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佛教談義(ぶっきょうだんぎ)その十八 陀羅尼(だらに)は佛(ほとけ)様ことば 寅さん 今回もまた、お経の話になりますが、般若心経の終わりに 「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提娑婆賀」とありますね。 あれにはいったい、どんな意味があるのか、教えてください。 ご隠居 寅さんのように、般若心経の一部分を切り取って、この断 片にはどんな意味があるのか、と聞かれてもちょっと返答のしよう がない。ただ私が聞きおよんだところでは、その部分は陀羅尼(だ らに)または神呪(しんじゅ)とも言われている。 寅さん 陀羅尼(だらに)? ご隠居 これは佛様のお唱えになる一種のおまじない、とでも考え ればよいだろう。  まず、佛様の説法には「顕密」の二法がある。 寅さん 顕密二法とは、顕教(けんきょう)と密教のことですね? ご隠居 そうだ。般若心経を例にしていえば、観自在菩薩----かん じーざいぼーさー ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー から、能除一切苦 真実不虚----のうじょーいっさいくー しんじ つふーこー、の部分までの経文を顕説般若といい、質問のぎゃーて いぎゃーてい から、ぼうじそわか、の部分を、密説般若という。  顕説般若の部分は、経文をひもとくと分かるように(まことの道 九九ページを参照)書かれていることが、おぼろげながら私たちに も理解できるように感じられるが密説般若のほうは、言葉そのもの が意味をなしていないので、さっぱり分からない。つまり、これは 諸佛如来だけの秘密のお言葉だからだ。 寅さん へえ、羯諦羯諦は、佛(ほとけ)様が使用される専門用語 というわけですか。 ご隠居 佛様のあいだだけに通じる言葉だから、私たちがそれを聞 き分けるのはなかなか難しい。 寅さん それは知らなかった。テレビではバイリンガル(二カ国語) 放送の音声を流していますが、お経の中にも、私たちの側に通じる 言葉と、佛様だけの、あちら側にもう一つの特別な言葉があるわけ ですね? ご隠居 そういうことだ。したがって私たちとしては、何のことだ かよく分からなくても、それを信じて、ありがたく陀羅尼を唱えれ ば、読誦(どくじゅ)の功徳(くどく)によって、心配事や屈託な ど、みんなどこかへ吹っ飛んで、心身ともに晴々した気分になると いうものだ。 寅さん でしたら、早速に----。 ご隠居 ああ、家に帰ってな。あんたの気が済むまでおやりなさい。  陀羅尼は、いってみれば私たち人間の心の病の特効薬のようなも のだ。服用する私たちは、調合した薬の成分をいちいち知らなくて も、薬を処方する医者のほうは、患者の病状をよく心得ているから 私たちはそれを服みさえすれば効き目がある、というのと同じだ。 インフォームド・コンセント 寅さん お言葉ですが、陀羅尼のほうはそれで良いとして、最近の 医療の現場のほうは、なかなかそんなわけにはいかない。最も信頼 できるはずの大病院が、方々でついうっかりの治療ミスを頻発して いる有様ですから、お医者さんの指示どおり、ハイ、そうですか、 と素直に薬ものめなくなった。 ご隠居 たしかに、ちょっとした不注意による事故が多いな。でも それは医療に従事する人たちが、それぞれの仕事に緊張感を取り戻 せば解決することだ。  それよりも、いま医者と患者間でいちばんの問題は、やはりイン フォームド・コンセントではない かな。 寅さん それは何ですか? ご隠居 説明と同意とか、「十分な説明にもとづく同意」などと訳 されている。つまり病状の危険度とか回復の可能性について、医師 からよく分かるように説明してもらい患者の十分な納得と同意のう えで適切な医療を選択して受けられるというものだ。 寅さん 私が言いたいのは、それなんです。かかりつけのお医者さ んでも、こちらの病状の説明をほとんどしないで、薬だけ出してく れる先生が少なくない。 ご隠居 とくに治る見込みのない患者とその家族に対し、医師の立 場として、病名と病状を明らかにすべきなのか、それとも知らせず においたほうがよいのか、その告知について関心が高まっている。 