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諸行は無常なり 寅さん この季節は、夜長だからあれこれ、いろんなことを考える のに、もってこいの時季ですね。しかも、どこかうら淋しくて、人 恋しくもある。 ご隠居 寅さんも、けっこう詩人だな。たしかに心が澄んで、なに ごとによらず精神の集中できるのが秋の夜長だ。 寅さん だから美術の秋とか、読書の秋などというんですね。 ご隠居 では、きょうはひとつ、その心が澄みきったところで、有 名な偈(げ)の話をしようか。 寅さん なんです、その偈とは? ご隠居 そうだな。偈は、佛(ほとけ)の徳をほめたたえた経文、 とでもいえばよいかな。寅さんも知っているだろう。諸行無常(しょ ぎょうむじょう)というのを。 寅さん 知っていますとも。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあ りDD平家物語のイントロに出てくるあの諸行無常でしょう? ご隠居 そうだ。でも、諸行無常はその四字で完結しているのでは ない。そのあとに、 是生滅法(ぜしょう・めっぽう)生滅滅已(しょうめつ・めつい) 寂滅為楽(じゃくめつ・いらく)とつづく。  これは釈尊が入滅(にゅうめつ)前、一昼夜にわたって説いたとい う大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)に出てくる偈(げ)で、お 釈迦様は、まず生者(しょうじゃ)必滅こそ宇宙の真理と説かれ、こ の四句の偈を説いて無常の理(ことわり)をあかし、善男善女がこ の偈を聞き、偈のいう本当の意味を理解するならば、もろもろの罪業 (ざいごう)は消滅して、たちまち真に安楽な佛果(ぶっか)を得る 境地にのぼることができると教えているな。 寅さん では偈の意味を、早く教えてください。 ご隠居 意味はこうだ。「諸行は無常なり。是(これ)、生滅の法 なり。生滅滅し已(おわ)って、寂滅を楽と為(な)す」、だな。 寅さん なんです、それは? ご隠居 わからんか? 実は私もよく分からない。だけど、言って ることの大体の輪郭はつかめるだろう。  この世界のすべてのものはみな移り変わり、しばらくもそのまま では止まらない。人の世も例外ではない。  人間は生まれたときから、すでに死が約束されている。つまり、 生あるものは必ず死ぬ運命にある。  それが天地自然の法則なのだ。だから、生とか死という観念から ぬけだして、その向こうにあるさとりの境地に到達すれば、そこには なんの心配もない平穏な世界があるのだよ、というふうに解釈でき ないだろうか。むろんこれは私の勝手な素人考えだが。 寅さん 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)というのは? ご隠居 インドの須達長者という人が釈尊のために建てた説法道場 で、精舎はお寺のことだ。 寅さん すると、祇園精舎の鐘の声を聞くと、諸行は無常なり、と 説かれる、お釈迦様の魂が伝わってくるというわけですね。 お大師さまと伊呂波歌 ご隠居 この涅槃経の偈が、誰かのアレンジによって、「いろは歌」 になったという話を、寅さんは知っているかね? 寅さん いいえ、全然。諸行無常が、なぜイロハニホヘトになるん です? ご隠居 寅さんのようにイロハニと幼児言葉で読むからいけない。 つまり、こう読む。諸行無常を、色は匂へど散りぬるを、と詠じ、 是生滅法(ぜしょうめっぽう)を我が世誰そ常ならむ、と詠じ、 生滅滅已(しょうめつめつい)を、憂いの奥山今日越えて、と詠じ、 寂滅為楽(じゃくめついらく)を浅き夢見し酔ひもせず、と詠じる のだ。どうだ、凄いだろう? 寅さん すごいと言われても、私にはよく分からない。歌の意味を 教えてください。 ご隠居 いろは歌の意味はこうだ。みずみずしい若さは、今を盛りに 花のように匂うけれど、やがては色褪せ散ってゆくさだめと知らね ばならない。  かくも人の世は短く儚(はかな)いものである。  きょうもまぼろしと現実のはざまを夢うつつに、一人愁(うれ) いの山路をたどる。 寅さん イロハニホヘトには、そんな仕掛けがしてあったとはね。 