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鈴の法話  ----全てに愛を光と祈りを----1999.6月

日本一のカレーライスを接待したものです
      食べてくださることに心から喜びを感じて

               観音院 法主 鈴之僧正

 毎月、大般若転読法要の接待として饅頭を召し上がって
頂いている。あの饅頭は食べたら死なないように祈願がし
てある。食べる時は、千年も万年も生き続ける覚悟をして
食べて頂きたい。本気でそのようなことを祈願しているか
と問われれば、そうだと即座に答えられる。不老不死は古
代中国の権力者の願いであったが、今では至って庶民的な
願いで、かつ、叶えられないと皆さんは受け止めて、わた
しの話を笑いながら聞いて、無造作に饅頭を食べておられ
るけれど、話の重みを考えて頂きたい。

よその寺に無いような親切と工夫
     カレーも日本一の味で接待して

▼毎週水曜日は昼時に参詣された方にカレーライスを接待すること
になっています。
 どうして、このような習慣が出来たのか、わたしは深い理由を知
りません。
▼たまたま水曜日に参詣されて、カレーライスを接待された方が喜
んでおられると聞いて、このままでは不可ないと思いました。
▼わたしは、接待をするなら日本一美味しいカレーライスを調理し
て欲しいのです。
 召し上がってくださることに、わたしたちの感謝と喜びの心が持
てるようになって欲しいと願いました。
 かりそめにしろ、食べさせてあげる、なんて思うなら大変な思い
上がりです。

■わたしたちの基本的な考え方は「してあげる」ではなくて「させ
て頂く」ことにあります。
▼最近、多くの家主から聞く苦情に、借りてから返還するまで一度
もトイレの掃除をしていない住人が増えたそうです。
 わたしは皆さんにトイレの掃除を励行しなさい、などと言うつも
りはありません。
 多分、家庭でトイレを掃除した経験が無い、だからトイレの掃除
をする発想が頭から無かった、無理も無いような気がします。
▼わたしはトイレを舐めても良いくらいに清潔に掃除をする習慣を
もっています。深く考えてすることでは無くて、単なる習慣です。
▼観音院の便所は担当者が清潔に掃除することに喜びを感じてさせ
て頂いています。
 便所の掃除も「させて頂く感謝の気持ち」が大切だと思います。

▼わたしが観音院に住まわせてもらえるのは、ひとつには「み佛さ
まとの有り難きご縁」。ひとつには皆さまとの「有り難きご縁」に
依るものだと思っています。
▼本音で話しますと、寺に住ませてもらうことは願っても叶うもの
ではありません。皆さんの布施に依るものです。布施はよく読経料
と誤解されますが、これくらい大きな誤解はありません。
 布施は皆さんがご好意で、わたしに佛法の勉強をさせてくださる
こと、そのために環境を調えてくださる行為の一切を意味します。
 わたしは皆さんのご好意に感謝し、わたしの知り得た考え方を皆
さんに伝えるご恩報謝が湧き出して来なくてはなりません。
▼それらが自然に、かつ無理をしないで、特別に意識しないで出来
るようになることが望ましいことだと思っています。

■皆さんのご好意で、み佛さまに仕(つか)えて、畏怖という心の
動きは完全に無くなりました。
 恐怖というもの、不安というものが何も無くなった、このように
なると、幸せを突き抜けた、説明し難い至上の幸福をもつことが出
来ます。時間と空間に拘束されないで自由で在ることは一切の執着
から解き放された自己を知ることが出来ます。
▼人が幸せであるためには、深い思いやりと、相手の立場で考える
習性が大切になります。

▼観音院の専従職員は少なくとも寺に寄生するダニであって欲しく
ありません。職員は「させて頂くことに喜びを感じて」感謝で精励
して欲しいものです。
 何かをさせて頂くことに喜びを感じ、相手の立場で考えることは
仕事ではありません。
 僧侶という立場は絶対に仕事ではありません。生き方を勉強し、
より良い「生き方」を皆さんに提示する立場にあります。
 従って、毎日を生きて行く上で、自分のすることに至らなさを感
じて向上を目指すことは有りえても、自分の外に向けて不平不満は
絶対に有りえないことです。