とくに末期がん患者の場合、告知の是非をめぐって意見が分かれる ところだな。 寅さん ふつう日本では、家族には知らせるが、患者に対しては、 病名をひた隠しにするケースが多いようですね。 ご隠居 その家族に対しても、医師ががんの告知を怠ったため、十 分な治療を受けられなかったとして争われた告知裁判で、遺族側の 主張が認められた判決もあったから、これからは告知の一般化が進 むのではないかな。 寅さん そういえば先年亡くなった人気アナウンサーの逸見政孝さ んが、がんと闘って生還する、という記者会見をテレビでやりまし たが、がんの告知は、日本でもすぐそこまで来ているのかもしれま せんね。 ご隠居 ただ、死の告知を受けた患者の立場を考えると、問題はそ れほど簡単ではない。 寅さん まったく。どんな心理状態になるのでしょうか。 ご隠居 ある精神科医によると、まず最初に衝撃、つづいて自分の 病気に対する否認、つぎに怒り、そして死の苦痛を先延ばしにする ための取引き、やがて抑うつ状態、最後に死の受容、という段階的な 反応を示すといっている。 寅さん 万に一つも助かる見込みがないとすれば、人間は自分の心 と葛藤(かっとう)を繰り返しながら、やがてすべてを諦(あきら) めて、従容(しょうよう)として死につくというわけですか。 ご隠居 「ついにゆく道とは かねて聞きしかど きのう今日とは 思わざりし」を、だな。 寅さん それは、なんです? ご隠居 在原業平(ありわらのなりひら)の辞世(じせい)の歌だ。 歌の意味は、死とは、最後にはどうしても行かねばならぬ道と聞い ている。それは誰でも知っているが、その死がとうとう自分にもや ってきた。それが「きのう今日」すなわち、まさに今、というのだ。  それで末期症状を迎えた場合、自分ならどうするか、という国民 の意識調査がある。それによると末期状態では約七十五%が延命医 療を「止めるべき」とし、「続ける」は、わずかに十四%にすぎな い。ところが安楽死に賛成する人は十五%そこそこだから、人間の 生への執着が並のものでないことがよく分かる。  ことほどさように、ここへきて安楽死とか、尊厳死といった人間 の死ぬ権利が、あらためてクローズアップされてきたようだな。 寅さん できれば、そんな権利を主張する当事者になるのは願いさ げにしたいですね。  それはそれとして、陀羅尼のほうはどうなりました? 三蔵法師の名訳「般若心経」 ご隠居 ああ、話を戻そう。いずれにしても、諸佛如来は、私たち 一切衆生(いっさいしゅじょう)の心の病を熟知しておいでになっ て、陀羅尼(だらに)は、そうした病にうってつけの、たいそうよ く効(き)く薬と考えてもよいだろう。  だからその陀羅尼のなかに、どんな内容や意味がしのばせてある かはあえて問わず、般若心経の翻訳者は梵語を原文のまま、漢字に 翻訳せずに書き写したわけだ。ところでこの般若心経を漢訳した人 は誰だと思う? 寅さん 分かりません。 ご隠居 有名な唐の玄奘三蔵〔げんじょうさんぞう・六〇二年ー六 六四年〕だ。 寅さん 玄奘さんでさえも、陀羅尼の意味が分からなかった? ご隠居 そうではない。ふつうの人ではとても理解できないものと して、しいて陀羅尼だけは漢訳しなかったのだ。  つまりそれは佛様だけに通じる秘密の言語であって、それがあま りにも精神的で難解なため、訳すのに適当な漢字も見当たらなかっ たこともある。  そしてもし、それを無理に翻訳すると、そこに述べられている深 遠な意味が損なわれて、せっかく佛様がおっしゃっているお言葉を 誤って伝えるおそれもあったから、玄奘三蔵はこの密説般若にはあえ て筆を加えなかった、というわけだ。  でも寅さんのことだ。それではまず納得しないだろう? 寅さん しません。 ご隠居 では私流に、般若心経の陀羅尼の解釈をしてみよう。  初めにある羯諦(ギャテイ)とは「去」であり「度」のことだ。 つまり般若心経を行ずることにより、その功徳によって一切の煩悩 を除去し、一切の苦厄(くやく)を度脱(どだつ)するという意味 だ。  重ねて、次にある羯諦は、他を度(ど)することで、つまり他の 人にも般若心経を行(ぎょう)じさせて、そのご利益にあずからせ よう、という意味だ。