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十住心論四季の閑話 月刊「観自在」9月号掲載

 弘法大師著「秘密曼荼羅十住心論」をもとに 其の十四 

                           観自在編集部


第八住心(じゅうしん)
     「一道無為心(いちどうむいしん)」その(2)

 中国の隋(ずい)代の天台山・国清寺の智者禅師は、この教えによって
止観(しかん)を修め、法華の精神統一を成(な)し、『法華経』『中論』
『大智度論』を中核の理論にすえて中国天台宗の教義をつくりあげた。

 止観を学習する門弟たちのために次のように説いている。
「正しく止観を修めるということは、心を観想(かんそう)するのに、
十乗観法を実践することである。

は、現在の一念が、三千のもろもろのものをそなえる不可思議の妙境で
   あることを観想する観不可思議境。

は、慈悲心を起こし人々を救済しようとする起慈悲心。

は、止観を実践して巧みに心を安んじる巧安(ぎょうあん)止観。

は、あまねく執着を破る破法遍。

は、絶対的真理に通達するものと、それを妨(さまた)げるものを弁別
   し、得失を明確にする識通塞(しきつうそく)。

は、さとりを実現する智慧を得るための過程を、行者の資質に応じて
   適宜に用いる修道品(ぼん)。

は、具体的な実践によってこれを扶(たす)けとし、さとりの妨げにな
   るものを取り除く対治(たいち)助開。

は、凡夫の位にあって、聖者の位にのぼったといった慢心を起こさぬよ
   うに、自らの修行の段階をよく知る知次位(ちじい)。

は、自己の心にかなうことも、かなわぬことにも心が左右されないよう
   にする能安忍。

は、真実のさとりでないものに執(と)らわれることなく、さらに真実
   のさとりに入る無法愛である」と。

「最初の、心は不可思議の境界(きょうがい)と観想する、というのは、
一心に十の真理の世界をそなえることである。一つの真理の世界に、十の
真理の世界をそなえれば、百の真理の世界がある。その一つ一つの世界に
三十種の世間をそなえれば、百の真理の世界には三千種の世間をそなえる。

この三千の世界は一念の心にある。つまり一瞬の念慮(ねんりょ)のうち
に全宇宙のすがたがそなわることになるのである。
 もしも心がなければ、すべてがない。ごくわずかでも心があれば三千の
世界をそなえていることになるのである。

 また、心が前にあり、すべてのものが後にあるとは言えない。また、す
べてのものが前にあって、一心が後にあるということもできない。
 仮(かり)に一心からすべてのものが生ずるという考え方をすれば、そ
れは縦(たて)の関係である。反対に、心が一時にすべてのものを包含し
ているとすれば、これは横の関係である。

 縦の考え方もよくないし横の考え方もまたよくない。心はすべてのもの
と同一であり、すべてのものは、そのまま心なのである。だから心は縦で
もなければ横でもない。一でもなく異なったものでもなく、譬(たと)え
ようもなく神秘で、認識することが困難で、言葉で説明することができな
い。だから不可思議の境界とする意味は、ここにあるのである」と。

「もしも、一心は一切心であり、一切心は一心であり、一にあらず一切で
もない、一の感覚領域は一切の感覚領域であり、一切の感覚領域は一の感
覚領域であり、一にあらず一切ではない、一の衆生は一切の衆生であり、
一切衆生は一の衆生であり、一でなく一切でもない、と理解するならば、
あらゆるものすべて、みなこれらは不可思議の境界である。

 もしも、万有の不変なものと、無明(むみょう)----根源的な無知、とが
合わさって、あらゆるものに五蘊(ごうん)・十二処十八界・・・・・・
五蘊(ごうん)=色(しき)受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)識(しき)、
十二処(じゅうにしょ)=六つの感覚器官と、その六種の対象、
十八界(じゅうはっかい)=六つの感覚器官とその六種の対象と、そこ
 にはたらく六つの識別作用)

 ・・・・・・などがあるというのは、これは俗諦(ぞくたい)------世間的な
真理にすぎない。あらゆる感覚と認識は、一なる真理の世界であるという
のが真諦(しんたい)------最高真理である。

 一つにあらず、あらゆるものにあらず、としているのが、すなわち中道
(ちゅうどう)第一義諦(ぎたい)である。
 一つのもの、あらゆるものとはこれは因縁所生(しょせい)------原因
と条件によって生ずるところのものであって、これを仮名仮観(けみょう
けかん)とする。もしも、あらゆるものは結局一つのものであるとすれば、
私が空(くう)と説くところのものであって、空の観想である。