それで、いろは歌の作者はいったい誰なんです? ご隠居 ほかでもない。お大師さまという説が有力なのだ。 寅さん 有力ということは、確定したわけではないのですか? ご隠居 残念ながら、いまだに作者不詳だ。ただ、この四句の偈の 意味を、いろは四十七文字によって散文化したのは、単に常用仮名 の用法のために作られたわけではなく、このいろは歌によって、広 く宗教心を起こしてもらおうという作者のねらいが隠されている。 また、いろは歌や五十音のように仮名を発音的に整理することは、 古代インドの文章語であるサンスクリットをマスターしたお大師さ までなければ、とても作れないと主張する学者もいるな。 葬送行進曲 ご隠居 現在はどうか知らないが昔の田舎の葬礼は、四本の幟に、 必ずこの四句の偈を書き分けて肩に負い、淋しく鉦(かね)を打ち 鳴らしながら、野みちを行く葬列の風景がよく見られたものだ。 寅さん それなら、なにかの映画で見たことがあります。あれは、 いかにも淋しい光景ですね。アメリカ映画だと、ブラスバンドが賛 美歌かなんかを演奏しながら、葬列を墓地まで先導して行進する。  でも、その偈が葬式と、なにか関係があるんですか? ご隠居 さっきも言ったように、生者必滅こそ宇宙の真理である、 と釈尊入滅のときにお説きになった涅槃経の中にある偈ということ で、いつしか、この四句を幟に書きつらねて、野辺の送りをするよ うになったのではないだろうか。 ひとつは死者に対する供養と、惜別の思いをこめて。もう一つは、 あとに残された者たちへのいたわりと、戒(いまし)めが含まれて いるのではないかな。 寅さん どんな戒めです? ご隠居 ふだん健康に生活している人たちにとって、死は縁のない 遠い存在にすぎない。だから目先のことに振り回され、五欲(ごよ く)に染(そ)まって、あくせく暮らしている。 寅さん 五欲とは? ご隠居 五官、つまり人間の感覚器官が起こす欲望のことだ。眼は 色彩や形を、耳は音声を、鼻はにおいを、口は味を、身体は触れる ことによって五官に官能が生じる。 この心の障害となる五つの汚れを五欲というな。 寅さん なんだか人間は、五官があっては、いけないみたいですね。 ご隠居 五官をいちがいに悪者扱いしてはならないが、たしかに厄 介なものではあるな。  相当に精神修養をつみ、おこない清(す)ました人でも、おのれ の五官を制御するのは並大抵ではない。  ところでだ。そういう五欲本位の日常生活になかで、家族や親類 縁者、友人知人の死に目にあえばだれしも無常を感じる。それが人 情というものだ。 寅さん ははあ、そのとき幟に書かれた偈が、効き目をあらわすわ けですか。 ご隠居 そうだ。厳粛な死を前にして、諸行は無常なり、是れ、生 滅の法なり、といった文字を目にすれば、ああ、世の中は無常なも のだ。死は他人事(ひとごと)ではなく、我が身もいつの日か、あ のように死を迎えるのだから、うかうかしておれぬ。これからは自 分の人生をもっと大切にし、人間としての責務を全うしなければな らぬと、あらためて人生の意義を考えるよすがにもなる。 寅さん すると、その偈は、生きている者への、人生の応援歌でも あるわけですか? ご隠居 時宜と場所に叶った、またとない発奮材料といえるな。  無常といっても、なにも死のことばかりに比重をおいているので はなく、生をどのように意義ぶかく、価値のあるものにするか、そ のことを考えるのに恰好の言葉だ。  無常とか寂滅などというと、なにか縁起のよくない言葉のように 思いがちだが、それは誤解だな。 人間すべからく、この世に生きているあいだは、つねに世の無常、 肉体の無常、心の無常、時間の無常を思って、かたときたりとも無 為に過ごしてはならない。  お釈迦様は、死者の後生をねがうために、諸行無常……とおっし ゃったわけでは決してない。私たちは、ものごとのすべてにわたり 無常のスピードの速さを悟って、折角の一生を無駄に過ごさぬよう 心掛けたいものだな。 生きている者が大事 寅さん 近頃の佛教というのは、死者や葬式のためにある、という ふうに一般的に考えられていませんか? ご隠居 まことに困った風潮だな。 