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十住心論四季の閑話 月刊「観自在」10月号掲載

 弘法大師著「秘密曼荼羅十住心論」をもとに 其の十五 

                           観自在編集部


第九住心(じゅうしん)
     「極無自性心(ごくむじしょうしん)」

 極無自性心は、大きく分けると二つの意味がある。一つは顕略(けんり
ゃく)−−表面的な意味と、いま一つは秘密の意味である。
 顕略の意味とは次のとおりである。そもそも大海は深く、須弥山はけわ
しく高い。虚空はどこまでも果てしなく、時間は悠久にして無限である。

だが、芥子劫(けしこう)もいつかなくなり(芥子劫=城の中いっぱいの
芥子粒を、百年に一粒ずつ取り去り、それが全部なくなるまでの時間)、
盤石劫(ばんじゃくこう)はすりへらされ(盤石劫=巨石を百年に一度、
天人が羽衣で払い、その巨石がすり切れてなくなるまでの時間)、虚空す
らも測れなくはないだろう。

 ところが、あまりにも身近なため、かえって見にくいものがある。
それは自分の心である。そして、微細にして、しかも空いっぱいを満たす
ほどに大きなわが佛(ほとけ)である。わが佛の存在はなかなか考えにく
いし、自分の心の奥の奥までを見きわめることも至難のことである。

 暦学者の巧暦(こうれき)や数学者の衆芸(しゅげい)でもこれを学問
的に解明することはできないし、眼ききの離朱(りしゅ)や、超越した洞
察力をもつ佛弟子の阿那律(あなりつ)でさえ、眼がくもって見ることが
できない。『山海経(さんがいきょう)』をつくり、あらゆるものに名を
つけたという夏(か)の禹王(うおう)も名がつけられず、太陽と競走し
た健脚の夸父(かふ)も歩みかねる。声聞(しょうもん)や縁覚(えんが
く)の知識をもってしても、菩薩の智慧(ちえ)によっても、これを知る
ことはできない。

 不可思議にして不可解なもの、それは、みずからの心と、わが佛(ほと
け)といえよう。
 みずからの心に迷えば、六道・・・・迷いの世界の波浪に、もてあそばれ、
心の本源をさとれば、迷いの動揺はおさまり、心は澄んで静まりかえる。
澄み静まった水が万象(ばんしょう)の影を映すように、心の佛(ほとけ)
は あらゆるものをよく見分ける。人々はこの理屈が理解できないため、
いつまでも迷いの世界をうろうろして途方に暮れ、みずからの心をさとる
ことができないでいる。

 慈父(じふ)のごとき大覚者(ほとけ)は、その心の帰るべき道を示し
ておいでになる。帰り道は五百由旬(ゆじゅん)を通り過ぎ、仮(かり)
の休息所である第九住心に至る。
 しかし休息所はあくまでも仮(かり)のものであって、最終的な落ち着
き場所ではない。

    *由旬(ゆじゅん)は古代インドの距離の単位である。
     1由旬を約7マイル又は9マイルなど、諸説がある。

 条件にしたがって移り変わり、場所が一定しないからである。心はそれ
自体本性(ほんしょう)をもたないし、もろもろのものもまた、本性がな
いから、条件によって、ふあふあ変化する。
 したがって、清らかな法である真如(しんにょ)−−すなわち絶対真理
が 迷いの心にしみついて、わが身に真如があると思いこませ、さとりに
おもむかせるのも、本来、心それ自体の本性がないというひそかな告知な
のである。

 この通り過ぎてきた道が、まだ真実のさとりでないことを、佛にはっき
りと知らされ、佛もまた、こうしたさとりが、まだ究極のものではないこ
とを覚(さと)す。
 ここに、虚空にひとしい広大無辺な心が初めて起こり、この第九住心で
得られたさとりの結果は、次の段階にのぼる足掛かりとなる。
 ここで得た心のありかたは、前の顕教・・・・第八住心までにくらべると、
さとりの極(きわ)みである。が、次の第十秘密荘厳(しょうごん)心に
くらべると、初心にすぎない。

『華厳(けごん)経』に、「初めて心を起こすときに、ただちにさとりを
完成する」と説いているが、まさしくそのとおりである。
 初心の佛の徳は不可思議である。あらゆる徳が初めてそこに顕現して、
第十住心の一心が少しばかり現れる。

 この心を証(あか)すとき、三種世間(せけん)をつらぬく解境(げきょ
う)の十佛、すなわち衆生身、国土身、業報(ごうほう)身、声聞
身、辟支佛(びゃくしぶつ)身、菩薩身、如来身、智身、法身(ほっしん)、
虚空身は、すべからくそのままわが身であることを知り、この世に存在す
る一切のものと等量(とうりょう)とされる法身(ほっしん)が、わが心であ
ることをさとる。

