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佛教談義(ぶっきょうだんぎ) その二十五 霊魂は不滅?   寅さん 私たち人問の霊魂というものは、この身が死ぬと同時に、 消滅してしまうのか、それとも、肉体は死んだとしても、霊魂だけ は消滅することなく、ずっと未来まで、どこかにあり続けるものな のか、どちらでしょう? ご隠居 霊魂を、佛教では阿頼耶識(あらやしき・基底的潜在意識) という。また、神識とも、単に心ともいうことがあるが、ふつうこ れを霊魂と言っている。  以前にもたしか話したと思うが、人間は、肉体が消滅すると同時に 霊魂も消滅すると考えるのは、いわゆる断見(だんけん)で、まち がった考え方だ。  また、この身は消滅しても、霊魂は肉体から離れて、消滅するこ となく未来へ移り、業(ごう)と一緒に六道のなかをさまようとい う考えも、肉体は断見を起こし、心に常見(じょうけん)を起こす といった断常二見を掛け持ちにする考え方なのでこれも間違いだ。  私たちは、すべて因縁(いんねん)によって私たち人間が、現在 ここに生きて在るという事実を、正視しなければいけない。  私たち人間は、身も心も、まさしく因縁から生まれたものなのだ。  これはアメリカの高名な科学者の言葉だが、生命の起源は宇宙の 小さな事故によって始まった、と言っているように、因縁によって 所生したものは、もともと風とか雲のように無自性(むじしょう) だから、なにひとつ常住不変(じょうじゅうふへん)のものは存在し ない。始めがあれば必ず終わりがある。生があれば必ず滅するな。  しかしながら、この始めと終わり、生と滅といった事柄や現象は あくまでも外見上の相(すがた)であって、その相の本体は不生不 滅(ふしょうふめつ)、無始無終(むしむしゅう)である、という。 寅さん きょうの話は、どうもややこしいですね。  始めもなければ終わりもないものが、生じたり滅したりする繙 理屈に合わないではありませんか。  なぜ、なんですか? ご隠居 実は、これはある人の話の受け売りで、その通りしゃべっ ているのだから、寅さんもそのつもりで聞いてほしい。 寅さん そういうことなら、辛抱して拝聴しましょう。 業風と波浪 ご隠居 無始無終のものが生滅(しょうめつ)をくり返す、なぜ なのか、それは業力の作用のせいだ、というのだ。  業力(ごうりき)は、心身から離れないものなので、その業力が たえまなく作用し続けて、生滅の現象を引き起こすというのだ。  これはたとえば、心身を水のようなものと仮定すると、心身の形 相は波のようなもの、心身の業力は風のようなものであるという。  海があれば、そこには必ず風が起こるし、風が起これば必ず波が 巻き起こる。そのように心身は業風によって現れたものなので、業 風の力が衰えるときは、心身の波浪もその相(すがた)を隠す。  しかし、波浪が消えて、海が穏やかになったとはいっても、海水 そのものが消えてなくなったわけではない。海水が消滅しないかぎ り、波浪はまたその相を現す。  この世と、あの世は、はっきり境界を異にしているな。  したがって、人が死んであの世にいったとき、この世からあの世 を窺(うかが)い見ることができないのは、たとえていうなら、海 が無風のときに波浪を見ることができないのと同じ理屈で、心身の 波浪が消滅するとき、波浪そのものも、ともに消滅すると考えるの は、断見だという。  なぜなら、波浪そのものが消滅したわけではなく、波浪はどこか に相を隠しているにすぎない、というのだ。  業風の大きさや強さによって、波浪はその様相が変わるもので、 人間は必ずまた人間に生まれ、動物は必ず動物に生まれると思いこ んではならない。なぜか? それは業風の大小、善悪によって波浪 の相が変わるからで、悪業が積み重なれば、人問であっても次には 動物に生まれ変わらないともかぎらない。こう考えると常見は起こ らない。  また、人間と動物はその相こそ異にしているが、同じように生滅 (しょうめつ)相続(そうぞく)して三千世界(さんぜんせかい)を 輪廻転生(りんねてんしょう)しているので断見は起こらない。  このように、この心身は本来ひとつのものなので、肉体が生滅す るときは心もともに生滅し、心の生滅するときは、肉体もまたとも に生滅する。  