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仏教談議(ぶっきょうだんぎ)  平成13年・2001年10月号   [仏教談議9月号][11月]
   −いたわり 慈しみ 思いやり 相手の立場で考える

仏教談義(浮世根問・うきよねどい ねんだくり)その四十六

若々しい隣りのご隠居、聞きたがり屋の隣りの寅雄さん、です。
※「佛教談義」では、仏教でかつて一般にいわれてきた教養的なことが らを、二人の対談の形式ですすめています。 因果応報(いんがおうほう)の理(ことわり) 隣の寅さん この佛教談義のページでもとりあげる、いわゆる佛教 説話にかならずといっていいほど出てきたテーマに因果応報(いん がおうほう)----善因(ぜんいん)には善い結果があり、悪因には 悪い結果があるというように、それぞれのおこないに応じて必ず報 (むく)いがある----に関する話がありましたが、そこで私には、 どうしても腑(ふ)に落ちない疑問があるんですが・・・・。 隣のご隠居 ほほう、なんだろう?  因果の理は、原因があれば 結果があり、結果があれば原因あり、生滅変化するというものだが。 寅さん かりに植物でしたら、種子をまけば芽を出し、季節の経過 につれて成長の過程がそのつど目に見えるわけです。  ところが、佛教のいう因果応報の仕組みとなると、前世(ぜんせ) の善悪業因(ごういん)が今世にあらわれる、と説かれてはいたも のの、そのぐあいがどのような有り様で、どんな仕組みになってい るものか、具体的に目に見えるものでもないし、これがそうだ、と、 はっきり自覚できるものでもないでしょう。  だから因果応報というのは、人間の恐怖心をあおって悪いことを させないための一つの方便(ほうべん)ではなったかと思ったりす るんですが、いかがでしょう? ご隠居 日ごろから信心ぶかい寅さんにしては、たいへん愚にもつ かぬ質問だな。なぜ、因果応報(いんがおうほう)が信じられない? 寅さん 因果応報は、実のところ半分は信じているんですが、では その因果応報の決定をくだす実行者は「だれ」なのか、善悪のおこ ないに応じて判断し、むくいを取り仕切る、そういった立場のもの が存在するのではないかと、ふと思ったりしたものですから、ご隠 居に訊ねているんです。  たとえば冥土(めいど)には、亡者の罪悪の軽重を取り調べて、 何々の地獄送りと処分する閻魔大王がいるでしょう。 ご隠居 人間の罪を裁くのは、なにも冥土にかぎったことではない。  キリスト教、イスラム教の神々も人間の罪悪をお裁きになる。  それはキリスト教もイスラム教も、彼らの信仰する神様が、全知 全能の絶対神であるからだ。   そこへゆくと我々、佛教の諸佛諸菩薩はけっして人間を罰したり はなさらない。  ほとけさまは、人間を罰したり裁いたりして、われわれ人間に畏 怖心(いふしん)を与える態度で接するかわりに、慈悲喜捨(じ・ ひ・き・しゃ)の四無量心(しむりょうしん)によって、やさしく 救済の手を差し伸べられる。 寅さん 四無量心? ご隠居 これは慈・悲・喜・捨の四種の量りしれない心のことで、 「慈」は楽を与え、「悲」は苦を除き、「喜」は他の者が楽を得る のを喜び、「捨」は他の者に対してすべて心が平等であること、こ れを四無量心という。  そんなわけで佛教には、人間の罪を罰したり裁いたりする権限や 立場の主宰者とか執行者は存在しない。善の報いはあくまでも自分 がなしたことは自分に返ってくる、自業自得(じごうじとく)だ。  自分のなした善業は知ると知らずにかかわらず、めぐりめぐって 自分自身に福運として返って来たり、親しい人に幸運としてめぐら されたりすることもある。  佛教は、因果応報はどこまでも「無我(むが)」だと教えている。 この場合の「我」は主宰を意味しているから、つまり無主宰、因果 応報の執行者はだれも居ないということになる。 来世に生まれる 寅さん なるほど。佛教というのは、キリスト教などとくらべて 表面的には優しそうですが、ほんとうは厳しいところがありますね。 ご隠居 どうして? 寅さん キリスト教は全知全能の神様が、人間の犯す悪に目を光ら せているから一見怖いようですが、いくら神様だって一つや二つ、 目こぼしがあるでしょう? そこへゆくと佛教の因果応報はまるっ きり掛け値なしの自業自得ですから、ごまかしようがない----。  