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佛教談義(ぶっきょうだんぎ)その二十  極楽というところ 寅さん そろそろお盆なので伺いますが、極楽というのは、本当に あるんでしょうか? ご隠居 「帰ってこないところをみると、きっと、いい所なんでし ょう」。これは、子どもを不慮の事故で失ったある父親が、しみじ み語った言葉だそうだが・・・。 あの世から、皆さんどなたも帰って来ないところをみると、向こう の住みごこちは悪くないのだろう。 寅さん 茶化さないで、まじめに答えてください。 ご隠居 ごめんごめん。佛教において説くには世間にいう楽と、 出世間(しゅつせけん・世俗を離れた悟りの世界)との楽があると されていた。世間の楽は、すなわち五欲の楽のことをいうのであっ て、真の楽ではない。 寅さん 五欲とは? ご隠居 五欲とは、心をみだす五つの欲のことだ。色欲、声欲、香 欲、味欲、触欲、つまり眼・耳・鼻・舌・身によって生じる欲望の ことで、これを五欲という。  たとえば魅力的な異性を見れば心がときめくし、演歌の好きな人 は石川さゆりの歌にうっとりし、肌触りのよい絹の下着はだれだっ て好むはずだ。ただ、このような五欲の楽は、すべて形而下(けい じか)の楽であって、いずれそのうち消え失せてしまう楽だ。 寅さん 形而下? ご隠居 形而下とは、形をそなえているもの、知覚できる現象のこ とで、美しく魅力的だとか、歌がうまいとか、触感がよいとかは、 その場限りの心地好さでしかないだから形而下の楽なのだ。  それにひきかえ、真の楽は形而上(けいじじょう)、つまり形が なく、形を知覚できない精神的な楽だから、これは無限の安楽で、 出世間の楽がこれなのだな。 寅さん なるほど。いま魅力的な人でも年を取れば只のおじさん、 おばさんだし、絹の下着もそのうち使いものにならなくなる、か。 ご隠居 世間の楽は、楽に限りがあるために、楽がきわまれば苦と なり、反対に苦がきわまれば、また楽となることもある。  楽是苦因----、楽はこれ苦の因だ。 そしてこの苦楽は、ふしぎと善悪を恰好の道連れとして、あざなっ た縄のように輪廻往復している。  佛教は、これを六道の因果(いんが)という。六道を二つに分け れば三善道と三悪道となる。  さいわいにして三善道に生じる者は楽果といい、三悪道に堕ちた 者を苦果という。とはいっても、たとえ天上界に生じて 楽を享受 (きょうじゅ)していても、その果報が尽きてしまえば、たちまち 三悪道へ堕(お)ちる。これは有限の楽と苦が、入れ替わり立ち替 わりやってくるということだ。  その点、佛教でいう極楽は、絶対無限の楽なのだ。どこまでも無 限だから、楽が極まったあとに、苦など生ずることがない。そして また、絶対であるがゆえに苦楽といった言葉すらない。この苦楽の 二境界を超脱したものを法身無相の如来という。  けれども、あまり難しいことを言っても仕方ないので、世間一般 に通用する”楽”の概念によって、最上無限の極楽という世界が創 造されたのだ。 寅さん 人間はみな、苦より楽のほうが好きですからね。 ご隠居 たとえ束の間の楽であるにせよ、今の楽がやがては苦の種 になるものであるにせよ、人間が楽を追い求める性向の生きもので あるかぎり、この世の楽とは比較できないほど勝っているという極 楽世界に往生しようと思って努力するのが人間のごく自然の姿では ないだろうか----。  釈迦如来は、そんな人間心理を洞察され、人々を菩提涅槃の彼岸 にみちびく方便として、極楽を示されたのかもしれない。 引業と満業 寅さん でも、希望どおり誰でも極楽へ行けるわけではない。 ご隠居 そこで佛教は、引業(いんごう)と満業(まんごう)とい う考え方をする。 寅さん いんごう親父の、あの因業ではありませんよね? ご隠居 全然ちがう。”業なことだ”などともよく言うが、業は佛 教では人間のなす行為という意味で使われることが多い。  で、引業はどういうことかというと、人間は生きている間じゅう、 人から褒められるような善いこともすれば、その反対に他人に知ら れたくないようなみっともないこと、悪いこともやる。引業は、人 間のそういった善行悪行の成績表のようなものだ。  