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佛教談義(ぶっきょうだんぎ)その十五 スペースシャトルの視点 寅さん それにしても日本の国は穏やかなものですね? ご隠居 日本のどこが、そんなに穏やかかな? 寅さん だってそうでしょう。今世界のいたるところで紛争があと をたたない。なにが気にいらないのか、私などさっぱり分からない のが旧ユーゴスラビア。あの国などは、私の感じでは、しょっちゅ うドンパチ鉄砲を撃ち合っている印象です。 ご隠居 たしかにあそこは悲惨だな。以前のユーゴスラビアは現在 スロベニア、セルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナな ど六共和国に分割されたうえに、カトリック、ギリシャ正教、イス ラム教をそれぞれ信奉する民族が各地域に散らばったから、ますま す問題がややこしくなった。 寅さん そしてアメリカは、イラクのサダム・フセインがよっぽど 腹に据えかねるのか、容赦なくミサイルをぶっ放す。 ご隠居 言われてみると紛争の火種は多いな。イスラエルとパレス チナ、インドとパキスタンなども一触即発といった情況だな。 寅さん 紛争の原因は何なんで? ご隠居 前者は領土問題、それとユダヤ教とイスラム教の対立。後 者はヒンズー教とイスラム教の対立だ。 寅さん うまい解決策はないものですかね。パキスタンもインドと 同じように核保有国になりましたから、戦争になったら取り返しが つかなくなる。 ご隠居 長年にわたる民族感情に宗教問題が複雑にからんで、おい それと手をにぎるわけにはいかない事情があるのだろうな。それに 国境を接して隣合う国は昔から不仲、というのが世界の常識でもあ る。同じイスラム教なのに、スンニ派のイラクと、シーア派のイラ ンが隣同士でいがみ合っているのがよい例だ。 寅さん そんな紛争当事国の元首を、みな一度スペースシャトルに 乗せて、宇宙から地球をじっくり眺めさせてはどうでしょう? ご隠居 するとどうなる? 寅さん 宇宙空間から見る地球はどこにも国境の線引きなどしてな いから、ささいなことで角突き合うことが馬鹿らしくなるのではな いでしょうか。  それに地球に帰還した宇宙飛行士は、みな一様に哲学者になると 言われています。 ご隠居 たしかにな。宇宙にぽっかり浮かぶ青く美しい地球を目に すれば、同じ地球人同士がなぜ争い、いがみ合わねばならぬか、そ の愚(おろ)かさが身をもって実感できると思う。所詮人間は、こ の地球をおいて、ほかに生きてゆくすべはない、という運命共同体 的な考え方にいきつくはずだ。 寅さん 今の情況をたとえていうと、航海中の船内で、乗員乗客が 入り乱れ、船の安全などそっちのけに、けんかをしている状態とい ったところですか。 和をもって貴しとなす ご隠居 この地球上にしがみつき人間が取り決めた枠組みのなかで 物事を考えるのではなく、これからは、ある距離をおいて、地球を 客観的に眺めるという巨視的な視点を持つことが大切ではないかな。 寅さん それは、ひょっとして佛様(ほとけさま)の視点のようで すね? ご隠居 そう。理知の本体とされる大日如来の視点に通ずる。  すべての人間が、スペースシャトルから見るように、地球を客観 視できれば、かけがえのない地球の大切さがよく理解できるから、 憎しみなどより、お互い力を合わせてこの地球を大事に守っていこ う、という意識が強く芽生えるのではないだろうか。 寅さん 戦争による破壊でなくて地球の環境保全につながるわけで すか。そう願いたいものですね。  ところで冒頭の話に戻りますが紛争国にくらべて、日本のこの穏 やかさは、どこに起因しているんでしょう。佛教ですか、戦争放棄 の平和憲法ですか? ご隠居 はてさて、どう考えればよいのかな。まず我が国は単一民 族国家だから民族紛争はない。島国だから隣国との国境の衝突もな い。宗教もうまく棲み分けがおこなわれているから、紛争を引き起 こす要因がない。  そして忘れてならないのは、聖徳太子〔五七四年ー六二二年〕の 精神だ。 寅さん 何ですか、それは? ご隠居 六〇四年に「十七条憲法」を制定された聖徳太子は、「和を もって貴しとなす」を一番にあげられた。  和の精神とは基本的には、ケンカをしない、協調を第一とする精 神だな。  以来、日本人の心のなかに、仲良きことは美しきかな、といった 聖徳太子の精神が脈脈と受け継がれ、こんにちに到っている。 