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仏教談議(ぶっきょうだんぎ)  平成13年・2001年9月号   [仏教談議 8月号][10月号]
   −いたわり 慈しみ 思いやり 相手の立場で考える

仏教談義(浮世根問・うきよねどい ねんだくり)その四十五

若々しい隣りのご隠居、聞きたがり屋の隣りの寅雄さん、です。
※「佛教談義」では、仏教でかつて一般にいわれてきた教養的なことが らを、二人の対談の形式ですすめています。 延命地蔵菩薩経(えんめいじぞうぼさつきょう) 隣のご隠居 今回は地蔵経にちなんだ話をしてみようか。 隣の寅さん お願いします。 ご隠居 延命菩薩(えんめいぼさつ)が、ほとけに 申された。 「私は毎朝、明け方になると、もろもろの 定(じょう)に入り、 もろもろの地獄に入って、ほとけのおいでにならない世界で、 永劫(えいごう)に苦しむ衆生(しゅじょう)を済度(さいど) するために、今世後世にかかわらず、一心に彼らを善道に導くこと につとめております」  すると、ほとけが延命菩薩をおほめになった。 「善哉善哉(よいかな、よいかなそれがまことの善男子である。  私が入滅(にゅうめつ)したのち、汚濁(おじょく)の世界に 苦しむ衆生のことは、すべて汝に任せるから、この世も後の世も よく導いてやってほしい----」  延命菩薩がほとけに申された。 「世尊よ、ご心配なさいませぬように。私は六道(ろくどう)の 衆生の救済に専念(せんねん)いたします。  もし、必要以上に衆生が苦しみを受けていれば、私がその者の 代わりにその苦痛を受けることにいたしましょう。  そうでなければ、正覚(しょうがく・仏法の悟りを開くこと)を 得たとは言えません」云々。 「延命地蔵菩薩経」は、さらに次のように説いている。 「われ過去無量劫(むりょうこう)よりこのかた、諸々の六道の一切 衆生を見るに、法性(ほっしょう)は同体にして無始無終無異無別な れども、無明(むみょう)の異相生住異滅してこれを得、これを失 して不善の念を起こし、諸々の悪業(あくごう)を造りて六趣(ろ くしゅ)に輪廻(りんね)す。  生生世世の父母兄弟 悉(ことごと)く仏道に成じて後にわれ成仏 (じょうぶつ)せん。  もし一人をも残さば、我成仏せず。もしこの「願」を知りて二世 の所求、悉く成らずんば正覚を取らじ」と----。」 寅さん 話が急に難しくなりましたね。 ご隠居 とにかく、お釈迦さまが延命菩薩に、衆生の済度のことを 依頼されたのは、このようなものであったようだ。  ところが佛教を信じない者は、お釈迦さまのこんなに広く、温か く、やさしいお気持ちなどまるで分かろうとしない。そんなのは佛 教のついた嘘も方便だろうとか、僧侶が勝手につくった説教くさい 話にすぎないなどと、一笑に付してしまうやからが大勢いるように 思うが。そのような人は、仏法という有益な教えを理解する能力に 欠けた、まったく救いようのない人間で、人間にとっていちばん大 切な慈悲の部分の欠如した人格の持ち主と言えなくもないから、そ んな人とはあまり友だちづきあいはしたくないな。  反対に、信仰心に厚く、地蔵経等に書かれてあることを素直に信 じることのできる人は、これはまちがいなく善根の人だな。 「信」は道の元であり、功徳(くどく)の母でもある。  たとえその人に「智」がいくらあったとしても、信じる気持ちが 浅ければ、それはけっして仏法を深く理解したことにはならない。  また「智」が、かりに乏しくとも「信」が豊かであれば、佛教を 深く信心して、悪からまぬがれた事例は古今の書物にたくさんある。  ずっと以前、このページで冥府(めいふ)に赴いた金剛山矢田寺 の満米上人の物語をしたが、今回は、今生(こんじょう)よりそのま ま無間(むけん)焦熱の苦しみに責められた自業自得(じごうじと く)の話をしてみようと思う。 その人はほかでもない、だれもが 知っている平清盛(1118−1181)だ。 大仏を焼いた罪 寅さん なぜ平清盛が自業自得の苦しみを受けたんです? ご隠居 清盛は平治元(1159)年より、天下の政権をにぎって 太政大臣までのぼりつめた。それ以後二十数年間にわたって平家一 門は栄耀栄華、わが世の春を謳歌(おうか)したわけだ。  