したがって、この心身はどこまでも密着したまま生滅をくり返す ものであるから、肉体は生滅するが、心は変化することなく常に存 在する、などと、かん違いしてはいけない。  そうはいっても、個々の生滅はたしかにくり返されているが、こ れを宇宙的視野でながめてみるとこの世界は、まちがいなく不生滅 なので、この心身が生滅するものと考えた場合は、むろん生滅して いるが、不生滅と考えれば、心身はともに不生不滅で、生じもせず 滅びもせず、まったく変化しない宇宙のなかに精神がときはなたれ るだろう、と言っている。  しかるに、そこのところを深く考えようとしない人々は、生即不 生滅(せいそくふしょうめつ)、滅即不滅という大原則を知らない ものだから、生は、何もないところから、原因もなくして突然あら われるものと思ったり、滅はまた何も無くなって、すべてが滅びつ きると思っている。  けれども、生滅というものを客観的に見た場合、それぞれは生じ たり滅したり、千変万化(せんぺんばんか)しながら移り変わって ゆくが、これを宇宙的視野でながめてみると、たしかに変化はして いるが、この世界は不生不滅であって、増えもしなければ減りもし ない。そのままである。  ゆえに、生死去来(しょうじきょらい)は人問の真実、生死去来 は諸佛(しょぶつ)の真実、生死去来はただこれ生死去来なり、と いうな。 生死(しょうじ)は佛(ほとけ)の御(おん)いのち 寅さん よく分かりませんが、それはどういうことで? ご隠居 私もよく分からないが、人間は、この世に生をうけた限り 死がすでに約束されている。そして佛様(ほとけさま)も、生死の 理(ことわり)を私たちによく伝えようと努力されている。  しかるに、佛様のおっしゃる出離生死(生き死の迷いを離れるこ と)、生死解脱(生と死の束縛、迷い、苦しみからぬけだし悟りを ひらく)などの教えを聞き誤って、佛法を修行する者は、この生死の 問題を、履き古した靴を捨てるごとく、なんの未練もなく処理して しまうのが正しいと考えているのが、声聞(しょうもん)、縁覚(え んがく)の小乗佛教である。  そして、これと対照的に、生死のことに強く執着するのが、いわ ゆる「凡夫」の考えという。  道元禅師は、こうおっしやったという。 「この生死は、すなわち佛(ほとけ)の御いのちなり。これを厭(い と)い捨てんとすれば、すなわち佛の御いのちを失うなり。佛のあ りさまをとどむるなり(佛様の存在する意義がなくなる)。厭うこ となく、慕うことなく、このときはじめて佛のこころにいる。……  また、生死は除くべき法ぞ、と思えるは、佛法を厭う罪となる。 ……生死去来真実人体(にんたい)というはいわゆる生死は凡夫の流 転(るてん)なりといえども大聖の所脱なり」とな。 寅さん これまた難しいですね。 ご隠居 つまり、この宇宙をそのまま佛様の世界と考えると、この 世に住む私たちの生き死にのことも、佛様のみ心のままということ になる。  だから私たちが、なぜ、人は生まれたり死んだりしなければなら ないのかと、その生死に疑問を感じて否定すれば、それはこの世を 否定し、佛様を否定することになる。したがって私たちは、この宇 宙の法則を素直に受容(じゅよう)し、人間もこの大自然の中の一員 にすぎないことを自覚すれば、佛の御心(みこころ)にはいれる、 というのではないかな。  さて、大乗佛教の真実を学ぼうとする者は、凡夫や小乗の見解を 超えて、生即不生、滅即不滅の道理をよく理解しなければならない という。  生即不生であるゆえに生也全機現(せいやぜんきげん)といい、 滅即不滅のゆえに死也全機現という。 寅さん なんですか、それは? ご隠居 生の時は一切が生であり、死の時は一切が死である、という ことらしい。  それは、生の時は生になりきっており、死の時は死に成り切って おるからだという。  それなのに、凡夫は生死のことに強く執着し、声聞、縁覚は涅槃 (ねはん)にこだわる。  涅槃は本来、一切の煩悩から解脱(げたつ)した不生不滅の高い 境地のことなのに、小乗は、涅槃を単に生死の問題ととらえて、こ れを除くべきことと思っている。  大乗菩薩の見解はそうではない。  つねに生死と正対して涅槃を忘れず、涅槃の境地にあって生死に 遊ぶ。