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十住心論四季の閑話 月刊「観自在」8月号掲載

 弘法大師著「秘密曼荼羅十住心論」より 其の十三 

                           観自在編集部


第八住心(じゅうしん)「一道無為心(いちどうむいしん)」

 第七住心の、空(くう)の世界を超えると、次は、あるがままの絶対真
理の世界がひらけてきます。それが一道無為の世界です。
 一道は一実中道(いちじつ ちゅうどう)のことで、一実は絶対にして
真実なるもの、中道は、相対矛盾を飛び越えた立場、無為(むい)は、原
因、条件によって生ずる相対的な世界を脱却したもののことで、いずれも
法華一乗の教えが明らかにする、心のありかたのことです。つまり、これ
は天台宗の説く教義です。

 そもそも孔子は、人の践(ふ)みおこなうべき五常を中国全土に説き、
釈尊はインドに生まれて大乗(だいじょう)を三草(人乗・天乗の小草、
声聞・縁覚の中草、菩薩の上草)の三つに区分して説いた。
 ところが迷妄(めいもう)な人々は、現前の暮らしに執着し、孔子の説
く道を無視して勝手気ままに日を送り、無知な人々は、釈尊の説法から座
を去って帰って来なかった。
 ただ道理をわきまえ、向上心に燃える者七十二人は、孔子の教えにした
がってよくその学問を究め、一万二千の聖者は、釈尊の口ずからの説教を
信じた。

 このように人間は、自分を正しく律する善い手本や師がそばにあっても、
おいそれと見習おうとはしない。声聞・縁覚の二乗や、菩薩の三乗の者は、
容易に佛一乗の教法にしたがわないのである。
 だから釈尊は、成道(じょうどう)ののち二十一日間、菩提樹の下で観
想(かんそう)し、四十年間、大乗の教えを受けるだけの素質のある者を
待った。
 つまり、初めに、苦・集・滅・道の四つの真理を説き、ついで大乗経典
を説いて、個体存在(人)と存在要素(法)との汚れを洗い、やがて法華
経を説いたのである。

 それは法華経の教えによる精神統一の瞑想(めいそう)にはいって、本
来人間にそなわる徳性は汚れに染まらないことを確認し、眉間(みけん)
の白毫(びゃくごう)から光を放って、完成された智慧の実体をあまねく
照らしだして見せる。
 こうしたありさまは、二乗、三乗をひとまとめにして大乗に収斂(しゅ
うれん)させ、佛(ほとけ)の智慧の深く大きなことを讃え、佛の本来有
する永遠の生命永遠のさとりを得ていたまうことを指し示す。

 大地より湧(わ)き出した宝塔が空中高くのぼり、多宝如来と釈迦如来
が同座して、佛が法華経を説かれたとき、この世界はゆれ動いて裂け、そ
こから百千万億の菩薩が一時に現れ、佛を讃えた。
 すぐれた法華の実践者は、砂地が水を吸うように、法華一乗をよく理解
したが、二乗を信じていた舎利弗(しゃりほつ)は、法華の真理を聞いて、
わが佛は悪魔の代弁をしているのではないかと耳を疑い、佛に等しいさと
りを得ている弥勒菩薩は、地中から現れた年老いた菩薩に向かい、佛が、
我が弟子と呼ぶので、子である弟子の年齢が、父である佛より老齢なのを
怪しんだ。
 それはともかく、このようにして佛は、佛の本望(ほんもう)である唯
一真実の道理を開陳(かいちん)され、法華一乗という無二の実践が、こ
こに至って初めて満たされたのである。このようなわけで法華一乗は、道
の途中で行きなやむ声聞、縁覚を救出して佛の許へみちびかれた。

 法華の教えをみずから実践し、みずからそれに近づいて心身を憩わせ、
十種の如是(にょぜ)は止観(しかん)をおこなう宮殿である。

(止観を十個の如是を安置する宮殿にたとえる。十如是の観想にもとづい
ておこなわれるのが止観。
 止は想念をとどめて心を一つの対象に集中し、観はそれによって正しい
智慧を起こして対象を観想すること。
 如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、
如是報、如是本末究竟。あらゆる存在には真実相の十種の如是があること
をいう)。