■観音院に労働基準法の概念は馴染みません。給料の見返りとして
労働を提供する人は不必要です。
▼さりとて、修行に名を借りて不当な作業を強制したり、況んや虐
待などはありません。
 年功序列性もありません。大切なのは、与えられた仕事をするの
ではなくて、自分は如何に生きるか考えて行動することです。
▼時として、観音院に専従職員になった時に、自由に出来ることを
思い違いする人はあります。
 休みたい時は何時でも休めますから出て来ない、話し合いに参加
しない、掃除もしない、私用電話は使い放題、トイレットペーパー
まで持ち帰る、親戚を寺に滞在させて観光させる、机にマグカップ
を置いて珈琲の飲み放題…、やがて居なくなります。
 これは推薦した人の思い違いで残念ですが、あったことです。

 職員は、わたしを除いて全て評議員であり、運営に関与し、さま
ざまな権限を持っています。会社でいえば取締役に匹敵します。
 自分の行動について決定権を有するのですから、浄化作用を持た
ない人ですと寺が目茶苦茶になります。公私を混同し何かと利己主
義で過ごした人もありました。
 このような場合は評議員を失格し、自動的に職員の立場を失うこ
とになります。

■観音院は法人ですから、退職金規定も、勤務時間も一応定められ
ています。経営的立場の者が決めたものではなくて、職員の決めた
ものですから、職員はこれを守ることが望ましいことです。
▼大きな間違いがあっても懲戒免などはありません。その月分の
手当てと翌月分の手当てを予告手てとして受け取れます。
▼職員は衆望があれば誰でも観音院の代表者になることが出来ます。
 評議員に履歴書を求めないのと同様に専従職員にも履歴書や身元
保証人は必要ありません。
▼観音院は性善説で自然に運営されていて、人事考課をする役職も
生産性を向上させる担当者もいません。可能な限り自然な感じで、
れとなく在る、そのような調和と市民の意思の合意のもとに在れ
ば良いと願います。


寺の専従評議員になるという意味は
      公務員になることと類似していますが

■公務員は俗に公僕と称され、市民に奉仕する立場にありますが、
職務もさまざまで、公務員が相応しい仕事をしているか否かを判断
する部局もあります。
▼観音院の評議員になるには、通算して百回以上の法要に出席した
人か、または評議員として観音院に必要な技能知識をもっているか、
どちらかの人から任命されます。
▼どちらも満二十歳以上で、破産者、禁治産者でないことは当然な
ことです。これは観音院が決めたことではなくて、法律が定めてい
る宗教法人の役員資格です。
▼専従評議員は僧籍を持つことが求められます。僧侶として精進す
る覚悟がないと専従出来ません。
▼僧侶が借金の返済で悩んだり、サラ金で取立てを受けることは考
えられません。専従評議員は借入が出来ませんし、割賦を利用する
ことも禁止されます。金銭問題で悩む原因を作ってはなりません。
 保証人にもなれません。ここら当たりは公務員より相当厳格で酷
しい制限があります。
▼就任後に離婚すると評議員の資格を失います。さりとて、一々審
査したり調査しておりませんので自己申告になります。これは観音
院独自の倫理規定です。
 専従職員の場合は失職することになります。公務員は離婚で失職
することも、サラ金で借りても失職することにはなりません。
 協議離婚などは、双方納得の上ですから、責任問題は片づいてい
ます。むしろ崩壊した家庭で意地で離婚しない方が問題かも知れま
せんが、とにかく観音院では表面化した場合だけを問うているよう
で、矛盾がありますが、細かく内規を設けるのは技術的に難しいの
でしょう。
▼役員は日常的な定められた調達をする場合は、何も問題は有りま
せん。電気・水道・日常用品など見積書や契約書の不用なものがこ
れらの内に含まれます。
 何か特別なことをする場合、見積書を頂いて、契約先を判断しな
くてはならない場合は、契約を希望される事業所に所属する役員は
自動的に失格します。
▼これは、役員の事業所と契約することは同一人と契約することと
見做して排除している内規です。
観音院と利益が相反する場合は役員として機能しない定めです。
▼宗教法人の役員になっても格別な利益は一切ありません。
▼専従評議員は生活費に相当する手当てを受け取りますが、労働者
の概念は相当でありません。

