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佛教談義(ぶっきょうだんぎ)その二十一 依報と正報 ご隠居 きょうも前回に関連した話をしてみるかな。 寅さん 引業と満業ですか。  ご隠居 佛教には依報(えほう)と正報(しょうほう)という二報 ということが説かれている。  依とは依止(えし)のことで、よりとどまるの意味、報は果報の 意味だ。この場合の果報は、因果(いんが)の報いのことで、これ はラッキーな果報者の意味ではないから間違わないようにな。つま り、依報とは一切の有情(うじょう)が依止するところの世界のこ とであり、正報とは正しい因の報いを受ける心身のことだ。 寅さん 有情というのは? ご隠居 木石などの「非情」のものに対して、心をもつ人や動物の ことと考えればよい。  つまり依報と正報は、地獄から佛界に至る十界(迷界の地獄、餓 鬼、畜生、阿修羅、人間、天上。悟界の声聞、縁覚、菩薩、佛)は みなその報いによって与えられた報身報土であると説かれてきた。  したがって地獄、餓鬼、畜生に生まれる有情は、そこに生まれる だけの正因があり、人間界に生まれる者は、やはりそれ相応の正因 があるから人間に生まれるといわれたきた。  また人間に生まれたとしても、幸不幸、運不運と、個人によって その一生に格差が生じるのは、いずれもそれ相応の正因の報いを、 その身に受けた結果であるので、これを正報という。  そして、この正報を受けた有情が、それぞれに住む世界のことを 依報の土という。したがってこの六道十界は、ことごとく正因正果 の依報正報といってよい。  たとえば私たち正報を受けた人間が住む家は、人間の依報であり、 鳥の巣は、鳥という正報有情の住む依報であり、水は魚のための依 報、土は昆虫のための依報だな。 そういった面からいえば、私たちの身体もまた、心のための依報と 言えないことはない。  つまり依報である身体の状態を観察することによって、正報であ る精神の有り方を知ることができるという。  人の心を外から窺(うかが)い知ることはなかなか容易でないが、 しかし、その心のうごきは、しばしば人間のちょっとした動作に表 れる。だから人の何気ない動作を注意ぶかく観察することによって、 その人の心のうごきを知ることが可能だ。  たとえば人の心は文字を書けば文字に表れ、言葉を発すれば言葉 に表れ、顔に出せば表情に表れ、眼を開けば眼にはっきり表れる。  余談はさておくとして、佛教がほかの宗教とくらべて特色のある ところは、過去、現在、未来にわたる三世(さんぜ)の因果善悪の 業報(ごうほう)ということたてて教えていたことだ。 寅さん 三世の因果善悪の業報? ご隠居 つまり六道輪廻(りんね)のことだ。六道輪廻とは、十善 をおこなう者は天に生じ、十悪をおこなう者は地獄に堕ちるという 教えで、簡単にいうと、善行をする者は三善道に生じ、悪業をつく る者はかならず三悪道に生ずるという。このように六道は、衆生の おこなったそれぞれの善悪によって行く世界と、その境遇が異なる と説いている。  この六道を、また三界ともいう。  六道と三界は、すべて私たち衆生の心の中で造成されるものだが、 それでも六道は、まちがいなく実在する、と説かれている。  そこで、さっきも言ったように佛教には依報、正報の二報といっ て、六道に生ずる衆生を正報の有情とし、有情が依り止まって住む ところを依報としている。  したがって六道は依報の世界であり、その六道を転々と生きかわ り死にかわって輪廻する有情は、善悪にもとづいて判定された正報 であるとする。  もし六道と依正二報の関係を、仮の方便だとすれば、現実世界で ある人間界や畜生界のことを、どう考えればよいのか、ということ が問題になってくる。人も犬も猫も実際に存在するからだ。  六道では、人間がこころざすべき場所として「天上界」をおき、 人間界の一段下に阿修羅(あしゅら)界を置いている。その真意は、 善行をうんと積めば、つぎは天上界に生まれるが、それを少しでも 怠ると、残念だけど人間界より下の争いの絶えない阿修羅界行きだ よ、と諭されている。 超自然と科学 寅さん 阿修羅界というのは? ご隠居 その果報が天に似ているが、天ではない。