 毘盧舎那佛(びるしゃなぶつ)が初めてさとられたとき、普賢などの諸菩
薩たちと、以上のようなことを話された。それがすなわち『華厳経』なの
である。
 そのようなわけで佛は、一大蓮華からなる世界を住み家(か)とし、真理
の世界をひっくるめて国とする。人界、天界の七箇所に説法の座をかざり、
七処に八つの会場を設けて『華厳経』を説いた。

 佛は、心にすべてのものを映しだす瞑想(めいそう)にはいって、法の
本性が完全に融合していることを観想(かんそう)し、宗教的素質にすぐ
れた者を明らかにして、衆生の心と佛とが異ならないことを示す。

 一瞬のうちに、過去、未来、現在を貫(つらぬ)くあらゆる時間を掌握
(しょうあく)し、無限に移りゆく永劫(えいごう)の時のなかに一瞬間
の念慮(ねんりょ)を述べひろげる。
 一がそのまま多、多をそのまま一として、一と多が互いに融(と)けあ
い、絶対的、平等的な本体と、相対的、差別的な現象とが互いに通じあう。

 良師(りょうし)を求めた善財童子(ぜんざいどうじ)は、文殊菩薩に
就いて発心(ほっしん)し、のちに普賢菩薩に帰依(きえ)して、さとり
を得た。善財童子は三生(さんしょう)によって修行をかさね、百の都城
に指導者を訪ねた。

*「三生」は見聞生・解行生・証入生、の三をいう。
  見聞生(けんもんしょう)は、教えを聞いて信ずる位(くらい)。
  解行生(げぎょうしょう)は、智慧(ちえ)を得て実践修行する位。
  証入生(しょうにゅうしょう)は最高のさとりを得る位。

 一つの実践においてすべてを実践し、ひとたび煩悩(ぼんのう)を断つ
ことによってあらゆる煩悩を断つ。初心においてさとりを完成し、十信の
境位において、道を円満にするというが、因と果は別のものではない。
(菩薩のもつべき十の心構え。
   一 信心、二 念心、三 精進心、四 定心、五 慧心、
   六 戒心、七 回向心、八 護法心、九 捨心、十 願心)

 五位・・・・資糧位・加行位・通達位・修習位・究竟位の修行の段階をへて
華厳一乗の車を走らせ、現象と実在を疑うことなく、如来の持つ十の徳性
をもひとまとめにして、毘盧舎那佛(びるしゃなぶつ)に帰一(きいつ)す
る。これがすなわち華厳の精神統一の大意である。

 したがって、大日如来が秘密主(ひみつしゅ)に告げられていう。
「いわゆる空(くう)の本質は、感覚器官や対象を離れて、かたちもなく、
境界もない。無益な議論のはてに虚空をつかむようなものである。迷いの
世界とさとりの世界を離れ、この世のすべての物質や現象を離れ、眼・耳
・鼻・舌・身・意の感覚器官を離れて、極無自性心を生ずる」と。

 善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)はこう説く。
「この極無自性心の一句に、ことごとく華厳の教えをおさめ尽くす」と。
なぜなら、『華厳経』の大意(たいい)を通読すると、絶対の真理の世界
は、それ自体の本性を、絶対不変のものとは断定せず、原因と条件にした
がって変わることを明らかにしているからである。

 この住心は華厳宗をあて、顕教(けんきょう)では、もはやこれ以上は
ないと、お大師さまは、華厳宗が最高の教義であると称揚(しょうよう)
されております。
 絶対真理の世界は、実際の現象面において、条件にしたがって顕現し、
それ自体の本性を守るものではない、とする考え方で、顕教の究極的な立
場です。したがって絶対真理の世界を説く第八住心(じゅうしん)を究極
のものとせず、そして第九住心もまた、次の第十住心にすすむ中間的な心
のありかたにすぎないとされています。

 ところで『華厳経』は、無数の大乗経典のなかで、特にお釈迦様の悟り
に重点をおいています。
 では、「さとり」とは何でしょう。あらゆる束縛(そくばく)、あらゆ
る観念からの 徹底的な解放と自由、それがさとり、とされております。
闇から光へ、閉ざされた世界から開かれた世界への目覚めです。束縛から
の解放、観念からの目覚めは、そのまま世界の実相と直接向き合うことに
なります。でも、さて目覚めてみると、自分には何もない。目覚めたとい
う実感もないし、自分自身すらもない。とにかく徹底的な無があるだけで
す。
 しかし、目覚めの世界は無限であり、絶対であり、だからこそ自由でも
あるはずです。この絶対無限の自由は、もはや目覚めたもの一人の所有物
ではなく、宇宙の涯(はて)までひろがり、しかも宇宙をつつんでいるの
です。
 それが華厳経の毘盧舎那佛で、ビルシャナは光の意味であり、宇宙その
ものをさし、この佛(ほとけ)は色も形もなく、真理と真実 そのものを
身体とする法身佛(ほっしんぶつ)です。