 もしも一にあらず、一切にあらずとすれば、これは中道の観想である。
一の空が一切の空であるとすれば、仮(け)=現象と、空という矛盾する
ものを高い段階で統一し解決する中道に、空でないものはなく、すべて空
の観想である。一の現象が一切の現象であれば、仮=現象と空を止揚(し
よう)した中道として仮でないものはなく、すべて仮(け)の観想である。

 一の中道が、一切の中道であれば、空・仮として中道でないものはなく、
すべて中道の観想である。すなわち『中論』で説く不可思議なる一心三観
------すべてを空と観じ仮と観じ、空も仮も一者として観じる方法である。

 因縁によって生ずるところのものとは、それは仮(かり)の方便(ほう
べん)によって相手に応じて説いたものであって、全智が他を導くための
仮の智慧である。あらゆるもの、一つのものを空であると説くのは、つま
り佛が自らのさとりのままに説く智慧が、そのまま全智だからである。

 もし、一つでなく、すべてでないというのが中道の意味であるというの
であれば、それは仮(かり)の智慧でも真実の智慧でもなくて、あらゆる
ものの平等を建前として、差別を認識する智慧にほかならない。つまり、
一つの仮の手段として設けたものは、あらゆる仮の手段であって、一つの
不変なる真実はあらゆる不変なる真実であって、すべてが仮の手段として
設けられたものでもなければ、不変なる真実でもない。

 あまねくすべてにわたってそれは不可思議な三智である。
 相手に応じて説いたものというのは、つまり佛が相手に合わせて分かり
やすく説いた言葉である。佛が自らのさとりのままに説く智慧というのは、
相手にかかわりなく、佛が自らのために説く言葉である。
 仮(かり)の手段でもなく、不変の真実でもないというのは、佛が自ら
のさとりのままに説いたものでもなければ、相手に応じて説いたものでも
ない。
 佛の言葉は、すべてにわたってさとりの真理を順々に説く教えと、ただ
ちに説く教えと、相手の素質によって理解させる教えとがある。

 もしも、さとりの真理をただちに説く教えを理解すれば、佛の心を理解
できる。もしも次第にさとりに導くために説く教えを理解すれば、あらゆ
るものの心の在り方を理解する。もしも相手の素質によって理解の仕方が
ちがう教えを理解すれば、この世は来世への通過点にすぎないことを理解
する。
 これらの意味するところはみな同じである。
 佛道を修行する者の規範を三法(教えと、実践修行と、修行によるさと
り)といい、めざすところを、三つの真理(空・仮(け)・中)とし、その
手段を三つの観想とし、空観(くうがん)、仮観(けがん)、中観(ちゅうがん)
の成就(じょうじゅ)を三つの智慧とし、他の者を教えるのを三つの言語と
いい、教えに帰一(きいつ)するのを三つのおもむきという。この意味を
会得(えとく)するならば、すべてみな教えを成就する。少々煩雑(はん
ざつ)であるが、さまざまな真理の教えを味わってほしい」と。

 この一道無為(いちどうむい)の住心(じゅうしん)には、二種類の意
味がある。浅略(せんりゃく)と深秘(じんぴ)とである。浅くして略し
たところの部分は、すでに説明したとおりである。
 深くして秘するところの意味は、次に説く真言門の意味がこれである。

 つまり、一道無為住心として説いている教えは、観自在菩薩の瞑想(め
いそう)の教えである。だから観自在菩薩は、手に蓮華(れんげ)をとって
一切衆生(いっさいしゅじょう)----生きとし生けるもののすべての身体
と心は、本来清らかであることを表現している。

 根源的な無知によって生ずる貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、癡(おろ)
かさの泥のなかにはまりこんで、六趣四生----六つの迷いの世界やいろんな
姿の生きものに生まれ変わるといった、けがれた世界を往(ゆ)き来したと
しても、それに染まることなく、汚(けが)されないことは、あたかも、
泥の中から咲き出た蓮華のようだ、と観自在菩薩は示しておいでである。

 この、衆生の心身が本来清らかである、ということを踏まえて、一道無
為と名づけたのである。一道はまた一乗に通じ、いわゆる佛乗である。
乗(じょう)は、よくものを乗せて運ぶということにちなみ、道とはよく
開通するものという意味にちなんだものである。