寅さん お言葉ですが、聖徳太子の精神に反する人もたくさんいる ように思いますが」」。 ご隠居 それは大勢の中には例外の人間もいる。  私が言っているのは、諸外国にくらべて相対的に日本人は人に和 し、協調の精神に富んでいるということをいっているのだ。 自讃毀他戒(じさんきたかい) 寅さん 先ほど、宗教の棲(す)み分けはうまくいっている、とおっ しゃいましたが、佛教の宗派間の関係はどうなんでしょう? ご隠居 昔も今もそれほど変わらないのではないかな。ただし信徒 さんたちの気質といったものは、大きく様変わりしたようだ。  これはひとつの極端な例だが、ずっと以前、ある宗の盛んな土地 の信仰一途な人たちは、如来様といえば、自宗のご本尊様のほかに 如来はない、みたいに思いこんでいたし、某宗一辺倒の田舎へゆく と、他宗の者へは宿も貸さぬという土地もあったらしい。 寅さん しかし、そのくらいひたむきに信心できたら幸せですね。 ご隠居 宗旨の違う家との交際は一切しない。むろん他宗の家の嫁 はとらない。娘を他宗にやるなどとんでもない…、と考えていた人 たちが、はたして幸せな社会生活が送れるかな? 寅さん やはり世間が狭くなりますか。 ご隠居 つまり他宗では得道(とくどう)できぬ、成佛(じょうぶ つ)が叶(かな)わぬ、と思いこんでいたから、そういう偏(かた よ)った信心者がうまれた。それもこれも佛教本来の慈悲や寛容さ に欠け、自分の宗旨だけを見て、他宗の教義にまで関心と理解が及 ばなかったかもしれない。  もし他宗が不成佛不得道であるなら、世のだれがそれらの宗旨を 信じよう。  佛戒のなかに自讃毀他戒(じさんきたかい)というのがある。 寅さん 何です、それは? ご隠居 「自らをほめ、他をけなす」ことだ。理由もなく他宗を誹 謗(ひぼう)してはならない、という戒(いまし)めだな。  でも、そうはいっても、この自讃毀他戒を守るのは容易ではない。 その昔、今でいう佛教シンポジウムのような席上、各宗派の若い僧 侶が立って、自分の信ずる宗旨がいかに優れているか、さかんに論 じたものらしい。すると、いきおい自分の宗旨を美化し、他宗を誹 謗(ひぼう)することになる。 寅さん たしか、日蓮上人〔一二二二年ー一二八二年〕が毀他戒に 類することをおっしゃっていましたね? ご隠居 日蓮上人が、”念佛無間(むげん)、禅天魔、真言亡国、 律国賊”と絶叫しながら辻説法したという話のことかな。 寅さん それはどんな意味です? ご隠居 念佛つまり浄土真宗を信じれば無間地獄に堕ち、禅宗を信 ずれば天魔になる。真言宗を信じれば国を亡ぼし、律宗を信じるも のは国賊である、という意味だ。 寅さん 日蓮上人のような偉い人が、なぜ戒律に背いて他宗を攻撃 したんでしょうか? ご隠居 これは各宗派の教義についての批判ではなく、七百年余り 前のその当時、それぞれの宗派を指導する立場にある人々を暗に指 して言われたのではないか、という気がするな。 聖道門(しょうどうもん)と浄土門 寅さん 生涯を信念に生きた日蓮上人は、戒律を破ってでも自分の 主張を曲げなかったわけですか。 ご隠居 日蓮上人の言葉はともかく、古来からある日本の宗派には 一つとして指弾されるようなものはない。  ただし世の人々が必要としないものは必ず滅亡するのが世の習い というものだ。  ただその佛教がいずれも真実、真理を教えているとはいえ、それ を信奉(しんぽう)する人間が正しくなければ、その人の推戴(す いたい)する佛教も、また正しい佛教とは言えないだろう。  だから昔から、僧重きときは法重く、僧軽ろきときは法軽ろしと 言われている。  さらに現代は、あらゆる組織や団体は、運営と経理の情報公開、 説明責任を果して、法律を遵守し、腐敗不正が生じないようにして おくということも大切だ。私たちがお参りしている観音院は、運営 と経理の公開の先駆けとしても全国的にも有名な寺院だ。 寅さん 宗派によって他力本願(たりきほんがん)と自力本願の区別 がありますが」」 ご隠居 それは悟りに至る道順のことで、真言宗や天台宗などのい わゆる聖道門(しょうどうもん)と、浄土真宗などの浄土門に分け られることがある。  つまり我々真言宗などの聖道門は、佛様の力に頼ることなく、み ずからの努力によって佛様に近づこうとする、いわゆる自力本願に 対して、浄土門の人々は阿弥陀如来に”南無阿弥陀佛”と念佛して お願いすることによって佛様になることができる。