善と悪との多寡(たか)によって地獄、餓鬼、畜生界の三悪道に 落とされたり、あるいはまた阿修羅、人間、天上界の三善道に生ま れたりする。それらはすべて引業によって引き寄せられるからだと される。 寅さん へえっ、引業というのは恐いものなんですね。で、満業と は、どういうものなんで? ご隠居 満業とは、引業によって六道の落ち着き場所が決まったら その者の善行悪行の内容をさらに細かくチェックして、その場所で それに見合った待遇をする。それが満業だ。 寅さん どうも満業のほうがもうひとつピンとこない。引業は、六 道の入口で審査され、あんたは生前かくかくしかじかだったから、 また人間界へ行きなさい、とか、お前はこれこれだったから、残念 ながら畜生界へ、というように、それぞれ六道へ行く道を指示され た。これが引業ですよね? ご隠居 そのとおり。しかし引業によって人間にまた生まれてきた としても、人の一生は公平でない。  人間のなかには健康と才能などに恵まれた人、運の強い人がいる 反面、生まれついて不運な人、不幸のついて回る人、豊さに恵まれ ない人と、千差万別だ。そういう理屈に合わない不公平の原因が、 実は満業のせいとされた。 寅さん 畜生界に生まれても満業はありますか? ご隠居 むろん、動物にしても、人間の境涯同様に、はかりしれぬ ほど大きな幸不幸の格差がある。 すばらしい脚力のサラブレットに生まれる幸せな馬もいれば、食用 のためだけに生まれる牛、豚、鶏もいる。そして犬、猫のペットに いたっては、どうかすると人間なみ、いや、それ以上の可愛がられ 方をするのがいる。 寅さん たしかに、そんなのがいますね。とくに座敷犬など、花よ 花よと大事にされている幸せな境涯を過ごすのがいる。 ご隠居 その反面、不幸なペットの末路はあわれだ。人間の気分に よって飼われ、都合によって捨てられ、そのあげく保健所へ収容さ れて安楽死のうきめにあう。これらのすべては、引業によって畜生 道に引き寄せられ、そして満業によって同じ動物でありながら運命 に天と地ほどのひらきが生じる。  以上のように、六道それぞれの落ち着き場所を決定するのが引業 であり、そこの環境が快適かそれとも劣悪かを決めるのが満業だ。  したがって我々人間社会に、なんとも説明のつかない不条理、不 平等の存在するのは、この満業が作用しているといわれてきた。 満業と五官の関係 ご隠居 「因果(いんが)経」にはこうあった。  端正な者は忍辱(にんにく)の中より来たり、  醜陋(しゅうろう)の者は瞋恚(しんい、しんに)の中より来たり、  貪欲(どくよく)の者は慳貪(けんどん)の中より来たり、  高位の者は礼拝(らいはい)の中より来たり、  下品な者は驕慢(きょうまん)の中より来たり、  長命の者は慈悲の中より来たり、  不幸な者は殺生(せっしょう)の中より来たり、  聡明な者は学問の中より来たり、  愚鈍(ぐどん)な者は不学の中より来たり、  富裕の者は施物(せもつ)の中より来る・・・・・、 と説かれていたが、これらはすべて、生前の善悪のおこないの数量、 つまり満業のしからしむところと言われた。 寅さん へえ、ではその満業というのは、どこから生じるので? ご隠居 満業は前五識より生じるとされている。前五識(ぜんごし き)とは眼識、耳識、鼻識、舌識、身識のことだ。つまり人間の視覚、 聴覚、嗅覚、味覚、触覚の感覚器官にもとづく認識作用だな。 寅さん その五官がなぜ満業になり、差別(しゃべつ)というかた ちではね返ってくるんです? ご隠居 それは眼耳鼻舌身の五つの感覚器官が、それぞれ欲望のお もむくままにおのれの官能を満足させようとする。すると本来それ らの器官が暴走しないように、宥めたりすかしたりして、全器官を 秩序正しくまとめて統御する立場にあるべき第六識----つまり意識 までが前五識に毒され影響されて、情、色、食、淫の四つの煩悩に 惑溺してしまうからだ。 寅さん 情色食淫? ご隠居 情は感情、色は物欲、色欲どちらとも解釈できる。食は文 字通り、淫は逸楽のことで、怠惰にたのしみあそぶことだ。  したがって引業は、その人間を六道のうちのどこに移すに適当か という判定基準の総合点のようなもので、何点以上なら人間界、そ れ以下なら点数順に阿修羅、畜生界と、順次悪いほうへ堕ちてゆく とされた。