 だから私たち人間にとって、毘盧舎那佛は説明の困難な、とてつもなく
大きく、遠い存在のような気がしなくもありませんが、視点を変えて考え
れば、佛が宇宙そのものなら、宇宙のなかの一要素である私たちの内部に
も、佛が存在して当然のように思います。

 もっといえば、佛そのものが、私たちの本体を形づくっている、といっ
た考え方も可能ではないかと思います。このように考えますと、私たちの
現実の世界は、毘盧舎那佛のなかで生きていることになります。常識では
ちょっと想像しにくいことですが、佛が私たちの全人格を形成し、私たち
はその佛のなかにあって生きていることを、もう少し実感してもよいので
はないかと思います。

 考えてみると、人間の意識というものは、科学などでは到底及ぶことの
できない、すごい働きをします。遙(はる)か宇宙の涯(はて)から何億
光年を費(つい)やして地上に届いた星の光を見て、瞬時にその星の存在
に想(おも)いをいたし、無限に膨張しつつある 宇宙のすがたさえも、
科学のたすけを借りて、あれこれ自分の頭脳で想像することができるから
です。

 遠方に住む人を想えば、すぐ脳裏にその人を思い描くこともできます。
新幹線の「ひかり」より「のぞみ」が速い理由も、そこに根拠があるよう
です。つまり 人間の意識は、光の速度より何よりもずっと速く、無限の
可能性を秘めていることになります。
 そう考えますと、佛が私たち自身のなかに存在するというのも、あなが
ち不思議とは言えないかもしれません。


  僧を罵(ののし)り 邪淫のあげく 蟻に食われて死ぬる縁
                      「日本霊異記」より

 聖武天皇の御世(みよ)に、紀伊の国伊都郡(いとぐん)桑原の狭屋寺
(さやでら)の尼僧らが発願(ほつがん)した、法事をしていた。
 奈良の右京、薬師寺の学僧を招請(しょうせい)して、十一面観音を礼
拝(らいはい)し、自分たちの罪を悔(く)いあらためる法要である。

 さて、その里に、一人の心のよくない男がいた。この男は生まれつき性
質がよこしまで、三宝を信ずるどころか、あたまから馬鹿にしていた。
 一方、男の妻は、心根のやさしい信心ぶかい婦人であった。

 その日、妻は、法要のおこなわれている狭屋寺に参詣して、在家(ざい
け)の人々と一緒に、一心に八斎戒(はっさいかい)を受けていた。
 きょう一日一夜は戒律を固く守って、殺生(せっしょう)いたしません、
邪淫をしません、嘘をつきません、おしゃれも、贅沢も、飲酒も、歌舞音
曲(かぶおんぎょく)も見たり聞いたりいたしません、と、十一面観音の
前で誓っていたのであった。
 折りも折り、その妻の留守に、性質のよくない夫が帰宅した。
 家人に聞くと、「奥さまはお寺にご参詣です」という。
 元来がお寺嫌いで、佛(ほとけ)も木偶(でく)も見境がない男である。
たちまち青筋をたてて憤慨した男は、一目散に駆け出して、妻のいるお寺
に怒鳴りこんだ。
 突然、風をまいて飛び込んできた闖入者(ちんにゅうしゃ)に、衆僧も
在家の信者もみな あっけにとられてびっくりする。導師(どうし)が、
佛教の教えを分かりやすく説いて聞かせるが、男はまるで聞き入れようと
しない。
 そればかりか、「愚にもつかぬたわごとをほざくな。お前は俺のだいじ
な女房に手をつけたんだろう。頭をぶち割ってくれるぞ、くそ坊主め」
と、悪口雑言(ぞうごん)のかぎりを尽くして罵倒(ぱとう)するのだっ
た。
 その様子は、とても言葉にはあらわせない、ひどいものであった。

 そして、法要の座から妻を引きずるようにして 我が家に連れ帰ると、
嫌がる妻を押し倒し、無理やり犯してしまったのであった。
 すると、どうだろう。
 にわかにこの男に、蟻がぞろぞろ這い寄ってきて噛みついたような感じ
で、男は、痛い痛いと、苦しみもがいて死んだのである。

 人間が定めた刑罰は加えられなくても、よこしまな心を常として、あろ
うことか、不謹慎にも 僧を悪罵(ばとう)してはずかしめ、一日一夜、
邪淫をしないという、妻の戒律をも弊履(へいり)のごとく 破り捨てる
行為は、神佛の許すところではない。必ず悪の報(むく)いを受けること
になるのだ。
 口にたくさんの舌が生えたかのように、弁舌がぺらぺら 達者になった
としても、ゆめゆめ僧に悪態(あくたい)をついてはならない。たちまち
災(わざわ)いが 身にふりかかってくるからである。

前稿/其の十四(97/09)次稿/其の十六(97/11)


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