▼監事は常勤で、これは大変な役割を負っています。観音院の役職
にある者が適正に業務を執行するよう常に監査し、不適正なことが
ある場合は役員会を招集したり、その結果をこの観自在の誌上で発
表する権限があります。
 わたしはもちろん、住職もその家族も監事に内緒事は出来ません。
 監事の権限を具体的に言えば、わたしは監事の了承なく行動する
ことは出来ません。監事はわたしのことを何でも知っていて、些末
なことから、外に出た時は外出先から相手まで把握しています。
 監事は寺の適正な運営に欠くことは出来ないものだが、そのよう
なことに気を使うようなことはしない。視線の十本や二十本をあび
ていても全く気にならない。
 好きなようにして頂いておれば何も問題は起きない。お蔭さまで
浮名を流すことも無く、夜は毎日十時ごろ寝て、食事も健康に配慮
され快適である。ただしプライバシィは完全にありません。

■善いことがなされているのですが、それはそれ、そのようなこと
は一向に気にしていません。
 外出する時に誰が付いて来ようが、酒を飲まないようにされよう
が、煙草の根元に八つも針穴が空いていようが、頭の中までは誰も
掻き回す者はおりません。
 寝る時、入浴、排泄、それに加齢死は一人で勝手にしろと、四大
自由は保証されています。


何やかやと有り難いことが多く
     み佛さまに集中してお仕えする

■多くの僧侶を知っていますが、わたしは完全に心配が無い、思い
患うことが無い、金銭の心配は全部監事の責任、寺は住職と役員さ
んの責任、生きることに心配が無ければ、死ぬことも心配無い。
▼住職も段々とわたしの立場と似て来ていまして、これは善いこと
です。生死を解脱し、物欲から解脱し、ややこしいことの一切から
解放されると、すぽっと現世のしがらみから抜けることが出来る。

■このような状態を他人さまは、とうとう「法主さんは悟られた」
などと言っておられるが、感じとしてはみ佛さまの隣に座っている
ような具合です。
▼この「悟り」と言うのが怪物で「覚り」と書く場合もあって難し
く考えると大変なことになる、何のことは無い、算数の問題が解け
たような状態で、広辞苑にも「迷いが解けて真理を会得すること」
と書いてあります。
■悩み事がある時は、極めて質の高いご返事が出来ます。けれども、
世間に対して、くれぐれも「観音院の法主さんは悟られた」などと
吹聴しないでください。
▼僧侶や宗教団体の人は、大なり小なり「悟り」は持っているもの
です。大きな声で「わたしは悟っている」なんて言う輩はすこぶる
怪しいと思います。わたしは、わたしのままでありたい、そのよう
な次元に引き降ろさないでください。

■ところで「悟る」と言うことは人が空を飛んだり、海の上を歩い
たり、壁をすり抜けるようなこととは何の関係もありません。
 「悟り」は商行為の見通しや宝くじの当選番号とも関係はありま
せん。強いて説明すれば自分の置かれている立場が明確に理解出来
た、怖いものや不安が何一つ無いと言うことです。
 今ひとつは他人に善意を持っていて悪意は無い。そのようなこと
だと思ってください。
 ただ人間の言動については的確に見通すことが容易な立場にはあ
ります。将来については、高い確率で語ることは出来ますが、人は
それぞれ行動を修正したり微調整しながら生きていて、正確に予測
することは無理です。