しかしながら、位人臣を極めた清盛であったが、彼の晩年はたい へんよくなかった。 寅さん それはまた、どうしてです?  清盛という人は、われわれ広島の人間には、どことなく親しみぶ かく感じられる人ですけど。 ご隠居 それはきっと、音戸の瀬戸の伝説のせいだろう。  清盛は三十代半ばごろ、安芸守でもあったからな。 寅さん あの話は、いまの音戸大橋の架かっている海峡、広島県呉 市側と倉橋島がその昔、干潮になると陸続きになって、船の行き来 に不便なので、平清盛が音戸の瀬戸の開削工事をおこなった。  そのとき工事を早く完成させるため、西に傾きかけた太陽に向か って清盛が、「日輪返したまえ」と扇をひろげて、日没寸前の太陽 を呼び戻した、というような話でしたね。 ご隠居 清盛と広島の関係は、それだけではない。  彼は、平家一門の繁栄を願って絢爛豪華な経卷を厳島神社に奉納 (ほうのう)している。  それが有名な平家納経で、法華経二十八巻と同開結二経、阿弥陀 経、般若心経、それに清盛の願文(がんもん)を加えた三十三巻か らなっているものだ。  それはそれとして、清盛の自業自得のことに話をもどす。  治承四(1180)年、後白河法皇の皇子、以仁王(もちひとお う)が、源頼政のすすめによって平氏追討の兵をあげ、園城寺(お んじょうじ・三井寺)に陣をかまえると、興福寺をはじめ奈良の各 寺院の僧兵たちが、一斉にそれに加勢した。  これに対して清盛は、彼の息子・平重衡(たいらのしげひら)に 三万の兵を与えて奈良に向かわせた。  それは十二月二十八日の夜のことであったといわれている。  重衡はその配下の下司俊方(げしとしかた)という者に命じて、 奈良坂という土地の民家に火をかけさせた。折から師走である。  強い北西風にあおられて、民家を焼いた火勢はたちまち大仏殿に 燃え移り、東大寺、興福寺の仏閣諸堂は一宇(いちう)も残らず灰 塵(かいじん)に帰してしまった。  かくして、日本一の霊場東大寺と、現世に二つとない尊像−盧舍 那佛(びるしゃなぶつ)が、このような兵火のとばっちりを被って 消失したのは、直接に手を下さなかったとはいえ、最高責任者であ る清盛のせいであるから、彼の罪はきわめて大きい。  このようなことをした人間が、何事もなく一生を終え、そのまま ときめき栄えているとするならば仏説にいう因果応報(いんがおう ほう)の理(ことわり)は根底からくずれさってしまう。  影が形にしたがうごとく、響きに声が応じるごとく、因果の道理 は歴然としているのである。  いくら戦だからとはいえ、無謀(むぼう)にも火をかけて奈良の 大仏を焼いてしまった下司俊方は、はたせるかな、南都(なんと) の戦いが終わって郷里の播磨国(はりまのくに)へ帰ると、三日も たたないうちに高熱を発し、「焔(ほむら)が我が身を責め苛(さ いな)む」と叫びつつ、狂い死にしてしまった。 二位の尼の正夢  そして次の年、養和元(1181)年の春のある夜のことである。  清盛の夫人、二位の尼(にいのあま)が夢を見た。  おびただしい火炎をあげる火の車の真ん中に、「無」という一字 が書いてある鉄の標識をかかげ、赤鬼青鬼がその火の車を先導して 物凄いいきおいで、清盛邸の東の門からつっこんできた。  二位の尼がおどろいて、 「そのほう達は、いずこから何の用があって来たのじゃ?」と問う と、その者たちは答えた。 「我らは閻魔大王の使いで、地獄において死者どもを苦しめる役目 の獄卒(ごくそつ)である。  ここへ押しかけてきたのはほかでもない。お前の夫、清盛入道の 悪心は日に日に増長して、あろうことか、ついに聖武天皇の勅願所 である日本第一の大伽藍(だいがらん)、金銅十六丈の盧舎那佛を 焼き払った罪業によって、いまその清盛の身体を地獄へ迎えにきた 火の車である」  そういったものだから、二位の尼はふるえあがった。それでも最 後の気力をふりしぼって鬼たちに「それはまた無道な話じゃ。で、 その火の車の鉄の標識に「無」とある意味は、何じゃ?」と問うと 鬼たちは答えた。 「清盛はみだりに悪業をかさね、ついに仏像、経巻を焼いて五逆の 罪を犯した。よって無間(むけん)地獄におちて無量永劫の重苦を 受けることに決まった。  だから無間の「無」の字を鉄に記してあるのだ。どうだ、わかっ たかッ」と、鬼たちが大きな声で威嚇(いかく)したところで、二 位の尼は夢から覚めた。  