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 してあげる・させて頂くとの相違を考える ----1999年6月        月刊「観自在」巻頭の言葉より  住職/高田寛恵  僧侶が行動する場合に、してあげると思うなら真面目でない。 させて頂くと感謝の気持ちですることが大切だと思っている。  行為の結果が同じでも、する方法が同じでも、心の動きがどうで あるかが僧侶の努力。  み佛さまにお花を供えたり、お佛飯(ぶっぱん)を給仕(きゅう じ)したりする際に、してあげるなんて思い上がってはならない、 有り難い佛縁(ぶつえん)を頂いて寺に居させて頂き、その境遇を 有り難いと感謝し、掃除をしたり、お給仕をすることに心の底から 湧き出ずる喜びがなくてはならない。  お寺と「接待」は付き物であるが、信徒さんに何かをすることは、 させて頂くことであり、してあげることではない。  接待はさせて頂くことであり、喜捨の考え方がないと恩きせがま しく、対価を期待する商行為と同じことになる。  接待は信徒さんに喜ばれることをしなければならない。しかし、 それは人集めであってはならないし、人気取りであってもならない、 心の底から自分の喜びとしてすることに大切な意味がある。  身近に金銭を例にとれば良く理解できる。僧侶がお金を貸してあ げることはない、何故なら貸すことは返済を約束させてのことであ り、其処には喜んで貸させて頂くということは考えられない。  世の中は貨幣経済であり、僧侶といえども若干のお金を持たなけ れば電話も掛けられないし、電車に乗ることも出来ない。僧侶が持 つ金銭は信徒さんが世のため人のため、み佛さまの給仕に使ってほ しいと委託されたものであり、借用書と引換えに貸し出せるような 性質はかりそめにもない。  何かに付けて、させて頂く気持ちで行動をしたい。 喜んでさせて頂く 僧侶は布施によって寺に居て、打出の小槌をもっているわけでもな く、金の成る木をもっているわけでもない。僧侶が喜んでさせて頂 く行為に金銭貸借と保証は含まれない。僧侶は無理を言われて、喜 んで出来ないことをすると、その時は僧侶ではない。
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