▼何はともあれ、観音院のお接待の水曜日のカレーライスを日本一
にして皆さんに召し上がって頂いて、そのことに深い感謝の気持ち
を持つこと。観音院のトイレは最高に清潔にして、皆さんに使用し
て頂きたいものです。

※寺が参詣される人に接遇するに際して一番大切なことは、させて
もらっている、有り難いという感謝の気持ちです。させて頂く以上
は最高の努力を惜しみ無く発揮して頂きたいものです。
 かりそめにも、してあげているなんて思った時は思い上がりです、
寺の専従評議員の資格を失格する前触れの兆候です。

※布施は僧侶に生活出来る資を与え、佛法を勉学せしめ、寺を維持
する基本となる浄財で、読経料とは全く関係がありません。存続が
望ましい寺院には希望して布施を出し、必要ない寺院に布施をする
必要はありません。観音院では布施は他の財産と共に皆さんの管理
下にあり、決議によって支出されています。

※専従評議員とは観音院の僧侶のことです。
 公私を混同したり、内規を守らないと評議員を失格し、自動的に
僧侶の立場を失います。同時に一般の事業所の職員と異なり、運営
する立場にいる人ですから、雇用されているとは言えません。誰も
管理しておりませんし、僧侶は自分で考えて行動するのが当然の姿
です。

※わたしの一挙一投足は僧侶や皆さんの注目の的です。これは有り
難いことで、皆さんが心配して保護してくださっている。ストレス
が少なく、生きるについて、これくらい楽なことはありません。
 反面、如何なることがあっても皆さんのご期待に反することは出
来ません。出来ないで済むことが有り難いのです。

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鈴の法話(2)

  お坊さん大募集といっても今回は東京近辺
         取り合えずは第一期生は二十人、飯田橋で

■お坊さんにもいろいろありまして、寺に生まれて住職を目指して
僧侶になる人。老後の仕事としてお坊さんになって「世のため人の
ために尽くそうか」と言う人。
 お坊さんになれば、多少は恰好良いし、就職難のおりから、一般
よりは高い給与で、生活が安定するとお考えの方は対象外です。
▼応募の条件は、出来れば四十五歳以上、または定年後で、年齢は
一応七十歳までとしておきます。

▼一応の修行はして頂きますが、苦行は全て除いてあります。
 例えば正座が出来るにこしたことはありませんが、全く期待して
おりません。あぐらがかければ大丈夫です。法要は椅子式が大半で
すし、民家の座敷で葬儀や法事をする時は半跏趺坐(はんかふざ)
といって結跏趺坐(けっかふざ)の略式で大丈夫です。半跏趺坐は
片足を他の足の股(もも)の上に組んで座ることですが、法衣の上
からは「あぐら」であっても見分けは付きません。
 苦行は、したい方が各自が工夫されて、滝に打たれるなり、峻険
な山に登られるなり、好きなようになされれば良いことで、お勧め
出来ません。
 むしろ、大切なのは心掛けです。情の問題です。慈悲心にまで高め
られれば言うことはありません。

▼教室は東京都千代田区飯田橋、ショッピングセンターの「ラムラ」
の上のビルの1608号室です。電話は03・5229・5237。

■「お坊さん」と言うと大層に聞こえますが、佛教徒は死ねば全部
「没後作僧(ぼつごさそう)」といってお坊さんにされるのですが、
皆さんご存知ない。
▼どうせのことなら、生きている内にお坊さんになろうかと考える
方が、本来あるべき姿というか、極楽往生間違い無しでしょう。
▼授業料は入門料が五万円だけで毎月の費用は無料です。お坊さん
が出来上がるまでは個人差があって、短い人で半年、自信の無い人
でも一年あれば大丈夫です。

■で、僧侶には検定試験はありません。途中で投げ出さない限り、
百%観音院の僧籍(そうせき)が取得出来ます。
▼僧侶に剃髪(ていはつ)の義務はありせん。わたしは毎日剃って
いるけれども、お洒落でしていることです。
 日常は法衣(ほうえ)を着なくてはならないか、着たい人は白衣
に白足袋、黒の改良服という簡便なものがありますから好きなよう
にしてくだされば良い。僧形で(そうぎょう)街を歩いていて知り
合いに会うと、多少の尊敬の念で接してもらうことが出来ます。馬
子にも衣装と言う言葉がありますが、その通りです。