佛法は心をもって宗となす、とされているように、人間の心ほど尊 くて大切なものはない。  その心の宗を、いろんな角度から詳しくかみくだいて述べたり、 意味をおし広めたもの、これを佛教という。  だから佛教は、”死んだ者よりも、 生きている人のほうが、ずっと 大切”と考えている。 寅さん 言われてみると、佛教はたしかに、生きている私たちのた めのものですね。 ご隠居 佛教が、どれほど奥行きが深く、たくさんの宗旨があると しても、ひとつとして人間の心以外のことは説いていない。  したがって佛教の説く本質は、心の迷いを除くことにある。心の 迷いは人間の苦を招くからだ。  お釈迦様は、一切衆生の苦を見るにしのびず、抜苦与楽(ばっく よらく)の法門をお開きになった。 佛教が、そうした抜苦与楽の法門(ほうもん)と理解すれば、その 教えが、人間社会に欠くことのできない大切なもの、と知ることが できる。  人間が社会生活を営むうえで必要なものはたくさんあるが、佛教 がなぜ必要かというと衆生をして一切の苦を除き、究極の安楽を得 さしめるためにほかならない。  究極の幸福は、心の安心を得るにほかならず、みんなが佛教を信 仰するのも、また、そのためだ。 薪(たきぎ)をくすねた僧が牛となって酷使された話               「日本霊異記」より  延興寺に恵勝という僧がいた。その恵勝が、お寺の風呂をわかす 薪を一束無断で持ち出して、人に与え、そのまま死んでしまった。  その寺に一頭の牝牛(めうし)がいて、子牛を生んだ。  恵勝が死んで久しくなり、成長した子牛のほうは、型通りに荷車 のながえを体にかけられて、寺で使う薪を積んで、休む間もなく、 毎日毎日追い使われるようになった。  そんなある日のことである。  子牛が重い荷車を引いて、お寺へ帰ってきた。すると、寺門にた たずんでいた見知らぬ一人の僧が独り言のようにつぶやいた。「恵 勝法師は少なくとも涅槃経を読むのは得意であったが、荷車を引く のは、どうも上手とはいえないな」  それを聞いた子牛は、目にいっぱい涙をうかべ、そして、嘆き悲 しみながら死んでしまった。  この有様を見ていた御者(ぎょしゃ)が怒った。僧につかみかか らんばかりの剣幕でののしる。 「あんたは、大事なわしの牛を、妙な言葉でのろい殺した。この始 末をどうしてくれる気か!」と、役所へつきだした。  訴えを受けた役人が、事情を聞こうとして、その僧に会ってみる と、これが尋常一様の風貌ではない。気品があたりを圧し、からだ 全体から輝くばかりに光彩を放って、もったいなくて正視できない ほどの姿なのである。  これは只者ではあるまい、と判断した役人は、本来なら牢屋へ入 れるはずの僧を客間に案内し、ひそかに数人の絵師を呼び寄せて、 「あの法師の顔かたちを、そっくりそのまま似せて描いてくれ」と 依頼した。  絵師らは、戸のすきまから、盗み見しながら、一心に僧の似顔を 画きあげた。  こうして完成した絵を見ると、なんと、絵師が描いたいずれの絵 も、すべて観音菩薩なのである。 役人がおどろいたのはいうまでもない。あわてふためいて客間に走 ったが、その僧の姿は、すでにどこにもなかった。  役人はしばらく客間に座りこんでいたが、はたと、膝を打った。  あの法師こそ、疑いもなく観音菩薩の化身(けしん)であったこ とを、そのときはっきりと覚ったのである。  たとえどんなことがあろうとも寺の僧のものを横取りするような 真似をしてはならない。  大方等経も説いている。「四重五逆(殺生、偸盗、邪淫、妄語の 四種の重罪で、これを犯すと僧団から追放される。五逆は五種の大 罪、殺父、殺母、殺阿羅漢、出佛身血、破和合僧のことで、これを 犯すと無間地獄へおちる)は我もまたよく救うことができる。けれ ども、僧のものを盗む者は、我の救わぬところなり」とは、このこ とである。  また「今昔物語」は、次のように書いている。 「一塵ノ物トイエドモ、借用セシ物ハ返スベキナリ。返サズシテ死ヌ レバ、必ズ畜生トナリテコレヲ償ウナリ、トナム語リ伝エタリトヤ」
第十一話第十三話Kanjizai index

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