 常寂光土の多宝如来と釈迦如来は、認識対象と認識主観を融合させて心
の本性を知見し、応化身(おうけしん)の佛たちは、佛菩薩が起こす実践
への誓願(せいがん)にしたがって、生きものの素質に応じ、それぞれ異
なった姿で現れる。
 寂(じゃく)にしてよく照らし、照にして常に寂である。それは、あた
かも澄み切った水が、くっきり事物を写しだす作用とよく似ている。つま
り認識対象は、さとりの智慧であり、さとりの智慧は認識対象にほかなら
ないことを知るのであるだからこの住心を無境界−−認識対象たる客観の
ない世界という。
 すなわちそれは、ありのままにみずからの心を知ることで、これを菩提
(ぼだい)と名づけるのである。

 だから、大日如来が秘密主に告げていう。
「秘密主よ。菩提とはなにか−−といえば、ありのままにみずからの心を
知ることである。秘密主よ、しかし、この無上にして、正しいさとりは、
得ようとしてもなかなか容易に得られるものではない。
 なぜか。虚空のすがたが菩提のそれだからである。知る者もなければ、
菩提というものを、よく教えさとす者もいない。
 なぜか。菩提はかたちが無いからである。秘密主よ。すべてのもの、諸
法には、かたちが無い。つまり虚空のすがただからである、と−−。
すると秘密主が、また佛に質問する。

 世尊よ。どのようにして全智を求めることができましょうか。どのよう
にして菩提を求めて、正しいさとりを完成することができましょうか。
どのようにして、あの全智の中の智慧である絶対智を起こすことができま
しょうか、と。

 佛のいわれるに、秘密主よ。みずからの心において菩提および佛の全智
を求めるのがよい。なぜかといえば、みずからの心は本性として清らかだ
からである。心は、身体の内にも外にもない。
 また、心はその内外の中間にも得ることはできない。秘密主よ。佛のさ
とりは、青でも黄でも赤でも白でも紅でも紫でも透明色でもなく、長くも
短くも円でも四角でも、明でも暗でも、男性でも女性でもない。
 秘密主よ。心は欲望のはたらく世界と同じ性質のものでもなく、物質的
世界のそれでもなく、精神的世界のそれでもない。秘密主よ心は、眼のは
たらきの領域になく耳、鼻、舌、身、意のはたらきの領域にもなく、見る
ものでもなく顕現するものでもない。なぜか。虚空(こくう)のすがたと
同じ心は、いろんな思慮と無思慮とを離れたものである。

 なぜならば、虚空と同じであるから、みずからの心は、そのまま真実世
界の心と同じなのである。
 その本性が、真実世界の心と同じだから、それはそのまま菩提と同じな
のである。このように秘密主よ。心と虚空と菩提との三つは、同じ一つの
ものである。

 これらは、大いなる慈愛を根本とし、他の者を救う方便(ほうべん)、
手段の実践とする。だから秘密主よ。わたしがこのように教えを説くのは、
つぎのような理由による。
 すなわち、あのもろもろの菩薩たちをして、菩提を求める心を清らかに
し、この心を伝えようとする願いからである。もし、善き若者、また、善
き女性が菩提を知ろうとするならば、このようにみずからの心を知るべき
である。

 秘密主よ。どのようにして自らの心を知るかといえば、あるいは区切り、
あるいは色彩、あるいは形態、あるいは境界(きょうがい)、または色・
受・想・行・識(存在一般、感受作用、概念作用、構想作用、認識作用)、
または自我、または自己所有の観念、または把捉するものまたは把捉され
るもの、または清浄(しょうじょう)、もしくは存在の構成要素、もしく
は感覚領域、ないし一切の区切りの中に求めようとしても、求められるも
のではない。

 秘密主よこれは菩薩の清らかな菩提を求める心をもって、最初の真理を
明らかにする実践というものなのだ、と−−。
 解説すると、かたちなく、虚空のすがた、青でもなく、黄でもなく……
などという経の言葉は、ともに、これこそ第八住心の真理そのものを法身
(ほっしん)とする佛の絶対真理、すなわち「一道無為」の真理を明らか
にしたものである。
 佛はこれを説いて、真言の世界に到る最初の真理を明らかにする実践と
いわれ、『大智度論』には佛道にはいる初門としている。
 佛道とは、永遠不滅の宮殿に住(じゅう)す大日如来曼荼羅(まんだら)
の佛を指す。

 もろもろの顕教においては、これが究極の理法と智慧との法身であるが、
真言の教えにしたがえば、これはまだ初門にすぎない。そのことは大日如
来および龍猛(りゅうみょう)菩薩が、ともに明らかに説かれているから
疑う余地がない。

