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鈴の法話            全てに愛を光と祈りを   1998.9月−(1)

けちな上に欲張りで貪(むさぼ)るようでは
         その上に横着で腰が重いようでは

----不慳貪・不瞋恚・不邪見・エトセトラ----
               観音院 法主 鈴之僧正

 慳貪(けんどん)な人は家を潰(つぶ)します。昔から「慳貪く
ずれ」と言われて嫌われた性格です。分不相応な物を望んで、努力
しない、強欲の固まりみたいな人のことです。
 出すものは唾でも嫌だという人で、愛想も言わずサービスも悪い、
ボッタクリの店を想像して下さい。二度と行かない、と思わせるよ
うな無茶苦茶なサービス業を想像して下さい。ほとんど落語の世界
のような物凄いことを、出会ったら嫌になる前にげらげら笑えるよ
うな、有りえない人格ですから、心配ないと思いますが・・・。


題名は忘れましたが、梅干しを
  睨(にら)んでご飯を食べるような・・・

■ご飯を食べる時におかずを節約する話があります。梅干しを見て
いると唾が湧いてくる、この唾液でご飯を食べると一方が自慢しま
す。片方は梅干しを舐めては皿に返す、唾液が梅干しに付いて段々
と量が増えると汚い自慢です。
 なんともユーモラスな慳貪振りですが、梅干しを食べない点は両
方とも同じです。これは慳貪の初心者なんです。
 本物の慳貪なら梅干しを見せない、隠して自分だけが見る。ここ
までやらないといけません。

■慳貪(けんどん)は一種の手抜きなんです。慳貪女郎という言葉
もありますが男女関係の手抜きも慳貪のうちに入ります。自分さえ
満足すれば良いという性行為などが、やがては性格の不一致という
離別の理由にもなるから大変です。
 性行為の慳貪は再三相談にも持ち込まれまして困惑しています。
 演技と義務とか、妙な説もあって、そのようなことは結論的に慳
貪に該当することになります。
 誠意とか思いやりとか、相手の喜ぶことをする強い意思、その意
思も継続されるものでなくてはなりません。ただし、甘やかすとか
猫可愛がりをすることは除きます。

 人間関係には残念なことですが、「飽き」があります。二分二十
秒に一組が離婚する昨今ですが、この風潮には歯止めを掛けたいと
願います。
 愛を惜しむことは、慳貪のうちでも最も性質の悪いものです。
 飽きには引き金があります。厚かましい、身のほど知らず、強欲、
情に甘えて金銭物品を欲しがる、採算が合わない、無礼、礼儀知ら
ず、図々しい、馴れ馴れしい、迷惑を掛けることが多い、だらしな
い、調和が取れない、うらやむ、怠惰、横着、下手、不潔、手抜き、
甘え、わがまま、無理難題、時間が守れない、金銭感覚の麻痺、金
銭管理の無能力、使途不明金が多い、浪費、善意が量れない、借り
た物を返さないなど、何でも理由になります。
 亭主関白、かかあ天下なども、容易に飽きの理由にされます。
 料理をしない、茶碗を洗わない、掃除ができない、洗濯が嫌いと
いうくらいで壊れた人間関係も最近ではよく聞くことです。これら
は男女共に言えることです。女性にだけ要求されているのではあり
ません。男性の配慮を切望します。

 さらに怖いことは、最近では友人関係やお客さんまでも選択され
る傾向になっていることです。
 飽きの原因に生活習慣もあります。夜昼が逆転している、朝寝坊
型、度を越えた飲酒喫煙、趣味嗜好など極端に異なる場合は家庭が
壊れたり、組織から疎外されたりする例もあり、共同体の成立要素
を見る上で重要な観点です。

 慳貪の反対語は博愛とか、面倒見が良いとか、情け深い、慈悲な
どの言葉があります。
 博愛にしても慈悲にしても、人がもつ善い傾向として称賛される
べきことですが、「佛の顔も三度」という諺があるように、いかに
温和な人、慈悲ぶかい人でも、たびたび無法を加えられれば、しま
いには怒り出す、結果として慳貪よりも凄まじい仕打ちとして表面
に出ることがあります。


