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佛教談義(ぶっきょうだんぎ) その十一 美食のゆくえ 寅さん すっかり秋ですね、何を食べてもうまい。おかげでお腹が またひと回り大きくなりました。 ご隠居 天が高く、馬も肥えるぐらいだから、寅さんが太るのも無 理はない。 寅さん それにしても、近頃の旨(うま)いもの情報の氾濫ぶりは どうですか。テレビや雑誌など、まるで親の仇のように、目の色を かえて美味しさを追いかけ回している。 ご隠居 旨いものを食べるのは、人間の最大の楽しみの一つだから だれでも興味があるのは当たり前だが、テレビの旨いもの番組など は、少しばかり度が過ぎるきらいがないでもないな。 寅さん はしゃぎすぎですよ。世界の各地で、現在もなお一億人以 上も飢餓に苦しんでいる人たちがいるというのに、日本人は太平楽 を決めこんで、美味探しにうつつをぬかしている。日本の食に関す る台所事情は、将来にわたって今のように何ひとつ心配しなくてよ いのでしょうか? ご隠居 そうとも言えない。いやむしろ不安材料のほうが多いので はないかな。  というのは、日本の食糧自給率がたいへん低いからだ。  長雨と冷夏の異常気象によって大凶作となった平成五年のことを 思い出してごらん。寅さんも輸入米を食べた記憶があるだろう。ふ だんは余り気味で、自給率百%といわれるお米にしてからそんな有 様だ。まして小麦や大豆など、大半を輸入に頼る食品が、先方の都 合で入ってこないとなれば、どういうことになる?  また、日本人が大好きな海老にしても、東南アジア諸国が海老の 養殖をやめればブラックタイガーのフライは食卓から姿を消してし まう。まぐろに代表される遠洋ものの魚なども、漁獲海域で紛争で も起これば、海が閉ざされて、魚は入ってこなくなる。  すると、どうなるか。たちまち私たちの食卓は貧しくなって、夕 餉(ゆうげ)のご馳走は、目刺しと野菜の煮物といった案配(あん ばい)に、昔の耐乏時代に逆戻りだな。 寅さん お言葉ですが、格安の卵それに鶏肉など供給過剰気味だか ら肉類は大丈夫でしょう? ご隠居 それが実はそうでない。 肉牛にかぎっていえば、日本の畜産はすべて外国からの輸入飼料に 依存しているから、牛の飼料がストップすれば、国産牛も消える。 何々牛と、土地の名前を冠した霜降りの美味しい牛肉も食べられな くなってしまうわけだ。 寅さん そんなことにならないためには、どうすればいいんで? ご隠居 世界が、この夏のような異常気象にならないとか、戦争が 起こらないことだな。 寅さん やっぱり浮かれている場合じゃないんだ。私もこれから粗 食に慣れておかなくちゃ。 ご隠居 寅さんは平生から、そんなに美食をしているのか? 寅さん それほどでも、----ビフテキなどひと月に一度食べれば御 の字です。 ご隠居 さっきのテレビの話にしても、番組に取り上げられた店の ほうは生活がかかっているから、最高の食材を使用し、腕によりを かけて見るからに美味しいものを作る。  それは当たり前だから、よいとして、いけないのは、その料理を 食べる側だ。ものをありがたく頂く感謝の気持ちがかけらも見え ない。  一つの料理の中には、人間の食用のために奪われた生き物の生命 が、一杯詰まっていることを失念している。かけがえのないそれら の命を、美味しく頂戴するという気持ちがあれば、食べ物に対する 態度はもっと謙虚であっていいはずだ。 寅さん 人間、思い上がってはいけませんね。私たちは、美味しい ものは、すぐお金に換算するが、使用される食材の命については無 感動すぎる。それにしても人間とは業(ごう)の深いものですね。 ご隠居 ほほう、なぜだ? 寅さん だってそうでしょう。ほんの一握りのベジタリアン(菜食 主義者)は別にして、大半の人間は生き物を常食しなければ生きて ゆけない。つまり殺生と引換えに私たちの生命が維持されているこ とになりませんか? 食物連鎖 ご隠居 もっともな意見だが、この地球上の自然界の営みをつぶさ に観察すると、あまりきれいごとでは済まない。優勝劣敗、つまり 強い者勝ちが、この世界の仕組みだからだ。  寅さんも食物連鎖のことは知っているだろう。生物界においては 弱いものが強いものに、順送りに食われていく。