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佛教談義(ぶっきょうだんぎ)その二十三 聖徳太子、奇跡のしるしを示す話             「日本霊異記」より  聖徳太子は、磐余(いわれ)の池辺の双槻宮(ふたつきのみや) に宇御(あめのしたをおさ)めたまいし橘豊日天皇(たちばなのと よひのすめらみこと・用明天皇)のお子である。  小墾田宮(おはりだのみや)に宇御めたまいし推古天皇の御代の とき、皇太子となられた。  太子には三つのお名前がある。一つは厩戸豊聰耳(うまやどのと よとみみ)といい、二つは聖徳といい、三つは上宮(じょうぐう) という。  厩戸の名前のいわれは、太子の母后(用明天皇皇后、穴穂部間人 皇女・あなほべのはしひとのひめみこ)が、にわかに産気づき、通 りかかった馬小屋の前で太子を産みおとしたので、厩戸と言われた。  また、太子は生まれながら賢くて、十人が同時に訴え、しゃべる 話の内容を、一言ももらすことなく聞き分けることができたから、 鋭敏な聴力の持ち主というので、豊聰耳というのである。  二つめの呼び名のいわれは、太子の日常、立ち居ふるまいや、威 儀よそおいが僧(ほうし)さながらであるばかりか、法華経、維摩 経(ゆいまぎょう)、勝鬘経(しょうまんぎょう)の注釈書を作っ て佛法をお弘めになり、朝廷に仕える官人の功績や手柄を調べて、 その冠位をお定めになったので、聖徳とよんで崇めたのである。  また、上宮とおよびするのは、当時、天皇の宮殿よりも、高い位 置にある御殿に太子が住んでおられたので、上の宮の皇(きみ)と 言ったのである。  聖徳太子が斑鳩(いかるが)の岡本の宮にお住みになっていたと きのことである。  太子は、所用があって外出された。のどかに広がる景色をめでな がら、太子は輿(こし)にゆられていた。右手に葛城山(かつらぎ やま)をのぞむ片岡村あたりに差しかかったときであった。  ふと見ると、路のかたわらに見すぼらしい恰好の一人の男がうず くまっている。男はどうも病人らしい。  これを見た太子は輿から下りると、その男に近づいていった。そ して男に何か問い掛け、また何やら話をすると、着ていた自分の衣 服を脱いで、手ずから男に着せてやると、何事もなかったかのよう に再び輿に乗り、そのまま行列を進ませたのである。  さて、太子が用事を済ませたその帰り道、男がいた元の場所を通 りかかると、先ほど太子が脱いで着せてやった衣服が、木の枝に風 にゆられてぶら下がっているだけで、あの見すぼらしい男の姿は、 どこにもなかった。  それをみた太子は、さっさと衣服を枝からはずし、なんのためら いもみせずに、また着用したのである。  お供の一人が顔をしかめて太子にいう。 「あのような不潔な男が、いったん身につけた衣服を、太子ともあ ろうお方が、どうしてまたお召しになるのですか。気まぐれがすぎ ますぞ」  すると太子は、頬に笑みを浮かべて言われた。 「お前たちには分からないだろうが、これで良いのだ」と。  それからしばらく経って、くだんの男が、どこかで亡くなったと いう噂が斑鳩の里にとどいた。  太子はその噂を聞くと、さっそく使者を派遣して、男の殯(もが り・死者を埋葬するまでのあいだその死者の霊魂が悪霊などになら ないように、遺体を壇に安置してまつること)をし、岡本村(現在 奈良県生駒郡斑鳩町)の法輪寺の東北の守部山に墓をつくっておさ めたのである。これを人木墓(ひとのきはか)という。  ところが、その後、回向(えこう)のため使者をやって墓を詣で させてみたところ、墓の入口が固く閉ざされている。不思議に思っ て、使者が墓の内部を調べてみると、たしかに納めたはずのあの男 の亡骸(なはがら)が、どこにも無いのである。  ただ、一首の歌が、からの棺の上に置いてあった。それには、こ うしたためられていた。  斑鳩の富の小川の絶えばこそ      わが大君(おおきみ)の御名(みな)忘られめ  歌の意味は、いかるがの富の小川の水が絶えてしまったなら、  聖徳太子の御名が忘れられよう・・、がそんなことは絶対に  起こ り得ないことだ。   *なお、斑鳩の富の小川は平郡(へぐり) の山中から、    法隆寺の東を流れて佐保川に注ぐ  使者が急いで帰ってきて、見てきたことを報告すると、太子は黙 然(もくねん)として、何もおっしゃらなかったということである。  そういうものなのだ。  聖人は聖者の尊さをよく知るが、凡夫にはその聖が分からない。 凡夫の肉眼には、みすぼらしければその姿のままにしか映らないが、 聖人の眼力をとおして見れば、身を隠した尊い人の姿が、はっきり と見えるのである。まったくもって、めずらしく異(あや)しいこ とである。 聖徳太子の手紙 ご隠居 私たちは、聖徳太子というと、すぐに奈良の法隆寺(六〇 七年創建)のことや、「和をもって貴しとなす」の第一条から始ま る十七条憲法(六〇四年)のことなどを思い浮かべるが、寅さんの 太子像は、どんなイメージかな。 寅さん むかし、学校で習った小野妹子(いもこ)の遣隋使(けん ずいし)です。 ご隠居 ああ、あれね。太子が推古天皇の摂政(せっしょう)だっ た西暦六〇七年、小野妹子を隋へ派遣した。その時小野妹子が持っ ていった聖徳太子の「国書」は有名だな。  日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無(つつが な)きや云々。  ところが、これがとんでもない手紙だった。この国書を受け取っ た隋の皇帝煬帝(ようだい)は、かんかんに怒ったな。 寅さん どこが気にくわなかったんでしょう? ご隠居 その頃の隋と日本の国力の違いだ。隋の強大さは、日本と は比べものにならない。しかも、中国には「中華思想」というもの がある。  中華思想とは、中国だけが唯一文明国で、あとはすべて野蛮な地 域であり、日本など国とは認めていないわけだ。  つまり、中国のまわりにある地域は国ではなく、全部野蛮人の住 む地域にすぎないということで、方角によってその地域を分けた。 東夷(とうい)西戎(せいじゅう)南蛮(なんばん)、北狄(ほく てき)と呼び、日本人は中国から見て東に住んでいるから「東夷」 と言った。  そんな野蛮な地域に住む酋長のような者が、あろうことか大国隋 の皇帝に、まるで友達に出すような手紙をよこしたのだから、なん だ、東夷の分際で、生意気な奴だと煬帝が怒ったのも無理はない。 寅さん それでどうなりました? ご隠居 煬帝からの返書は、小野妹子が日本へ帰国途中立ち寄った 百済(くだら)で、誰かに盗まれたと日本書紀に書かれているが、 それはおそらく妹子の配慮から、返書をわざと見せなかったのだろ うと思う。その返書には、日本の無礼を叱責する文言(もんごん) が並んでいたに違いない。 寅さん 聖徳太子というと、いつもおだやかで、人の話をよく聞き 決して怒ったりしない立派な人というイメージがありますが、そん な人を食った国書を書く威勢のよさもあったんですね。 聖徳太子と佛教 ご隠居 そして太子にまつわる伝説も多い。「聖徳太子伝暦」 「上宮聖徳法王帝説」などには、次のような伝説が語られている。 ・太子の母は夢に金色の僧を見て懐胎(かいたい)した。 ・二歳のとき、合掌して「南無佛」と唱えた。 ・三歳のとき、桃と松とどちらが好きかと聞かれて、桃の盛りは  一時だが、松葉は永遠に青いと答えた。 ・十歳のとき、いたずらをしている時に、父の用明帝に見つかり、 他の皇子は皆逃げたのに、太子だけは残って罰を受けた。 ・十四歳のとき、父の用明帝が病になり崩御(ほうぎょ)したが、 この時太子は昼夜わかたず父の病気平癒を祈った。  このほかに十人の訴えを同時に聞き分けたとか、愛馬に乗って富 士山へ駆け登ったとか、いろんな伝説がある。  また「伊予国風土記(いよのくにふどき)」には、道後温泉で太 子が湯治(とうじ)したことが書かれている。これは伝説ではなく 本当のことらしい。  それより何より、太子の事蹟として重要なのは「三経義疏」(さ んぎょうぎしょ)ではなかろうか。 寅さん 何ですか、それは? ご隠居 先述の日本霊異記にもあるとおり、三経は法華経、維摩経 勝鬘経のことで、義疏とはそれの注釈書だ。太子はこの三つの経典 の注釈書をお書きになった。 