。このもろもろの法は法(もの)として、そのとおりのまま
だからである。もろもろの如来(ほとけ)が世に現れ、あるいは、も
ろもろの如来が世に出(い)でたまわなくても、もろもろの法(もの)
はありのまま自然に存在する。つまり、もろもろの真言は自然----
--ありのままのものだからである」と。

 これを注解していう。
「如来の身体、言葉、意の三つの秘密は、結局 等質(とうしつ)で
あるから、真言の相は言語文字ともにみな永遠である。永遠だから、
移ろったり変化することがない。ありのままであって、誰かが作っ
て成り立ったものではない。もし作ることができるならば、つまり
これは生ずるものである。法(もの)がもし生ずるものであれば、そ
れはやがて壊(こわ)れてしまうものであり、生(しょう)・住・異・
滅(現象界における生起と保持と変化と消滅のかたちで、無常なる
すべてのものはこの過程をへる)の四相として移り変わり、永遠で
なく実体性がない。どうしてこれを真実の言葉とすることができよ
う。
 だから、佛(ほとけ)が自ら作ったものでもなく、他に作らせたも
のでもない。たとい作るものがいても、佛はそれをお喜びになるこ
とはない。それゆえこの真言の相は、佛が世に出現するしないに 
かかわりなく、またすでに説かれ、またはまだ説かれず、または
現に説かれていようとも、現象する法(もの)は不変の理法であって、
本性(ほんしょう)と現象は永遠なのである。
 それゆえに、これを必定印(ひつじょういん)(確定的に佛である
ことをあらわすもの)という。
 多くの佛は道を同じくする。すなわち、これは大悲(だいひ)曼荼
羅のすべての真言であって、一つ一つの真言の相(すがた)は みな
法爾(ほうに)------ありのままのものである」と。

 真言の相(すがた)は、ありのままのもので、人が作ったものでは
ないことを、すでに知った。では、誰がそれを伝えたのであろうか。

 答える。初めの大日如来より青龍寺の恵果(けいか)阿闍梨(あじゃ
り)に至る七代の大阿闍梨である。その法号(ほうごう)を摩訶毘盧遮
那究竟大阿闍梨耶(まか びるしゃな くっきょう だいあじゃりや)、
金剛薩捶(こんごうさった)大阿闍梨耶、龍猛菩薩(りゅうみょうぼさ
つ)大阿闍梨耶、龍智菩薩(りゅうちぼさつ)、金剛智三蔵(こんごう
ちさんぞう)、大広智三蔵(だいこうちさんぞう)、恵果阿闍梨という。
このような大阿闍梨が順次 受け継がれたのである。

 師から弟子へ付法(ふほう)の伝来は知った。では最初の説きかた
はどのようなものだったのか。
『大日経』にいう。「秘密主(ひみつしゅ)よ。無上のさとりを完成
した一切智(いっさいち)、一切見者(けんじゃ)は世に出(い)で、自
ら法をもって種々の道を説き、種々の求めにしたがって、いろいろ
な世界に住む生きものの音声でもって、しかも不可思議な力により
真言を説かれた」と。
 注解する。「この意味するところは 次のとおりである。如来が
自ら証(さと)った法の本体は、佛が自ら作ったものでもなければ、
天人が作ったものでもない。万象(ばんしょう)はあるがままに自然
であるが、それでもなお、加持神力(かじじんりき)をもって 世に
現れ、衆生を利益(りやく)される。

 この真言秘密の身体、言葉、意は、法身(ほっしん)大日如来の
身口意(しんくい)と全く同質平等である。しかも超人間的な能力に
よって、世に出現し、衆生(しゅじょう)を利益(りやく)される如来
の知見(ちけん)は、絶えず変化していく一切衆生とともに、あるが
ままに成就(じょうじょ)して欠けることがない。

 この真言の宗教思想をよく理解し得なければ、名づけて生死(しょ
うじ)の中(うち)の人とする。もし よく自らを知り、よく見るとき
は、それは一切智者、一切見者である。このような知見は、佛が自
ら作られたものでもなく、また他に伝授されたものでもない。
 佛は道場に坐して、このような真理を証って、すべての世界はも
ともと常なる真理の世界と了知(りょうち)し、即時に大悲心(だいひ
しん)を生ぜられた。なのに人々は佛道のすぐそばにありながら、
どうして自ら覚(さと)ることができないのであろうか。

 このようなわけで 如来(ほとけ)は世に現れ、また還(かえ)って
不思議な法界真理(ほっかいしんり)の世界に種々の道を作り分け、
種々の教えを開示し、種々の願望のおもむくところにしたがって、
種々の文句、異(こと)なった言語によって自在に加持して真言道を
説かれるのである。