で、自業自得のその先は、どういうことになりますんで? ご隠居 うん。前世の造業(ぞうごう・前世につくった業因)が一 つの種子となって今生(こんじょう)の身にあらわれる、とかつて いわれていた。  それがどういうものかというと、それは各人が、心に深く蔵して いる根本、阿頼耶識(あらやしき)というものの行方しだいによっ て決まるといわれた。 寅さん 阿頼耶識? ご隠居 これはつまり、人間のいちばん根底にある潜在意識とでも いえばよいかな。  この阿頼耶識のことを中有の心身とも、中有の五蘊(ごうん)と もいうそうだ。 寅さん 何ですか、その中有(ちゅうう)というのは? ご隠居 中有というのは、人間がこの世からあの世へ行く途中の世 界のことのようだ。  また、人の死後四十九日間は、死者の魂がまだこの世界にとどま り、さまよっているような状態のことをいっているようだから、中 有の心身、中有の五蘊というのはその人が生前に備えていた五つの 感覚、つまり眼・耳・鼻・口・肌の五感と、それに根源的な潜在意 識とが一つのセットになって、つぎに生まれる機会をじいっと待っ ている----まあ、いってみれば植物の種子みたいなものだな。 寅さん ははあ、うまくできてますね。種子を蒔くと、時季が来れ ば芽を出し、実をつける。  人間も植物のように、中有の心身と、阿頼耶識のはたらきによっ て、またどこかで生命がめばえる、というわけですか。 ご隠居 そのとおり。人間も、この世に生まれいずるべき時節が到 来し、生縁(しょうえん)のさだまったとき、それぞれの父母に託 して、その種因が有する素質どおりの生命が新しく誕生する。 寅さん 桃栗柿の種を植えれば、秋にはその実が食べられる。 ご隠居 いや、人間はかならずまた人間に生まれ、動物は必ずしも 元の動物に生まれる、というわけにいかないと考えられたようだ。 寅さん それはまたどうして? ご隠居 なぜなら、植物は喜怒哀楽など情感を持たない「非情」の ものなので、一切変化することがないから、その種子どおりの植物 として芽生え生育する。  しかし人間は、良くも悪くも有情(うじょう)の最たるものだ。 前世のおこないによって来世が大きく左右されるとされた。  つまり、善悪の業力(ごうりき・果報を引き起こす原因となる力) によって、人間が六道輪廻し、あるいはまた、苦しみの地獄道や餓 鬼道に堕(お)ちないともかぎらないし、そうかと思うと、場合に よっては声聞(しょうもん=教えを聞く修行僧)、縁覚(えんがく)、 菩薩、佛の世界に生まれないともかぎらないと説かれたわけだ。  私たちは人情として「苦」を避け、「楽」のほうを望み、因果応 報などという、あるか無いか確認しようのない観念上のことについ て、つい、ないがしろにしがちだが、この教えをゆめゆめおろそか にしてはいけない、現在の日々の自らを振り返り、反省と感謝の心 をもちたいというわけだ。 寅さん 因果応報が今生のことだけにとどまらず、来世にまで影響 をおよぼすとあっては、大変だ。 ご隠居 だから、お釈迦様は、私たちに教え諭しておいでになる。  転迷開悟・離苦得楽(てんめいかいご りくとくらく・迷いを転 じて悟りを開き、苦しみを離れて楽を得る)とな。 自性法界宮(じしょうほっかいぐう)に在します大日如来 寅さん 諸佛諸菩薩のすべては、大日如来の化身(けしん)、化現 (けげん)であるといいますね。 だとすると、不動明王や観音菩 薩は、大日如来さまの化身としてどんな役割をはたしておいでにな るのでしょうか? ご隠居 不動明王は、大日如来の命を受けて、忿(いか)りの相を あらわし、ほとけの教えを守護しておいでだし、観音菩薩は慈悲の 化身(けしん)として私たち衆生(しゅじょう)に慈悲をそそぎつ づけていらっしゃる。 寅さん では、大日如来は、どこに、どうしておいでなのですか? ご隠居 大日如来は法身(ほっしん)だから、その御身は三世十方 (さんぜじっぽう)----過去より未来にいたる宇宙の隅々(すみず み)まで、あまねく満ち満ちていらっしゃるという。  言い換えると、大日如来は、宇宙間にあるすべてのものの実体で あり、永久不変かつ現実そのものである真理なのだ。したがって、 大日如来を六大法身(ろくだいほっしん)ともいうな。 寅さん 聞いたことがありますが、六大というのは何でしたっけ? ご隠居 六大とは、万物をかたちづくる六種の根本実体、すなわち 地・水・火・風・空・識のことだ。  