ゆえに生死即涅槃、涅槃即生死なりと悟り知る。このように 悟れば、生死にあって生死に執着せず、涅槃にあって涅槃に停滞し ない。凡夫の生死は絶え間なく移り変わるが、大聖はこれを所脱し ている。超越した生死を佛の御いのちと言う。  佛の御(おん)いのちは無量寿(無限の寿命)であるために、生 滅に束縛されることがない。束縛されないので生死解脱とも、出離 生死とも、三界出離ともいう。  このように諦観すれば、断常二見の邪見などにおちいることなく 佛祖の正見に住することができる。  道理はその通りだが、これらは修め学ばなければ明らかにするこ とができないし、証して悟らなければ得ることはできない。けだし 修証顕得の境地に達しなくても、このように諦観すれば、邪見に堕 すことをまぬかれる。  そしてもし、修証顕得の境地に入れば、まさしく即身成佛、即心 是佛の人である。  佛教の安心立命(天命を悟って心を安らかにし、悩まないこと) とは、つまりこのことである。 「大智度論」にいわく、「一切世界に三種の人有り。下位の人は現 世の楽に着し、中位の人は後世の楽を求め、上位の人は道を求め、 慈悲心有りて衆生を憐愍(れんびん)す』と。 執金剛神に祈願して      佛道修行を成就した金鷲行者の話                    「日本霊異記」より  奈良の京、春日山に小さな寺があった。そこに金鷲(こんす)と いう優婆塞〔うばそく・出家しないで佛道を修める男子、ここでは 鷲(ワシ)にさらわれた故事のある良弁僧正(ろうべん・そうじょ う)のこと〕で、その寺は、金鷲と呼ばれていた。  いまの東大寺である。この東大寺が建立される前の、聖武天皇の 御世(みよ)、金鷲行者が佛道に精進(しょうじん)していたとき のことである。  その山寺に、金剛杵(しょ)を手に、佛法を守護する「執金剛神」 の塑像(そぞう)があった。行者は朝晩、その神像に縄を結び、そ れを手で引きながら一心に祈願して休むことがなかった。  あるときのことである。その執金剛神像が、突然光を放ちはじめ たのだ。そして、光は、やがて皇居にまで達した。  天皇は不思議に思い、すぐに人を出して、光の出どころを確かめ させることにした。  天皇の御使が光をたどって行くと、それは奈良京の東北、春日山 の寺から放たれており、そこに一人の行者がいた。  行者は、神像のふくらはぎに掛けた縄を引っ張って、一心不乱に 礼佛悔過(けか)していた。  御使は宮中に帰ると、見たままのことを奏上した。  天皇は、さっそく行者を宮中に召し、詔(みことのり)された。 「汝は、執金剛神に、なにが望みで祈願しているのか」と問われた。  すると行者が答えた。 「ほかに望みはございません。ただ出家して、佛法を修学すること だけが唯一の望みでございます」  ただちに得度(とくど)をお許しになった。天皇は、それとあわせ て金鷲という法名を与えられた。  そればかりか、彼のおこないを嘉(よみ)せられて、四種(房舎、 衣服、飲食、散華焼香)を供養されることとなったから、それから の彼の住む山寺の暮らしは、なんの不自由もなくなったということ である。  世問の人々も、彼のおこないを褒め称えて、金鷲菩薩といって、 たいへん崇めたそうである。  光を放ったというその執金剛神の像は、いま東大寺の、不空羂索 (ふくうけんざく)観世音像を本尊とする三月堂の、北の入口に安 置されている。  賛(さん)にいわく、 「善きかな、金鷲行者。信仰のともしびを春に点じ、盛んな焔(ほ のお)を秋に上げて燃やす。 〔若年に信仰に入り、逐年、信仰 心を高揚させる。〕  腫(はぎ)から輝きでた光は、佛像が人を感化する力をたすけ、 天皇はつつしんで佛像感化のありさまを具現された」  一心に祈願して、ねがいごとが果たされないことはない、という のは、こういうことを言うのであろう。 良弁〔689−773〕奈良時代の僧侶、日本華厳宗の第二祖。  二歳の時に母と桑畑にいて鷲にさらわれて、二月堂の杉の木にお かれ、僧義淵(ぎえん・法相宗)に育てられたとの伝説。東大寺 建立に尽力、初代別当。金鐘行者、金鷲菩薩ともいわれる。
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