寅さん 維摩経とは? ご隠居 維摩詰(ゆいまきつ)、またの名を浄名居士(じょうみょ うこじ)という佛によって説かれた大乗経典だ。鳩摩羅什(くまら じゅう)訳の「維摩詰所説経」が最もポピュラーで維摩経といえば、 ほとんどこれを指す。  このお経は、全編「空」の思想がみなぎっていて、在家者である 維摩詰が、ひたすら修行して現世からの離脱(りだつ)のみを心掛け るような聖者や出家者を、皮肉っぽく批判する。 寅さん へえ、それは面白そうだ。 ご隠居 維摩は、とある大きな都会に住んでいる大金持ちだが、病 床にふせっている。といっても単なる病気ではない。「衆生病むが ゆえに、われまた病む」のであり、したがって彼は明らかに菩薩と しての存在なのだ。 維摩と太子と勝鬘経 ご隠居 その頃、その都会に釈迦とその弟子たちが滞在していた。  釈迦は維摩の病気見舞いに誰かをやろうとするが、誰もそれを引 き受けようとしない。  というのは舎利弗(しゃりほつ)、目連(もくれん)などの弟子 や、弥勒(みろく)など菩薩たちも、かつて維摩から手ひどくやり こめられた苦い経験を持っていたからだ。彼らは一人一人そのこと を告白する。 「維摩は付き合いにくい上に、あの智慧と弁才とに打ちかつ者は誰 もおりません」と、文殊菩薩も溜め息まじりに嘆称する始末だ。  しかし、その文殊が病気見舞いに行くことになって、このお経の テーマとなる文殊と維摩の対談が始まる。  この二大智者の対話を見ようと、大勢の人があとから ぞろぞろ 従いて行き、維摩は彼の病室を空虚にして皆を迎え入れる。 寅さん 二人は何を話しました? ご隠居 まず、病気とは何であるかが問題となり、病気を含めてあ らゆるものは「空性(くうしょう)」であると説き、智慧(ちえ) と方便(ほうべん)、菩薩のあり方、法とは何か、生命の根本など、 あらゆる重要な主題が論じられる。  それらを通じて、その根底に流れるものは、やはり「空」の思想 なのだな。  対談の途中、舎利弗は空虚の室内に椅子がないのを見て、大勢の 人が何に座るか心配する。すると維摩は神通力によって山灯王如来 という世界から、三万二千の椅子を送ってもらうが、その狭い室内 に余裕をもって入った。  次に舎利弗は、またお昼時の食事が気掛かりになる。そこで維摩 は、はるかかなたの妙香世界という佛国土から、香気で飾られた食 物をもらってきて、一同で食事する。「空」においては、このよう なことが可能なのだ。  そして舎利弗は、そのたびごとに維摩から、「あなたはここに法 を求めに来たのか、それとも椅子を探しに来たのか」などと皮肉ら れたりする。 寅さん ずいぶん、くだけたお経なんですね。で、勝鬘経は? ご隠居 勝鬘経の中心思想は「捨身(しゃしん)」だ。このお経に は、佛の正しい教えを得るためには、身体、生命、財産を捨てなけ ればならないと説かれている。捨身とは、身を捨てて他の命のため に尽くすことだ。  有名なのは釈迦伝にある「捨身飼虎(しゃしんしこ)」だな。 これはインドのシャカ族の王子ゴータマ・シッダルタ(釈迦)が、 佛陀(ぶっだ)として悟りをひらくまで前世(ぜんせ)でいかに 善行を積んだか、という伝説で、虎の親子が飢えに苦しんでいるの を釈迦が見かねて、みずから身を捨てて虎のエサになったという話だ。  このような釈迦の善行の伝説をまとめて「釈迦本生譚(ほんじょ うだん)」(ジャータカ)という。  さて、聖徳太子に話を戻そう。  太子は、推古三十年(六二二)二月二十二日に亡くなる。 「太子伝暦」によると、斑鳩宮の太子は膳部妃(かしわでのきさき) と共に身を清め、「私は今夜死ぬだろう。お前も一緒に死のう」と 言って寝所にはいった。明朝、二人が起きてこないので寝室の扉を 開けてみると、二人はすでに死んでいた」とある。 寅さん どうしたんでしょう? ご隠居 聖徳太子の最後は、現在も謎に包まれたままだ。  十七条憲法の二にいわく、篤く三宝を敬え、三宝とは仏と法と僧 なり。則ち四生の終帰にして万国の極宗なり、とある。
第二十二話第二十四話Kanjizai index

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