 また『大日経』住心品(ぼん)の以下の文に、いわゆる空性は、感覚器
官と対象とを離れて、かたちもなく境界もない。いろんな正しくない無益
な言論を超えて、虚空に等しい。迷いの世界、さとりの世界を離れ、もろ
もろの造作を離れ、眼、耳、鼻、舌、身、意を離れるというのは、またこ
れは理法の法身をあきらかにしたものである。

 善無畏三蔵は説いている。−−真言の実践者が、この心に住するとき、
釈迦牟尼佛の浄土であるこの現世が、そのまま永遠の佛国土となることを
知り、佛の寿命が長くはるかにして、本来の地に住する身が、地中より湧
きいずる上行菩薩たちと、一つところで一緒に会うのを見る。
 初門を修めた者は、人々を救うために現れ、たとえ佛とひとしくても、
地中より湧き出た一人の菩薩さえも知らなかった。だからこのことを秘密
と名づけた、と。このわけをさとる佛をまた、常寂光土の毘盧遮那佛(び
るしゃなぶつ)という。


   法華経の不思議な現象を示す縁 「日本霊異記」より

 昔、大和(やまと)の国に、法華経を常に読誦(どくず)して修行する
男がいた。男は生まれながらにして利口で、八歳になる前から、すでに法
華経を諳(そら)んじていたが、なぜか、一箇所だけどうしても覚えられ
ない部分があった。
 少年の頃ならまだしも、二十余歳になっても、法華経の一部にぽっかり
穴があいたように覚えられないので、観音菩薩に懺悔(さんげ)して、す
がった。
 ある夜夢を見た。夢の中の人が男にいう。「お前は前世、伊予の国の和
気郡(現温泉郡)の日下部(くさかべ)家の子であったとき、法華経を読
誦していて、お経の一部を火に焼いた。それで今のように不自由なことに
なったのだ。行って確かめてくるがよい」

 夢から醒めた男は、そのことが気にかかってしようがない。とうとう両
親に、「急な用事ができたので、伊予へ行ってこようと思います……」と、
旅に出た。
 はるばる伊予にたどりつき、日下部家を訪ねあてると、門をたたいた。
出てきた下女が、男を見てはっとする。あわてふためいて家の中にとって
返し、その家の夫人に告げる。
「奥様、ただいま、門の外にお客様がみえましたが、そのお客様が、亡く
なった息子さんにそっくりなんですよ」
 夫人が半信半疑で門に出てみると、たしかに先年亡くなったわが子に瓜
ふたつなのである。遅れて出てきたその家の主人も、あまりに息子に似た
男の容姿に驚く。
「あなたは、どこの誰だね」
「私は大和の国の何某(なにがし)と申しますが、お宅のご子息のお名前
は何某とおっしゃいませんでしたか。じつは……」と、男が見た夢の話を
すると、日下部家の主人は、全くその通りだとうなずいた。
 さてはこの人たちが前世の我が父母であったかと、男はその場に膝まづ
いて老夫婦を仰いだ。
 主人は男の手を取って客座に招じ入れ、死んだ子が帰ってきてくれた、
と涙を流す。
 そして「お前が暮らしていた部屋はここで、読んでいたお経がこれ、水
瓶があれだよ」と、あれこれ教えてくれる。
 その部屋に入り、男がその法華経を手に取って開いてみると、これまで
暗唱できなかった文字の所だけ、ちょうど火に焦げて焼けおちていた。
 男はそこで、経の文字を焼いた過(あやま)ちを佛に向かって懺悔(さ
んげ)し、元通り丁寧に直すと、こんどはすらすら経を読誦することがで
きるようになった。
 男は前世の両親と顔を見合わせて、世の中には不思議なことがあるもの
と、大変に喜びあった。

 賛(さん)にいわく、善きかな、日下部氏。経を読み道を求め、過去と
現在二つの世にわたって、二人の父につかえ、美(よ)き名を後世に伝え
るこれこそが聖というもので、凡でない証明であろう。それもこれも尊い
法華経と、観音菩薩のお力のたまものである。
 善悪因果(いんが)経にいう。
 「過去の因(いん)を知ろうと思えば、現在の果(か)を見よ。未来の
報(むく)いを知ろうと思えば、現在の業(ごう)を見よ」とは、けだし、
このことである。

前稿/其の十二(97/07)次稿/其の十四(97.8/7)


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