次の波羅羯諦とは彼岸度ということで、勝行 (しょうぎょう)繙繧キぐれた行という意味だな。  羯諦羯諦が、みずからも行じ、他の人をも行じさせる自行他行で あり、その功徳が合わさって、さらに高い段階に至るから彼岸度と も到彼岸ともいう。  波羅僧羯諦とは勝行和合、つまり自分も他の者も、苦から解放さ れ、悟りの境地に導かれて、彼岸に到るということだ。  このように、他に抜きんでた般若心経を行ずることによって、声 聞(しょうもん)も縁覚(えんがく)も菩薩も、みな同じように菩 提涅槃の彼岸に到達する、というのだ。 寅さん 声聞とは何でしたっけ? ご隠居 教えを聞いてさとる小乗佛教の修行者のことで、お大師さ まは十住心論でこの声聞の修行者を、「唯蘊無我心」の段階として これより佛教の解脱の道に入るとされている。 寅さん 縁覚とは? ご隠居 声聞から一歩すすんで、根源的な無知を滅することを修行 者の理想とする縁覚、つまり教えによらずに自らさとった者のこと で、十住心論ではこの段階を「抜業因種心」であるとされている。  末尾の菩提娑婆賀とは、究竟・成就・速疾・円満の意味だ。これ は声聞縁覚、菩薩の三乗が、ともに悟りをひらくための修行によっ て、すべての邪念妄想をしりぞけ、菩提涅槃の最上の境地に到ること だ。そして、その境地へ達するには、なにも遠い将来のことではな く、般若心経を行ずることによって、速やかに無上正等菩提に到る ことができるという佛様の御心である。  どうだ、少しは納得してもらえたかな? 寅さん 」」はい、なんとなく。  般若心経を誦経して心に念じ       その現報を得て奇事の現れた話                 「日本霊異記」より  義覚法師は百済(くだら)の人である。  祖国の百済が、唐と新羅(しらぎ)によって侵略されたとき、海 を渡って日本へ逃れてきた。それは飛鳥の後(のち)の岡本の宮に 宇内(あめのした)をおさめておられた斉明天皇のみ代のことであ る。日本にやってきた義覚法師は難波(大阪・住吉区)の百済寺に 止住していた。  法師は身の丈が七尺という長身で、ひろく佛教を学び、とくに般 若心経への傾倒がいちじるしく、どのようなときにも般若心経の念 誦をおこたることがなかった。  さて、同じ百済寺に慧義という僧がいた。ある晩、慧義が一人で 室房を出て、なにげなく義覚法師の室のほうを見ると、その辺一帯 が異様な明るさにかがやいているのである。  不思議に思った慧義が足音をしのばせて、法師の室房の壁に穴を あけて、そっと内部をのぞくと、そこには義覚法師がひっそり端座 して、般若心経を誦(ず)しているだけのことであった。  けれども、念誦するその口から燦然(さんぜん)と光明が放たれ ていたのであった。そのあまりの物凄さに恐れおののいた慧義は、 さっそく翌日、のぞき見したことを悔いて佛前に懺悔(さんげ)し たうえ、寺内の僧侶たちに前夜見たことを話した。  そのことについて、義覚法師は弟子に次のように語ったという。 「私は毎晩、般若心経を百遍ばかり誦している。そうしたあとに目 を開けてみれば、室内の四方の壁があるのに、それを突き抜けて、 庭のたたずまいなどが、はっきりと見える。  私は、これは稀にみる霊感を体得したと思い、ためしに寺の中を くまなく、手も足も使わずに、室房から室房を移ることができるか どうか歩き回ってみた。  すると苦もなく、壁も戸障子もするりと通りぬけることができる ではないか。念のためそのあとを調べてみると、自分が歩いたどの 室房の壁も戸も、みなぴったり閉じられたままであった。  そして屋外でまた般若心経を念誦すれば、壁も戸も空気のように 抵抗がなく、ふたたび自分の室へ入ることができるようになった。  すなわち、これは般若心経の不思議である」と。  佛徳(ぶっとく)をたたえる讚(さん)にいわく、大きなるかな、 釈迦の法孫 教説を多く 聞いてこれを受持(じゅじ)し、教えを 弘(ひろ)め、閉居して経を誦し、心眼(しんがん)を開いてひと たび般若心経を念誦すれば、光明を口から放ち、いずこへも往来は 自由自在である。
第十七話第十九話Kanjizai index

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