A種はB種に食わ れ、B種はC種に、C種はD種に食われるという、食う食われる関 係を食物連鎖というな。  これを海に例をとって簡単に図式化するとまず植物プランクトン がオキアミなどの動物プランクトンの餌になり、動物プランクトン はアジ、サバなどの餌として食われ、そのアジやサバは、マグロ、 サメなど大型魚に食われる。  つまり食物連鎖の出発点は植物プランクトンであり、人間は、海 と陸、要するに、この地球上における食物連鎖の頂点に位置するわ けだ。したがって寅さんみたいに、人間の業(ごう)の深さを嘆く のは、ちょっと筋違いではないだろうか。  生き物の世界は、私たち人間を含めて、食うか食われるの関係で 成り立っているんだから、そこに殺生(せっしょう)という概念が 入り込む余地はまったくないし、生き物を食べることによる罪の意 識に悩むこともないわけだ。 寅さん へえ、そんなもので? ご隠居 人間は食べなきゃ元気で生きてゆけない。ただ、食べるこ とへの感謝の気持ちをくれぐれも忘れないことだ。  その感謝の欠けている例として、生きた海老やあわびを網の上にの せて焼く残酷焼き、白魚や車海老のおどり食い、くねくね動く蛸の 足を一本すぱっと切り落として、手早く刺身にしてみせる料理など、 食事をショー化して楽しんでいる。  それらの行為には、言外(げんがい)に、ほら、お出しした材料は こんなに新鮮なんですよ、といったメッセージがこめられているの だろうが、生魚を食べる習慣を持たない欧米人から見ると、日本人は なんという酷(むご)いことをする人種、という悪いイメージが定着 してしまう。 寅さん ずっと以前、どこかの浜で、漁民がイルカを大量に捕獲した ら、海外でこれを報道した。しばらくして、またどこかの湾へ迷いこ んだイルカが打ち上げられた。  すると、待ってましたとばかり、またぞろ日本でイルカ虐殺、など といった記事がセンセーショナルに世界中に伝えられた。あれなども、 欧米人のイメージの中にある日本人の残虐性、という固定観念が、必 要以上に日本人を野蛮にしているようですね。 ご隠居 文化の違いから生じる誤解は、どうしようもないな。同じ アジア人でありながら、たとえばお隣の中国では、南の地方の市場 にゆくと、生きた鶏を食用として売っている。あの光景を見ると、 加工された鶏肉に馴染んだ日本人としては、鶏の末路が思いやられ て、哀れでならない。異文化を理解することは、実はなかなか容易 でないということだな。 慈悲深い日本人? 寅さん 同じ佛教徒でも、ずいぶん感覚的にズレがあるんですね。 ご隠居 見ぬもの清し、だ。日本人は潔癖症というか、いやな現実 から逃避してしまう。その点中国人は、食用として殺す行為に、い ささかの罪の意識も持たない。 寅さん 放生会(ほうじょうえ) というのがありますね? ご隠居 捕まえた鳥や魚を、山や川に放してやる佛会(ぶつえ)だ。 最近では下関のフグの放生(ほうじょう)が有名だな。梵網経(ぼ んもうきょう)に放生は作善(さぜん)の一つとある。 寅さん そんな心優しい日本人が一方では、ニジマスなどの川魚を 水中に放して、「つかみ取り」を催す。魚の気持ちになってごらん なさい。やれ、助かった、と思ったら、またまた、人間どもに追い 回される。魚にとってこんな残酷な仕打ちはありません。 ご隠居 まったくだな。それなど無益の殺生もいいとこだ。イベン トの人集めなどという言い訳は通用しない。  無益な殺生ということについていえば、昨年閉め切られた諫早湾 潮受け堤防もそうだな。 寅さんもテレビで見ただろう。あのギロチンと名づけられた堤防の 閉め切りで海水がこなくなり、広大な干潟に棲息する生き物はほと んど死に絶えた。  それについて哲学者の梅原猛さんは書いている。 「ここは、殺生戒の罪の現場なのである。貝やカニやムツゴロウが 殺され、またこの干潟を中継地としている渡り鳥も死ぬにちがいな い。しかもその殺害には、確たる目的もなく、それを犯した人たち には、まったく罪の意識もない。貝の霊を弔(とむら)った古代人 の、あのやさしい魂はどこへいってしまったのか。それでも日本人 は佛教徒といえるのであろうか」 寅さん 古代人が弔った貝の霊? ご隠居 食糧となった貝に感謝し、貝の再生を願って古代人が作っ たのが貝塚で、貝塚というものは、もともと貝の墓場だったのだ。  また、梅原さんはこうも書いている。 