そして満業は、かりにまた人間界に生まれたとしても、 前世に積み重ねた善行悪行の各項目ごとの点数のようなものと考え られてきたものだ。  つまり引業は前世のおこないの総合的な報いであり、満業は善い おこないと、悪いおこないを一つ一つこまかに分けて判定をくだし たその報いということだな。 寅さん つまりこういうことですか。来世にまた人間に生まれるた めには、第六識をしっかり正して前五識の甘い誘惑などに乗っては いけない。  物欲や色欲におぼれて、倫理を踏みはずすと、満業という不幸な しっぺ返しをくってしまう。 ご隠居 そのとおりだ。でも理性では分かっていても、人間はその 五欲を、第六識の意志で抑制するのは並大抵ではない。 寅さん 色欲でしでかした不始末を、臍から下のことは人格が違う から責任は取れない、という言い逃れが、まさにそれですね。 ご隠居 ことのついでに言うと、第七識を末那識(まなしき)そし て第八識を阿頼耶識(あらやしき)とし、これを唯識(ゆいしき)の 八識というな。 寅さん それはなんですか? ご隠居 阿頼耶識は「潜在意識」と考えてよいだろう。  つまり眼耳鼻舌身の前五識と、第六識の意識とがつくりだした善 悪の行為が、第七識である末那識に作用し、その末那識が媒介とな って第八識の阿頼耶識に伝え、その阿頼耶識は、それらのことを潜 在意識として記憶する、ということかな。  いずれにせよ阿頼耶識は、前五識と六識に感化されやすいものだ けに、我々も日常の生活をよほど気をつけないといけないな。 寅さん いまの話ですと、人間の五官はすべて悪の元凶のように聞 こえますが----。 ご隠居 うん、そんなところもないではないな。これは唯識のもつ 煩悩にとらわれたペシミスティック(悲観主義)な傾向が多分にあ るようだ。お大師さまは十住心論(じゅうじゅうしんろん)で、こ れを他縁大乗心とされ、大乗佛教の初門の住心として、法相宗をこ れにあてられているが、ここから「他人を思いやる心」がはぐくま れるとされている。 誠をつくして法華経を書写し不思議がおこった話                   「日本霊異記」より  聖武天皇の御代(みよ)に、山城の国相楽郡に発願(ほつがん) した人があった。  その発願というのは、父母の慈愛に感謝し、その恩に報いたいと いうものだった。彼はそのことを思い立つと、すぐさま写経生に頼 んで法華経を写し、それに美しい装丁をほどこした。経典ができれ ば次はそれを納める函(はこ)が要る。彼は八方に人をやって、白 檀や紫檀を探し求めさせることにした。そうしてやっと奈良の都で 彼の意に添う品物が見つかり、銭百貫で手に入れることができた。  彼は早速に、腕のよい細工職人に注文して、函を作らせることに した。  職人は几帳面に、いろいろと寸法などを計り、やがて彼の希望ど おりの函を作りあげた。・・が、さて新品のお経をそれに入れてみ ると、どうしたわけか、お経のほうが長くて、函に納めることがで きないのだ。  彼は青くなった。 「せっかくの発願も、お経の入れ物のところへきて、ふいになって しまった。そうかといって、またこのような貴重な木材を探しだす あてもないことだし」と嘆いた。  しかし思い直すと、衆僧を請(しょう)じて二十一日間、佛前に 罪過(ざいか)を懺悔(さんげ)して一心に供養することとした。 「どうかもう一度よい木材をお恵みください」と、涙ながらに佛前 でお願いする。  供養の十四日目に、あれでも、もしかしてと、ためしにお経をそ っと函に入れてみると、少しばかり函が大きくなったようなのだが もうちょっとのところで収まりきらない。  彼は、いよいよ心身を浄(きよ)めて悔過(けか)し、とうとう 満願の二十一日目を迎えた。そして試みにお経を函に入れると、そ れは事もなくぴたりと収まったのであった。  これは一体どういうことだろう。お経が短くなったのか、それとも 函が大きくなったのか----。  写経生にいって、手本にしたもとの法華経を取り寄せて、写経し た新品のお経と寸法をくらべてみると、大きさはどちらもまったく 同じであった。  そこではたと知ったのである。法華経が不思議な力を示して、彼 の信心の深さをためしたことを。
第十九話第二十一話Kanjizai index

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