慳貪を呼び出す無法行為
         思い上がりも無法行為の元

■慈悲深い人が愛想を尽かした時は、慳貪を通り越して、頑丈な鉄
の扉を閉ざしたように、かたくなに一切の慈悲を仕舞い込むことは
多く見られることです。
 まるで電源を抜いたパソコンのような状態が第一段階です。努力
して電源を入れれば人間関係の修復も一縷の望みがある場合です。
 ところが、パソコンそのものをぶっ壊した状態、これはもう回復
は絶対に不可能です。
 気の毒なことですが、この状態も慳貪の一種で、御佛様(みほと
けさま)の厭(いと)われることは間違いありません。
 十分に同情できますが、環境と相手次第で対応が異なってくるの
は本当の慈悲とは言えません。
 さりとて、世の中には善い人を痛めつけるだけ痛めつけて、その
上に慈悲的行為を求める人もいます。実際の対処となると個人の範
囲では無理があり、弁護士さんなどに相談されて、世法の世話にな
るしか道は無いでしょう。

 いろいろな社会的約束事についての訓練がなされていない、そこ
から起きる軋轢(あつれき)が通れば無法行為で、前世では仇では
なかったかと思えるほどに縁が切れることもあります。

 どちらに責任が有るとか、社会的態度が訓練されていなかったと
いうような問題ではなくて、破綻すべくして当然に破綻した関係と
受け止めると気分が楽でしょう。

 お寺の住職さんたちの愚痴を聞く機会も多くあります。最近のお
寺さんの悩みは「慈悲」を強要されること、気付かぬところで寺の
資産が浪費されること、奉仕者同士の仲違いだそうです。
 強要される慈悲は、生活費などに属する金銭の寸借などの貸借に
始まり、他の慈善を目的とする団体からの寄付要請など、大変な時
代になっているそうです。
 資産の浪費と言えば、例えば、寺の電話を借りて国際電話を沢山
使うこととか、寺のパソコンのCDロムや備品などが持ち去られる
とか、いろいろあるようです。
 奉仕者同士の仲違いは、手が付けられないそうです。寄合の食事
寸前に参加し、茶碗も洗わずに帰るなどが積み重なって、奉仕者間
で疎外されるようになる、まるで町内のゴタゴタを寺に持ち込まれ
たような感じだそうです。
 結論としては、これもご縁が切れることになるそうです。


慳貪な寺もあれば、慈悲の寺もある
          寺院の公共施設としての公益性は

■お寺さんの愚痴について述べましたが、これは悪循環といった方
が正確です。
 お寺の本来は、教えを説き、修行する場所で、教えを必要とする
信徒の浄財で成立しています。
 ところが、寺に僧侶が住み着いて、妻帯し、子供が生まれるよう
になってから事情が変わってきました。
 僧侶にも慳貪な人はいますが、建前は「全てに愛を、光と祈りを」
なんですね。奥さんは信徒が選んだのではなくて僧侶が選んで決ま
ります。
 そこで、建前通りに「全てに愛を、光と祈り」と行動されると、
奥さんはたまったものではありません、たちまち困窮貧苦のどん底
に落ち込んでしまいます。
 子供を育てるためには節約をしなくてはならない。世間でいえば
浪費家の主人とその奥さんといった関係です。これは経済的に破綻
するか、離婚するか、節約に徹底するか、選択の範囲は限られてし
まいます。節約を間違うと慳貪になります。大変なことです。
 良い伴侶を娶ったつもりが大変な浪費癖をもった奥さんで、住職
が困惑される例も少なくありません。しかも最初は借りてきた猫の
ごとく、次第に豹のように変身されると寺が傾きます。


教えを説くことに慳貪な僧侶
          住みつかれると檀信徒の災難

■僧侶のあるべき姿として、教えを説き、儀式を執行し、寺院を清
潔に維持してほしいものです。
 ところが、話が苦手、読書は嫌い、文書は書けない、その上に、
内気で、引っ込み思案の人でも、僧侶にはなれます。
 このような場合は教えを説く内容をもてない、話せない、無い袖
は振れない訳で、慳貪(けんどん)になります。
 横着ですと、寺が汚れる、便所が臭くなる、読経はあまりしない、
これは汗を流すのに慳貪な人で、本当は僧侶になるべきではなかっ
たといえます。
 さりとて、立て板に水を流す、相手に一切発言させないような僧
侶もいまして、自己主張だけというのは、慳貪が喋っているような
もので周囲の災難です。