「一度、諫早湾へ行って、累積された貝の屍(しかばね)の風景を 見てほしい。それはおそらく戦後日本人の心の風景である。宗教も 信じず、道徳も重んじず、自分の金もうけのためには平気で殺生を し、何の罪も感じない心の姿である----」とな。 如是畜生帰依三宝 寅さん 揚げ足をとるようですが、うなぎ屋さんなど、商売のため とはいえ、日がな一日うなぎを割いていますが、あれなんか殺生の うちに入らないんでしょうか? ご隠居 りっぱな殺生だ。佛教では絶対的にこれを禁断している。 しかし、その殺生を嫌って、町のうなぎ屋さんがすべて店を閉じた らどうなる? あの美味しい蒲焼きが食べられなくなってしまう。 だから、うなぎ屋さんのように、毎日、生き物の命をちじめてお客 に提供する商売の人たちは、殺生というものの本質を見つめ、その 仕事にある種のおそれと、深い慎みの心を、人の倍も持ち合わせて いるものなのだ。 寅さん ということは、生計のための殺生は、殺生ではない? ご隠居 釈尊も場合によって、肉食を許し、殺生を許されている。 信者から布施された食物は平等に受けられている。  少々拡大解釈になるかもしれないがその理由はこうだ。人間の食 用になる生き物は、ならねばならぬ約束事で、畜生道に堕(お)ち てその罪をほろぼし、ずっと前からの彼らの負債をつぐなうために、 人間に食われているのだ、という考え方だ。 寅さん それが本当なら、私たち人間も幾分気持ちが楽になります。 ご隠居 よいか。およそ殺生は、貪欲(とんよく)から起こるもの と、瞋恚(しんに)から起こるものと、痴(おろ)かより起こるもの との三種がある。  自分の貪欲のために殺したり、怒りにまかせて殺したり、愉快がっ て殺すなどはもってのほかで、その貪殺、瞋殺、痴殺のために犠牲 になる生き物の恨みはいかばかりか----。  気分次第で勝手気ままに、または慰みのために無益な殺生するこ とを故殺(こさつ)という。  しかし、生き物の生命を奪うことをもって生業(なりわい)とす る人々の行為は、決して故殺ではない。故殺でなく無心なのだ。 無心だから、業(ごう)を結ぶ因縁(いんねん)がない。  悪心をもって殺せば罪となり、無貪、無瞋、無癡(むち)によっ て殺すのは罪とならない。罪にならぬばかりか、たとえば、うなぎ 屋さんなら、如是畜生帰依三宝と念佛を唱えながら、うなぎを目打 ちして身を割けば、かえって功徳(くどく)になるな。 寅さん なぜ功徳になるんです? ご隠居 うなぎ屋さんは、懺悔(さんげ)の功徳(くどく)によっ て罪を結ばず、割かれるうなぎは念佛読経で、その罪業(ざいごう) を転じるからだ。 寅さん うまく逃げましたね。 行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が   女人の髪に塗った油を猪の油と見抜いた話                   「日本霊異記」より 123456789012345678901234567890  奈良の元興寺(がんごうじ)はその昔、法興寺(さらにその前は 飛鳥寺)といい、飛鳥にあった。  その飛鳥の里で、法会の会場をかざり、行基大徳(だいとく)を 招請(しょうせい)して七日の間、法会(ほうえ)が設けられた。  近郷近在の僧侶から在家まで、高名な行基菩薩を一目見んものと 大勢の人々が押しかけてきて、みな熱心に法話を聴いた。  その聴衆のなかに、一人のうら若い女人(にょにん)がいた。女 人は薄く化粧し、毛髪なども髪油できれいに撫でつけ、行儀よく耳 を傾けていた。 ----と、突然、行基大徳が話を中断した。そして女人を見ていった。 「私は、この臭いにとても耐えられない。頭髪に猪の油を塗ったそ の女を、早くここから連れ出しなさい」  人の集まる法会に出るため、若い女の身だしなみとして、何気な く、ほどこした装いであったが、髪に獣(けもの)の油を塗ったの は場所が場所だけに、思慮がたりなかった。女人はたいへんに恥じ 入り、法会の席を逃げるようにして去っていった。  普通の人から見ると、なんの変哲(へんてつ)もない髪油の色で も、洞察眼(どうさつがん)に秀でた聖人の眼には、獣の油と植物 油は区別できるものとみえる。
第十話第十ニ話Kanjizai index

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