 真理の世界は微動だにしないが、如来は衆生を導(みちび)くため
にさまざまな工夫をされる。しかし如来は、すべての人の理解を得
るために、真実を曲げて説くことはされない。
 ただ、如来の知見だけをもって 人々に示して悟らせる。もしも
実践者が、真言の十喩(じゅうゆ)[すべてのものはそれ自体の本性
がないことを十種の喩(たと)えで示したもの。幻・陽炎(かげろう)
・夢・影・乾闥婆(けんだば)城・響・水月・浮泡(ふほう)・空華(く
うげ)・旋火輪(せんかりん)]のうちにおいて、みだりに現世生滅
(しょうめつ)するものを見て、さらに煩悩を増すならば、それは
如来(ほとけ)の本意(ほんい)とするところではない。

 また次に如来は、未来世(みらいせ)の人々は宗教的素質に劣(お
と)り、真諦(しんたい)と俗諦(ぞくたい)二つの真理に迷い、世俗
に染まって真理に背を向けることを悲しまれる。そこで懇切にこれ
を指(さ)して説かれる。『秘密主よ、如来の真言道とはいかなるも
のかというと、この書写(しょしゃ)の文字を加持することなのであ
る』と。
 世間の文字言語は実際に使用されているから、如来は佛の言葉、
真言の実際の意味をもって、この世間の文字言語を加持(かじ)した
もうのである。もしも真実不変の法(もの)の本性以外に、別に世間
の文字があるというなら、それは煩悩にまどわされた誤った見解で
ある。
 実体の知れないものすべてをひっくるめて、佛が不可思議な能力
によってそれらを加持すると思うのは、これは道理に反して、真言
ではない。如来は、どのような法(ほう)によって加持したもうのか。
如来は量りなく無限の時間をかけて集めた功徳(くどく)をもって、
しかもあらゆるところにあまねく、様々なかたちを現し、不可思議
な力を垂(た)れたもう。
 一つ一つの言葉や名称が成立するにしたがって、帝釈天(たいしゃ
くてん)[因陀羅(いんどら)。文法論を造ったインドラは一語のうち
にあらゆる意味を含めた)の教えのように、すべてのものに意味を
持たせ、物を物として確立させた。
 また、このものの一つ一つの功徳は、そのまま真言の相(すがた)
に同調し、法の本性はおのずからそのままであって、作られたとこ
ろのものではない」と。


   観音像の助けにより難を免れる話  「日本霊異記」より

 正六位上大真山継(おおまやまつぎ)は武蔵の国多摩郡小河郷の人
である。山継は、蝦夷(えぞ)討伐(とうばつ)の兵としてかりだされ、
奥州を転戦していた。
 留守をあずかる妻は、夫の無事を願って観音の木像を作り、一心
に佛道(ぶつどう)に勤めていた。その効(かい)あって、山継が戦地
から元気に帰還したから、夫婦はそのご加護(かご)を喜んで、いよ
いよ信心を深め、観音の木像を手厚く供養した。

 歳月がながれ、孝謙天皇の御世(みよ)天平宝字(てんぴょうほう
じ)八年十二月、山継は、藤原仲麻呂の乱にかかわり、殺人の罪に
問われて、斬刑(ざんけい)される十三名の仲間のうちの一人となっ
てしまった。
 刑場で十二人の首がつぎつぎに切られていくうち、いよいよ山継
の順番がやってきた。山継はもう生きた心地はしない。これでわが
一生も終わりか・・・・と観念のほぞをかためた、そのときである。
妻が作り共に信心する観音像が現れ、「これ、お前はどうしてこん
な穢(けが)らわしい場所にいるのか」といい突然、山継の襟首(えり
くび)から足を突っ込んで、山継の身体を観音の脚絆(きゃはん)にし
たのである。

 まさに山継が首をさし伸ばして斬(き)られる寸前だった。と、勅
使(ちょくし)が向こうから駆けてきて大声で叫ぶ。「もしかして、
大真山継がこの中にいないか」「居る。いま斬るところだ」「殺す
のは待て。山継は信濃(しなの)に流罪(るざい)と決まった」

 こうして 危うく命拾いした山継は、配所で日々を過ごすうち、
ほどなくして罪を許され、故郷で官職に復帰(ふっき)した。山継が
斬刑されずに済んだのは観音の加護である。
 観音像を作って朝夕礼拝(らいはい)し、信心を発して真心を尽く
せば、たちまち大きな歓びを感得(かんとく)し、佛(ほとけ)の助け
を得て災厄(さいやく)を免(まぬか)れるのである。

前稿/其の十六(97/11)


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