▼大体養成したい人数は都内だけで約五十人、主に首都圏の葬儀や
法事を執行して頂く仕事があります。年間千件以上の葬儀を執行す
る予定です。それ以外にも社員教育の講話を依頼されたりすること
があります。これは、わたしどもより社会人として経験の長い皆さ
んの方が人気が出る可能性が高いと推定しています。
▼ところで葬儀を執行するには金襴の袈裟やら、何やら結構費用が
掛かりまして、観音院は経理を公開している寺ですから、東京も当
然ながら経理を公開します。
 今までに経理を担当していた方が居られたら、経理担当のお坊さ
んになってもらいたいのです。
 色々と外部と折衝する必要もありますから、そのような担当の人
材もおられるでしょう。

■お坊さんになって三年か四年はお礼奉公になります。それで金襴
などの法衣や、必要なものが整えば、給与と言うか、手当てと言う
か、皆さんで相談して決められれば良いと思います。
▼千件の葬儀を執行すれば一件の葬儀二十万円として年間二億円で
すから、その内に葬祭場も建つかも知れないし、大変なことになる
かもしれません。

■都内の葬儀の布施は大体三十万円以上は必要です。これを二十万
円以下にしてあげたいと考えています。少なくとも十万円は安くし
ないと世のためとは考えられないと思いますが如何でしょうか。
▼葬祭場は建設しなくても良いし、単なる「お坊さんの集団」でも意
味あることと思います。ですが、社会経験の豊富な方々が相談され
れば、わたしよりは素晴らしいアイデアが浮かぶと期待します。

▼僧侶には定年がありません。足元がふらふらになっても出来る仕
事は今時では珍しいですね。わたしは六十六歳ですが、年と共に大
切にされる傾向があります。
▼お金の無い人には読経料千円で葬儀をして上げるような気持ちも
是非とも持ってもらいたいものですが、難しいでしょうか。

■わたしは、若い夫婦で、幼子を抱えているような場合で、交通事
故で主人が亡くなられた場合などはお布施は帳場に「これから育児
にお金が掛かりますから」とそっと置いて帰ったものです。このよ
うな優しいお坊さんの集団になってほしいものです。
▼お坊さんになる人で土地を持っておられる人がおられたら、其処
へ葬祭場を建てることも考えられます。土地を提供した方は住職さ
んということになります。葬祭場というより寺ですね。
▼土地はともかくとして、僧侶になられるには多少の資産は必要に
なります。修行中は収入がありません。僧侶になれても、世間に受
け入れられるまでは収入はありません。
 まぁ儲かるような性質は全くありません。老後の高尚な趣味と考
えてもらっても困ります。
▼僧侶が金銭に困ると、世間に無理を言うことになります。観音院
の僧侶は誰一人として借金はありません。月賦で物を買う者も一人
もおりません。カードは社会の仕組みで持たざるを得ませんが、現
金の代わりです。

■お坊さんになる人として好ましい性格は「僧侶の世界に逃避する
希望の人」は絶対に向きません。
 山寺の住職にでもなって、心静かに読経して、世間の喧騒から逃
れて、安らかに往生したいと願われるのは誤解の最たるものです。
 世間の喧騒から逃げ出さず、どのようにすれば良い世の中が創れ
るか、考えて、実行出来るような創造的人材が必要とされます。

■現在の多くのお寺さんは社会常識の外にあります。市場原理とい
うことも、寺院が果たすべ役割も暗中模索でおられる場合が多いよ
うで、この佛教界に世間の皆さんの新しい血を入れて、寺は如何に
あるべきか考えてくださる組織を作りたいと願っています。大変に
困難なことを考えています。