   孤児の娘が観音像に祈り 福分(ふくぶん)を授かった縁
                   「日本霊異記」より

 奈良の右京(うきょう)、殖槻(うえつき)寺のほとりの里に、孤児の
娘が住んでいた。
 両親が存命中は、なに不自由ない豊かな暮らしぶりであった。宏壮な邸
宅のほかにたくさんの倉が立ち並び、母屋から離れたところに佛殿(ぶつ
でん)まで造って、身の丈(たけ)二尺五寸の観音菩薩像を安置して、家
族で大切に供養していた。

 ところが聖武天皇の御世に、父母が相次いでみまかってしまった。
 そのときを境に、娘に不幸が見舞った。家の使用人たちは櫛の歯をひく
ようにみんな逃げ散り、数多くいた家畜も、世話をする人間がいなくなっ
たため、すべて死んでしまった。
 思いもよらず、両親を失い、財産を失い、使用人からも逃げられ、広い
屋敷にたった一人取り残された娘は、どうしてよいか分からず泣き暮らす
毎日だった。

 そんなあるとき、観音菩薩が人の願いを、なんでもよくお聞き入れにな
ることを聞き込んだ。早速実行にうつす。
 佛殿の観音像の御手に紐をかけて引き、花香油(けこうゆ)を供えて、
一生懸命に福分(ふくぶん)を願った。
「観音さま、私はこの家の一人娘ですが、いまは、父も母もいない孤児に
なってしまいました。おまけに財産も、頼る人もなく、これからどうして
生きてゆけばよいか分かりません。どうか観音さま、私に福をお授けくだ
さい。早く、それもできるだけ早く、おねがいです」と、日夜涙ながらに
祈った。

 この里に、裕福な男が住んでいた。男は妻に先立たれ独り暮らしであっ
た。かねてから娘に好意を寄せていた男は、この時とばかり仲介人をたて
て、娘の意向を確かめさせにやる。
「私は、いまとても貧しくて、身にまとう着物さえこと欠く始末です。ど
うして晴れがましく結婚などできましょう」
 仲介人の口から娘の気持ちを聞いた男は、
「現在娘が貧乏していることも、食うに困っていることも百も承知の上だ。
ただこのわしと、夫婦になる気があるか、ないか、そのことだけ分かれば
よいのだ」と、仲介人をもう一度娘の所へやる。

 娘はしかし色よい返事をしない。業を煮やした男は、娘の家に押し掛け、
とうとう強引(ごういん)に娘と夫婦の契(ちぎ)りを結んだ。
 その夜から三日間雨に降りこめられて、男は娘の家に逗留(とうりゅう)
した。三日目の朝、男が娘にいう。
「ああ、腹がへった。飯を食べさせてくれないか」
「はい」と言ったものの、むろん米などありはしない。かまどに立って、
火を起こし、からの土鍋を見て長嘆息し、しばらく思案していたが、ふと
思いついて、口を漱(すす)ぐと佛殿へ入った。そして観音像にかけた紐
を引きながら訴える。
「観音さま、私に恥をかかせないでください。速やかに福を施しください」
と祈った。
 すると表の門を叩く人がいる。出てみると隣家の乳母(うば)だ。大櫃
(おおびつ)にいろんなご馳走が旨(うま)そうににおっている。それを
差し出しながら乳母がいう。
「お宅の客にこれを差し上げるよう、ことずかったのでお持ちした」
 喜んだ娘は着ていた着物をぬいで乳母に与え、「あいにくお返しする物
がありません。せめて私のこの普段着なりとも受け取ってください」と、
感謝のしるしとした。
 さて、隣からの頂き物の料理を男の前にひろげて勧(すす)めると、男
は食事をよそに、娘の顔を不審気(ふしんげ)に見守るばかりであった。

 翌日男は帰って行き、大量の絹や米を娘の許に送ってきて「絹で衣服を、
米で早く酒を造れ」と言ってよこした。
 娘は隣の家を訪ねて、昨日のお礼を述べた。
 ところが隣の女主人は、
「あんた、何をわけの分からぬことを言いなさるか。そんなことは、私は
まったく知らん」という。
 乳母に問うと「私も知らない」という。首を傾(かし)げながら、家に
帰って、佛殿に入ると、昨日、乳母に呉(く)れてやったはずの着物を、
観音像がちゃんと着ているではないか。ここで分かったのだ。観音さまの
ご霊験のあらたかさを……。
 それから娘はいよいよ観音さまを大事に敬(うやま)い、夫婦睦まじく
幸せに恵まれて天寿を全うしたということだ。

前稿/其の十三(97/08)次稿/其の十五(97/10)


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