▼ところで、僧侶という言葉に、社長とか会社員とか、何でもよい
ですから職業を当てはめてみて下さい。慳貪はどの仕事についても
他人に災難をもたらすものです。
▼内気は決して悪い性格ではありません。内向的な性格と言い換え
ても同じことです。思っていることを他人の前で発表することは、
訓練で可能になります。消極的も、同様に慎重という意味であれば
決して悪い性格ではありません。

 やる気がないのは、生き方として慳貪ですから改善する必要があ
ります。どうすれば改善できるかが問題になります。
 これについて、色々と方法論がありますが、確実なものはないよ
うに思います。
 何かのことをして、上手く出来て、成功して誉められる、そのよ
うな経験を積むことが効果がありますが、甘やかしては本人のため
にはなりません。

 僧侶であれば読経が上手になったくらいでは駄目です、当たり前
のことです。困った人や悩んでいる人の相談に乗って、相手から救
われたと言われた時、あるいは有り難いと言われた時に実感があれ
ば一人前になります。

 料理人であれば美味しいと言って食べてもらえた時、販売であれ
ば役に立ったとか良い物だと言われた時、どのような職業であって
も感謝されれば必ず自信がもてるようになります。
 ボランティアなどで奉仕活動をして、感謝されれば必ず自信につ
ながります。
 自信があることをしても、必ずしも誉められるとは限りません。
善意がそのまま受け入れられるよう世間は甘くありません。
 時には貶(けな)され、非難され、誤解されることもあります。
だからといって、何もしないでいては毀誉褒貶(きよほうへん)は
ありませんが、成長は期待出来ません。何かの理由で、慳貪な人と
なっても、排除するよりは後ろからポンと押して上げるような仕組
みは必要です。
 励ますことは難しいことです。励まし過ぎてもいけず、タイミン
グがあります。放置したり黙殺することは最もいけないことです。
 慳貪は慳貪を繰り返して、より酷い慳貪になる傾向があります。
 思いやりのない言動をして疎まれ、疎まれることによって、より
乱暴になるという具合です。理屈が分かれば改善出来ます。


年寄りは足が遅くなります
      同伴者は年寄りに思いやりを

■団体参拝などを主催しますと、一番気を使うのが行列を先導する
場合です。
 先頭の方は、後ろの人を待っているような状態でも、後ろの人は
先頭に追いつくために大変な無理をされ、時には膝を痛められたり、
ころげられることもあります。
 私も、四十代は行列の先頭に立てましたが、六十五歳にもなると
行列ではご迷惑な存在になりました。
 若い人がゆっくり歩かれても早く感じます。それでも付いて行こ
うという気持ちは自然に働きます。
 先般、一寸無理をしたら膝がギジといいまして、階段の昇り降り
に難儀をしています。 全治までには二週間から三週間は安静にし
ていなくてはなりません。「最近の若いものは思いやりが無い」と
愚痴りながら一緒に行動して怪我をするか、一緒に行動することを
諦めるかの二者択一ですが、淋しいことですね。

■誰でも手酷く扱われますと、交際を避けたり、人間関係が切れる
ことがあります。
 元気な人は子供や年寄りに対して「思いやり」について慳貪(け
んどん)にならないようにして下さい。思いやりの無い態度、子供
を急かせる、年寄りを早足で歩かせる、ガミガミと小言を言ったり
ケンケンした物言いをする、塩辛い物を食べさせる、これはもしか
すると「いじめ」かもしれないと思います。

▼子供や年寄りは普通の大人の人を信じて頼りにしています。信頼
されている人が危険な道を歩いたり、早く歩いたりして、万一怪我
でもさせたら、二回も怪我をさせたら、三回目は、これはもう信頼
される資格を失います。
 信頼は学習効果、同じことを何度もして、幸いの確率の高い方を
選択する習慣です。不幸の確率が高いと終りになります。

※慳貪(けんどん)・瞋恚(しんに)・邪見(じゃけん)は、他の
善くないことと一緒になされます。慳貪のケチの程度は、隣家の火
事にヤカンで水を掛けるような行為だと思えば間違いありません。
質素節約は、如何なる意味でも慳貪には相当しません。物惜しみに
加えて、情けが無い、思いやり皆無の人で、ご馳走に石を塩で煮て
出すような人です。