大日如来というほとけさまをこのように考え、解釈すると、私た ち人間を含めて六道の衆生はもとより、月も太陽も、そしてはるか 宇宙の果てまでも、すべて大日如来の化現(けげん)であるといっ てもまちがいではない。 寅さん そんなふうに話が遠くに飛躍すると、つね日ごろ心の拠り 所として頼りにしている大日如来さまが、なんだか遠くへ行ってし まわれたような、さみしい気分になりますが・・・・・。 ご隠居 信心ぶかい寅さんみたいな人には、たしかに目で見て、近 くで拝むこのできるほとけさまは必要だな。  反対にそうでない人、ほとけさまの存在を否定し、ご先祖の供養 など眼中になく、自分が何のために生き、何によって生かされてい るかなどということはこれっぽっちも考えないで、それでも平気で 人生を送れる種類の人間には、佛像など、まず無用だろう。  しかし、信仰心に厚い人にとって、ほとけさまは精神生活の中心 をしめる大きな存在だから絶対に必要だし、大切だ。  私たちはそのほとけさまの前に手を合わせて、己れの心身を浄化 したり、ご先祖の冥福を祈ったり家内安全をお願いしたり、何かの 願い事を祈願したりする。  そういう祈り、願い、拝む対象として、観音院さんのご本尊大日 如来を、壇信徒であるみなさんと共有しているわけだから、あのご 本尊には、多くの心願や祈願がその仏身に克明に記録されていると も言えるわけだ。 薬餌用にしようとした魚が法華経と化した話                 「日本霊異記」より  孝謙女帝の御世、奈良の吉野の山寺に一人の僧が住していた。  毎日、熱心に佛(ほとけ)に仕(つか)えて修行していたが、 あるとき、身体がだるくて、まったく元気が出なくなった。  それで、新鮮な魚でも食べればあるいは精がつくのではないだろ うかと思って、「すまないが、どこぞで魚を需(もと)めて来ては くれぬか」と、弟子の僧に頼んだ。  さっそく弟子が、山を越えて紀伊の国の海辺まで行き、活きのよ いボラを八尾買い求め、小櫃(こひつ)に入れて帰途についた。  その道すがら、おたがい顔見知りの檀越(たにおち・檀家)の三 人連れとばったり出会った。 「これはまた、珍しい所で逢ったものだ。それはそれとして、あん たが持っている物は何かな?」と詮索がましく訊ねてきた。  まさか魚とは言えないから、 「これは法華経ですよ」と、口からでまかせに弟子が答えたものの 小櫃から魚の汁がポタポタ垂れ落ちて、においまであたりに漂って いる。  三人連れは、この小僧め。お経だなどとぬけぬけとほざきおって と、腹のなかでは思っていた。  一行が大和の国宇智の市(五条市付近)で一息入れて休んだとき 「小僧さん、あんたが持っているのはお経でなくて、魚だろ?」と 詰め寄ると、それでも弟子は、お経だと言い張ってきかない。  そんなに言うのなら、櫃の中を開いて見せてもらおう、と三人連 れが言いつのる。  弟子は、それ以上さからうことができず、とうとう櫃を開いた。  すると、どうだ。櫃の中に法華経八巻がほんとうに納まっていた のである。  これを見た三人連れは、首を傾げて弟子の前からすごすごと去っ ていった。  しかし、三人の中の一人は、それでも諦めきれず、事の次第を見 とどけてやろうと、執念ぶかく、ひそかに弟子のあとをつけていっ た。  山寺にたどり着いた弟子が、持ち帰ったボラを披露しながら、帰 途に行き逢った三人連れの檀家たちとの一部始終を、師の僧に話す と師僧(しそう)は、魚が法華経に化したとはさても面妖なことだ とは思いながらも、この魚によって身体を十分に養えと、いまだ天 は己れのことをしっかり守護してくださっておいでだと、ありがた く食膳に供したのである。  これをこっそり覗き見していたくだんの尾行者は、師僧の前に転 げ出て、ひれ伏した。 「たとえ魚といえども、高僧の食べ物ともなれば法華経と化す。  私はこれまで、愚かなうえ心がよこしまで、因果の法則を無視し 世間にさからって掟を破り、人を苦しめ悩ましてきました。  これからは、あなたを教導の師と仰ぎ、恭敬に供養いたしますか ら、どうか罪をお許しください」と、地に額をこすりつけた。  それ以後その者は、山寺の大檀越(たにおち・檀家)となったと いう。

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