つまり浄土宗等 が本佛としている阿弥陀様の願力にすがって極楽往生するというの が他力本願といわれる。 寅さん 佛様へのアクセスにも二通りあるんですか? ご隠居 佛に近づくための道順は異なっても、目的は一緒だから、 聖浄二門に優劣はない。  そして、また、大日如来に帰依(きえ)しようと、阿弥陀佛に帰 命(きみょう)しようと、本願にいたる難しさの度合いに、少しの 差はない。  悟ることができるかどうかは、あくまでもその人の篤(あつ)い 信仰心と精神修養の一点にかかっている。 寅さん しかし今の話ですと、なんだか浄土門の他力本願のほうが 楽なような気がしますね。 ご隠居 ひたすらに念佛するだけでよしとされた、法然上人〔一一 三三年ー一二一二年〕の専修念佛(せんじゅねんぶつ)などは、単 純に考えるとあまり努力を必要とせず簡単そうだが、その念佛のみ を貫(つらぬ)きとおして悟りを得る人は、きわめて少ないのでは ないだろうか。  いくら佛様まかせの他力本願とはいっても、五欲の誘惑に惑わさ れることなく、一心に念佛三昧に明け暮れることは、よほど信心が 厚くなければなかなかできることではない。  私たち自力本願の聖道門からすると、他力本願は比較的安易な信 心にみえるけど、これもまた生やさしい修行ではないな。  要するに、自分を浄化しようとつねに向上心に努める人は、わが 真言宗をはじめ、念佛でも、座禅でも、観法でも、題目でもすべて 佛様の心に近づくことができるということだ。  したがって宗派の優劣を論じたり、佛くらべ、法くらべをするよ うでは、本当の意味の佛教信心とはいえないということを肝に銘ず べきだな。 恩返しをした蟹(かに)の話  「日本霊異記」より  聖武天皇のみ代、山城の国紀伊郡のある村に一人の娘がいた。  この娘は慈悲深く、心のゆたかな持ち主で、十善戒をかたく守っ て幸せな毎日を送っていた。  ある日、娘が所用で小川のほとりを歩いていたときのことである  牛飼いの牧童たちが、大きな蟹を八匹捕まえ、折しも焚き火で焼 いて食べようとしているところへ行きあわせた。それを見た娘はあ わてて走り寄り、「ねえ、お願いだからその蟹を私にくれない?」 と牧童に頼んだ。 「せっかく獲った蟹だ。なんでお前に呉れてやらねばならない」  牧童たちはせせら笑って相手にしない。しかし娘は諦めなかった。  そして何度か交渉したあげく、とうとう自分の衣服と引換えに、 八匹の蟹を牧童の手から取り戻し川に放してやることができた。  それから日をおいて、娘が山を歩いていると、大きな蛇が蛙を飲 み込もうとしているところに出くわした。  娘は蛇を覗き込んで頼む「その蛙を許してやって。その代わり何 かいいものを上げるから」でも蛇は蛙をくわえて放そうとしない。 「では、あんたをこれから神様としてお祀(まつ)りするから、蛙 を私に渡して頂戴」と、頼んだが蛇は一向に聴こうとしない。  娘がいう。「じゃあどうかしらその蛙のかわりに、私があんたの お嫁になるということで」」」  鎌首をもたげ、上目づかいに改めて娘を見た蛇は、ようやくのこ とに蛙を吐き捨てた。 「それでは今日から七日過ぎて、私の家にきて頂戴」と、娘は蛇と 日にちを約束して別れた。  家に帰って両親にその話をすると、「お前はこの家の大事な一人 娘なのに、どうして出来もしないそんな約束をしたのだ」と、父母 が涙ながらに嘆き悲しんだ。  たまたま行基大徳が、紀伊郡の深草寺に滞在されていた。  かくなれば行基様のお智慧にすがるよりないだろう、というので さっそく行基大徳のもとへ駆けつけ、相談した。大徳は話を聞いて 「ああ、なんとも無体な約束をしたものだな。このうえは三宝を信 じて待つことだ。信ずれば良いようになるだろう」といわれた。  こうして約束の日の夜がきた。娘は戸締りをし、佛様に祈った。  蛇は来た。身をくねらせて家をめぐり、尻っぽで壁を打ち、屋根 にのぼって萱(かや)を食いちぎる音がする。やがて何かが飛びか かって、噛みついたような音がしたあとは、静かになった。  翌朝表に出てみると、蛇はずたずたに身を断ち切られていた。そ ばに八匹の蟹がいた。娘の助けた蟹が恩返ししてくれたのである。
第十四話第十六話Kanjizai index

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