そこに住むもの は、ねたみぶかく闘争を好むとされているな。  このように佛教は、現実の世界のなかに、非現実の世界を組み込 んで、六道というものを構築しているのだ。そしてまた、そのよう な非現実の世界がないと、いちがいに断定するわけにもいかない。 寅さん どうしてです? ご隠居 私たちは現実のもの以外に、非現実の世界がそこにあった としても、それを理解する能力を持ち合わせていないからだ。特に 今の人たちは、科学の法則とか、数学の公式とか、そういった観念 のなかでしか、何ごとも考えられないような思考方法ができている から、そういう形式を超えた事柄については、何も分からないし、 また分かろうと努力もしない。  神佛とか、超自然とか、そうしたものの存在、または非存在が、 理論的に証明できないのは、そのためなんだな。その点、佛教の開 祖であるお釈迦様は、四次元ともいうべき非現実の世界を早くから ごらんになった。 寅さん 四次元というのは何でしたかね? ご隠居 タテ、ヨコ、高さの立体つまり私たち三次元の世界に、も う一つ、時間の一次元を合わせた世界のことだ。しかし断っておく が、四次元と佛教はまったく関係はないよ。  ともかく、この非現実世界は、われわれの肉眼で見ることはでき ないが、慧眼法眼(えげん・ほうげん)をもってすれば見ることが 可能なのだ。 寅さん 慧眼法眼とは、どんな眼なんで? ご隠居 この世の真理を見分ける悟った「まなこ」だ。  ただし世尊が非現実世界を実際にごらんになっているというのは、 肉眼による所見でなくて、あくまでも慧眼法眼の所見であることを 忘れてはならない。  私たちはむろんお釈迦様のような慧眼法眼をそなえていないが、 長年佛道にいそしんで、ある高い段階に達した人には、いくぶんか その非現実世界を窺い知ることができるようだ。  したがって、世尊のおっしゃっていることを、あたまから、それ は我々のためにお説きになった仮説の方便であると言い切ることは できない。  私たちは、非現実世界を直接肉眼で見ることは不可能だけれど、 やはり地獄や極楽浄土はどこかに存在することを疑ってはならない ということだ。  佛世尊が五戒十善の教えを説いて、人間の生き方をお示しになる 真意は、たんに私たちを怖がらせようとして、無いものを有るとお っしゃっているのではない。  佛世尊は天眼(てんげん)でもって、有るものは有る、と正直に 説かれたのだが、我々は残念なことに、世尊のような、なにものを も見通す天眼を持っていないから、そんな天眼がそなわるまでは、 世尊のお言葉を信じることが何よりも大切なのだ。  佛教にかぎらず、宗教というものは、まず信じなければ理解する ことはできない。よしんば、それを理解することができたとしても その教えを信じなければ何の値打ちもないし、利益もない。  これまで述べてきたことは、あくまで佛教の初歩であって、まだ 出世間の段階にまで到っていないが、世間一般の道徳倫理を正すに は、これで十分だろう。  なぜかなら、人間がしてはならないことと、ぜひにもしなければ ならない五戒十善の教えと、過去現在、未来という三世の因果(い んが)が説かれているからで、これを佛教における「世間教」とも いったようだ。  佛世尊が、この世間教を説かれた所以(ゆえん)は、このように 分かりやすい教えをいとぐちに、一歩踏みこんで、出世間教である 小乗、大乗の教えを説き示そうという方便(ほうべん)にすぎない。 が、しかし方便であるけれども、どんな勧善懲悪物語よりも、よほ ど効果的ですぐれた説といえないだろうか。  佛世尊が六道輪廻を事こまかに説かれたのは、あくまでも私たち に道徳倫理の道すじを明らかにするためにお説きになったのであっ て、引業満業また依報正報と、ことさらに話をややこしくしようと して、私たちをおさとしになったわけではないということだ。 施しに消極的な人が、      放生という善行によって善悪の報いを得た話                    「日本霊異記」より  聖武天皇の御代、讃岐の国香川郡の坂田という里に綾君(あやの きみ)という村の長(おさ)が住んでいた。その隣に爺さんと婆さ んが、それぞれ住んでいた。どちらも一人ぼっちで貧しく、毎日の 暮らしに窮していた。