起きてみると、全身汗で、身の毛のよだつほどに恐ろしい夢であ った----が、二位の尼の見た夢はまさに正夢(まさゆめ)だったの か、その翌日、清盛に病がとりついたのである。  それも病気は熱病であった。  病みついた日から湯水も喉を通らず、身体が火にあぶられたよう な苦しみだ。あまりの苦痛に堪えがたく、まわりの者に「この熱さ をどうにかしてくれ」と、悲鳴をあげて泣きわめくが、どうにも手 の打ちようがない。  ありとあらゆる医者が動員され、枕元に良薬が山と積まれたが、少 しも効き目はなく、熱さはいよいよ増して、七転八倒(しちてんば っとう)の苦しみ方は目も当てられぬ状態になった。  それで数百人の人夫を立てつらね、手送りに冷水を運ばせ、病人 をその中に漬けて冷やしたり、大きな筧(かけひ)をかけ渡し、直 接身体に冷水をそそいでみたりしたが、水が沸いて、人が水に触れ ると、まるで沸かしたお湯のようだったという。  こうして七昼夜、清盛は苦しみ続けたあげく、哀れな最期を遂げ たと、源平盛衰記は書いている。 地獄を見てきた男  もう一つの話は、幕末の京都伏見付近に住む百姓小右衛門という 独身男の話である。  この男はふだんから宗教心というものがまるでなく、悪人の来世 は地獄に堕ちる、などというのは真っ赤な嘘だとし、人々が仏法を 信じ、念仏読経などするのをあざ笑っていた。  男は、人間というものは、いま生きている今生においてほかに、 後も先もないものと心得て、人間がこの世に生きるということは、 どのような意味や価値があり、また死はいかになりゆくものなのか そんなことは一切考えず、ただただ生にしがみつき、自分にとって 都合のよいことばかり考えて毎日を暮らしていた。  ある朝のことだ。男が寝床からはい出て立ち上がったとたん、ど うしたわけだか、それきり動かなくなった。金縛り状態でまばたき 一つしない。仕方なく家の者が硬直した男の身体を横に寝かせて、 翌朝になった。  すると、丸一日死人のようだった男が、突然、口をきいたのだ。 「戻った、戻ったぞ----」  それまで虚ろに見開いていた男の目にようやく光がきざしてきた。  男の姉をはじめ親類縁者たち、彼のことを心配して夜通し集まっ てくれていた人々が、「小右衛門、気をたしかにもて。戻った、と はなんのことか?」と口々に問う。男はあたりを不思議そうに見回 していたが、姉と視線が合うと言った。 「あんたらでは話しても分かるまいから、和尚さまを呼んでくれ」  お寺はすぐ隣だったから、さっそく和尚が駆けつけてきてくれた。  そこで男が話しはじめた。 「きのうの朝、家に獄卒(ごくそつ)がやって来て、彼らに小突か れ引き立てられて行った先は、なんと地獄でした。  その地獄の光景は、口にするだけでも恐ろしいもので、子どもた ちのたくさん群がる地獄を通りすぎ、血の池地獄から熱湯地獄のあ たりまでくると、しだいに怖さが増して、それ以上足が一歩も前に 進まなくなり、獄卒たちに容赦なく身体を叩かれながら思ったもの でした。  おれは娑婆(しゃば)にあるときは、地獄なんかあるものか、と 鼻で笑っていたが、それは大きな間違いだった。いま実際に地獄の 有り様を見て、その物凄さがよく分かった。この先へ行くと、その 形相はますます凄惨(せいさん)になるという。  ああ、おれのこれまでの生き方考え方が悔(くや)やまれる---- と、しきりに後悔していると、そのとき、どこからともなく〔こや つに懺悔(さんげ)の心がきざしてきたようだ。返してやれ、返し てやれ----〕と声が聞こえてきた。  その声の主は、鬼とも人とも姿が見えぬからよく分からなかった が、それに応えて、〔しかし、こやつをこのまま返せば、こやつは 夢を見たとしか思わないだろう。  それでは、せっかく地獄を見せてやった効き目がないから、地獄 へ来たというしるしをしてやることにしよう〕と声がし、おれの背 中に何やらしました。  そして気がつくと、我が家に帰っていましたから、そのうれしさ に、戻った、戻ったと言ったのです。今も何となく背中が痛いので、 和尚さま、どうぞ背中を見てください」というので、着物をぬがせ てみると、男の背なにこてのあとのような火傷腫れがあったそうで ある。

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