大切な運営の公開と財務の公開制度
      内緒事は諸悪の根源で腐敗の原因です

■経理と運営は完全公開でないとどこかで情報開示出来ない部分が
生じてきます。説明義務が理解できない集団は、守秘義務の範囲も
理解出来ません。
▼宗教団体には個人秘に属する部分があって、国会でも裁判でも証
言が拒否出来る強い守秘義務があります。
■運営の公開は帳票から損益計算書、貸借対照表はもちろん、上場
企業や金融機関以上の完璧な、まるで経理の神様が記帳したような
ものを拵えます。
▼日常の几帳面さが大切で、それほど大したことではありません。

▼観音院で伝票無しで使えるものはワープロや自転車だけ、車両を
動かせば、日時・目的地・同乗者氏名・燃料を注げばその伝票、お
布施を頂くとその金額など、一覧性が極めて高く整理しています。
▼以前は電話も通話先が全て記録されていましたが、書類が膨大に
なり、これは廃止されました。
▼加えて、観音院には監査役に相当する常勤監事が三名いまして、
これが大変な権限を持っていて、独立して役員会を招集し、その役
員会では議長となって「役員の適正でない業務の執行があれば、こ
れを糺す」制度があります。
▼更に加えて、観音院には役職員の業務適正執行を保証する供託金
が二千万円も積んであります。
 万一源泉税などの脱漏や、監事から経費の否認を受けると、自動
的にその金額の倍額が寺に自動的に支払われます。公私混同などが
あっても懲戒処分は行いません。
 この供託金は、わたしが住職を引退する際に私有財産を処分した
一部を供託したもので、これは今後も少しずつ積み上げて行きたい
と考えています。
▼観音院の常勤監事三名の権限はわたしに関しては極めて厳しく、
睡眠・排出・入浴以外は、一人に放置してはならない、万一わたし
に間違いがあると百%監事の責任になる内規があります。
 これは一見如何にも厳しい規定のようですが、物品の購入から、
何から何まで監事任せ、わたしは極楽蜻蛉のように爽やかです。
 戒律とか内規は、より楽にするため、悪いことが起きないため、
良いことが向こうからやって来るように出来ているものです。


立腹するのは判断力が足りない
    佛縁(ぶつえん)が有るか無いかで考えるだけ

■お坊さんがはらを立てては不可ません。世間に矛盾があるなら改
善に向けて努力する。自分に対して理不尽になされることが起きた
ら「佛縁」が自分に無いか、相手に無いかのどちらかです。立腹す
ることなど、ありえません。
■自分のことは出来うる限り自分でする習慣がお坊さんには必要に
なります。信徒約十万人の頂点に立っている筈のわたくし、望めば
何でも他人さまがしてくださる。
 これは不謹慎、傲慢、横柄、堕落した考え方や行動になりやすい
危険な環境だと思っています。

 慎みとか謙虚さ、出来れば「無欲」になれると良いですね。便所
掃除から洗濯、身の回りの整理など、どんな作業でも喜んで感謝し
てやらせてもらいます。
 食事後に洗い物を流しや調理場に放置するようなことはしません。
世間では奥さんがしてくださるようですが、わたしは完璧な男女平
等の考え方を持っています。女性蔑視観や民族差別観を持っている
人は無くすよう努力してください。
お坊さんは本来は、蔑視観や差別観は持たないように努力するまで
もなく、そのような努力をすることが無く、自然に平等に人を愛せ
ることが望ましいとわたしは考えています。


お坊さんの最大の目的は何か
     迷いが無く、真実を知ること

■迷いが解けて真理を会得することを悟ったとも覚るともいいます。
 そのような人は覚者です。覚者(梵語 buddha 仏陀の訳)とも
いいます。仏陀は、自ら覚り他を覚らせ、覚りも行も完全な者を
覚者と言います。
▼観音院では、生前に得度して戒を受け、戒を破らないように努力
目標として生きて行くことを勧めています。
 得度を受けると、僧名か院号付きの立派な戒名が無料でもらえま
す。(本来の佛教徒は十善戒の内容が理解出来るようになってから
佛教に入門する意味で団体規約の戒律を守ることを約束し、正式な
佛教徒としての聖なる名を付けます。その名を僧名といいます。)