二人の年寄りの飢えをしのぐ場所は、隣の村 長(むらおさ)の台所であった。飯どきになると毎日決まったよう にやってくる。  あるとき村長が、食事さえ作れば時間に関係なく来るのかどうか ためしてみようと、夜中にひそかに飯を炊いて家人に食べさせてい ると、二人はやはりやって来た。  この家の妻が、「あのお二人はもうお年寄りですから力仕事は無 理でしょうが、私はせめて家の使用人という名目で養ってあげたら と思います。これも慈悲です」  村長が言う。「あんな年寄りを何の見返りもなしに養うのは賛成 しかねる。だが、たってそうしたいのならば、これからは自分の飯 を割いて彼らに施(ほどこ)せばよい。功徳(くどく)の中に、自 分の肉を割いて他に施しその生命を救うことは最上の行為である、 とされるように、この方法なら功徳にかなっている」というので、 家中、みんな自分の飯を少しずつ割いて爺さん婆さんを養うことと なった。  その主人の仕方に不満をもつ使用人がいた。年寄りに与える分を 一粒も余さず、自分の飯を全部たいらげてしまう。それをほかの使 用人が見習うようになった。  普段から二人の年寄りを厄介者あつかいする使用人たちは、その ことについて自分たちの正当性を主張する。「我々の食い前を役立 たずに与えると、腹がへって力が出ないから農作業がとどこおる。 それでもいいんですか」  不人情な綾君家にあってただ一人、村長の妻だけが、二人の年寄 りに食事を施しつづけていた。  ある日、村長は使用人たちを連れて釣りに出かけた。すると近く の釣り人が、十個の牡蠣〔カキ〕が付着した縄を釣り上げた。それ を見た村長が、「お金を出すからその牡蠣を譲ってくれないか」と もちかけたが、釣り人は色好い返事をしない。  そこで村長は、「信心深い人はお寺を建てて良い報いを得ようと 心掛けるではないか。なぜあんたは、放生(ほうじょう)したいと いう私の申し出を断るのか」と、事をわけて頼んだ。ようやく「で は仕方がない、米五斗となら交換に応じよう」というので、話し合 いが成立した。  さっそく僧を招き、よくよく拝んで十個の牡蠣を海に放生した。  その村長が、使用人と薪を拾いに山に入ったときのことだった。 枯れた松にのぼっていて、足を踏み外して転落死した。  いよいよ火葬に付そうとした時である。突然、村長の霊魂が巫女 に乗り移ってしゃべりだした。「我が身を焼くな。七日置け」 こう言われると焼くわけにはいかない。仕方なく棺をかついで屋敷 に戻り、その日を待つことにした。  そして七日目、巫女が言ったとおり村長は蘇生した。妻や子に、 彼が語って聞かせた話はこうだ。 「私の前を五人の法師が行き、後ろから半僧半俗の五人の在家がつ く。行く道は広く平らかだった。道の左右は美しい旗などで飾られ 正面に黄金の宮殿があった。  あれは何の宮殿か、と問うと、後ろの五人がひそひそ囁き合って いたが、『あれは汝の妻が来世に生まれてくる住居だ。汝の妻は実 に心優しい人で、老爺と老婆の面倒をよくみたから、その功徳によ って、あんな立派な住居が用意されているのだ。ところで汝は我々 を知っているか?』と聞くから、知らないというと、『では教えて やろう、いま汝と一緒に歩いている我々十人は、ほかでもない、汝 が米五斗で買い、海に放生してくれた牡蠣なんだよ』と言った。  宮門の左右に、ひたいに角を生やした獄卒(ごくそつ)がいて、 私の首を太刀で斬ろうとしたから、それを法師らが押しとどめてく れた。  また、その門前にはいかにも旨そうなご馳走があって、みんなが 楽しそうに食っている。私は七日間の飢えと喉がからからなのに、 口から焔が出るばかりなのだ。  法師が言う『汝が飢えた年寄りに施しをしなかった罪の報いであ る』と。  そんなことがあったのち、法師らは再び私を連れて帰り、ふと目 をあけると、生き返っていたのだ。」  地獄を見てきた村長(むらおさ)は、それ以来、施すことに誰よ りも熱心になった。 「放生(ほうじょう)の報い」は、我が身に返ってみずからを救い、 施さぬ報いは、みずからが飢渇(きかつ)する。善悪の報いは厳然 としてあるのであると。
第二十話第二十ニ話Kanjizai index

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