 ところが、以前は立派な戒名を望む人もおられましたが、今年三
月の得度者は三十名の全員が僧名を希望され、驚くとともに嬉しく
思いました。
 二文字の僧名、この世もあの世も共通して使えますが、名前に僧
侶らしさがにじみ出ています。
素朴で質素や十善戒を守る意思を示した僧名を日常使用されるこ
とは、とても望ましいことです。

▼観音院は良く拝むことで知られていますが、これを単なるキャッ
チフレーズだと思っている人が少なくありません。
 僧侶が拝むことは当然のこととしても、信徒さんが一緒に読経さ
れるのが「良く拝むことの実態」なんですが、大勢の人と一緒に読
経するのも、一人で読経するのもぞれぞれ良いものです。
▼諸行は無常で、得度し、修行して僧侶となった人も亡くなられま
す。通夜も告別式も友人僧が約五十名、観音院始まって以来の盛大
にして厳粛な葬儀になりました。
 で、全部の費用は三十五万円、生花一対、霊柩車、お棺などの費
用でした。
 情で通夜に参加し、友を告別式で送る、ここには戒名料の問題も
布施のことも、ことさら話題になるようなことはありません。
葬儀とはかくあるべきという見本のような尊いものでした。

■観音院の運営はしばしば話題になります。僧侶のボランティアが
約百名、作務(さむ)に関わるボランティアが約百名。費用は低廉
で済みます。昔の村のような機能が現在も生きているのです。


東京で「僧侶養成講座」を開く理由
     当初は、受講者の迷いを無くす

 観音院の信徒は東京にも沢山おられまして、葬儀代が高く付いた
などと悲鳴が聞こえてきます。ならば、信徒を含め、多くの都民の
方に比較的低廉な費用で葬儀をして差し上げること。
 二番目が最も大切なことですが、二十人でも三十人でも「迷いの
無い」日常を過ごしていただくことと、「真実」を知ってもらうこ
とです。
▼観音院の僧侶は寺院負担金とか宗費のような負担、寄附金の依頼
はありません。勉強は午前九時から昼まで、午後一時から四時まで
の一日六時間、土曜日曜は休みです。教材などは全て観音院で負担
します。より良い僧侶の団体が出来て、世のため人のために
尽くして頂きたいのです。

※公益法人や宗教法人の闇の部分は運営の不透明さ、説明不十分か
ら発生します。情報開示の習慣を持たないと、何を開示し、どこに
守秘義務があるか、そのような重大なことの線引きが出来なくなり
ます。プライバシィを守ることと説明義務は日常の訓練が重要です。
高度情報化時代の大切な心掛けです。

※僧侶をサービス業とか自由業として分類することも可能ですが、
失礼な話です。僧侶は職業であるとしたら聖職だと思います。地位
とか名誉とか財産の所有などから離れた精神生活を送っているべき
だと思います。
 相手の立場で考える優しい人柄を目指して、自己の完成に向けて
修行を続けている人たちです。

※腹を立てるとか激昂するなんて、僧侶はしては不可ません。あれ
これ迷ったり悩んだりするのも僧侶とは言い難いと思います。何か
があった時は改善すれば良いことです。
 迷いや悩みから遠ざかることが望ましいと思います。自分の心を
高めながら世間の人の幸せを考えて生きて行きたいと願っています。

※東京が一段落したら、次は大阪でしょうか。これは、わたしの考
えることではなくて皆さんの考えられることです。わたしは、ああ
しようとか、こうしようと考えるのは苦手なのです。組織のトップ
としての資質を備えていません。観音院の備品のようなものと言う
のが正確なわたしの立場だと思ってます。


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Kannon-in English version

e-mail:kanjizai-s@kannon-in.or.jp