※慳貪には、悪意や敵意を含むと考えて下さい。手抜きも横着も、
自分の利益のためならまだしも、思いやり皆無のことを相手に知ら
しめる確認の意味が含まれています。恨み骨髄に達するような痛み
が相手に長く残ります。慳貪なことをしない、思わないことは、と
ても大切な「戒」で優しくありたいですね。

※慳貪は、全ての人にとって疫病神です。人の心をギスギスさせ、
人間関係を壊すのみならず、組織を破壊に導き、難題の根源のよう
な性質があります。文化も歴史も伝統も全て破壊されます。慳貪は
悪魔の心です。
 慈悲も善意も、奉仕も、慳貪な心の中に住むことが出来ません。
人間の心と慳貪は両立しません。

※慳貪は、弱者やハンディキャップのある人に対する配慮が全くあ
りません。非常に残虐な人で、屁理屈をつけ、行為の責任を他人に
転嫁し、自己を正当化しながら、反省することがありません。
 慳貪だと思った時は逃げることが大切で、これを個人が改善して
上げることは不可能で、み佛さまも厭(いと)われます。



                




鈴の法話 1998年 9月号−(2)


慳貪(けんどん)の対極にあるものを考える
    優しさだけでは世の中は幸せに生きて行けない

■物を惜(お)しみむさぼること。けちで、欲ばりなこと。なさけ
心のないこと。むごいこと。愛想がないこと。邪慳(じゃけん)な
ことなどを慳貪(けんどん)といいます。
 また、極めて程度の低いものを総称して「慳貪」と言う場合もあ
ります。少なくとも他人に自慢が出来るようなものではありません。
間違っても「慳貪屋」というような屋号を付けてはいけません。

 慳貪の対極にあるものは慈悲ですが、これは大変な実力を必要と
するものです。慈悲はみ佛さまが人々をあわれみ、いつくしむ心で
す。人々に楽を与えるを慈、苦を除くを悲というそうです。
 抜苦与楽(ばっくよらく)の大仕事をするためには、刻苦耐労、
剛健弘毅、勤勉奉仕、質素倹約、団結奮闘、報恩積善、持戒堅固と
いう七つの徳目を誠実に実行すれば不可能ではありません。
 これらの徳目は慈悲をもたらす要素を蓄えることを意味します。

 ただし、み佛さまの慈悲に、金銭給付の項目はありません。これ
はしばしば誤解されます。
 金銭の貸借とか給付などは宗教目的と遠く離れています。

▼十年も昔のことです。春の夜更け、電話が掛かってきて、「仕事
に失敗し、子供の入学金が払えない、観音院は親切で優しい寺と聞
いたから、お金を出してくれないか」とのことでありました。この
程度なら何とか出来ないこともないでしょう。
 月末に三千万円を用立てて欲しいと会社の社長から依頼がありま
した。これは無理な相談です。
 発展途上国に小学校を寄付しようという話には乗りました。
 ですが、この手の話に一々乗っていると放漫運営の誹(そし)り
は免れないことになります。

 金銭で経済的に失敗した人を救済することは、宗教活動とは全く
関係がありません。背に腹が変えられない場合、僧侶の情に縋(す
が)られても何のお役にも立てません。
 正直にお話すれば、お金を差し上げたことも、貸して上げたこと
も再三あります。騙(だま)されることを承知の上で出しました。
 結果として、その人は来なくなり、誹謗中傷・罵詈雑言が返って
きたことがあります。
 いろいろあって、金銭の相談には乗らない方針を明確にして、観
音院の僧侶は自由になる金銭を一円も持たないようにしました。
 それでも、借金の申入れは、月に二、三度は絶えないようです。
断るのは気の毒なことです。

 観音院の財産は信徒さんの管理で僧侶は恣意(しい)に支出する
ことは不可能で反すれば懲戒免職 されます。僧侶の手当ては公務
員 給与の半分くらいで、賞与も残業 手当ても無いのは当然のこ
とです。
 さりとて皆さんや職員に慳貪といわれるようなことはありません。
 皆さんのお寺ですから、皆さんの役に立つよう運営されていて、
就業規則は十善戒で代用されているような優しい応対の傾向です。
 ですから、ここで述べていることは、観音院の就業規則の運用の
解説みたいな性質があります。
 他面では、十善戒が説かれたのは人間の心の片隅に、慳貪を始め
として、仕方のないような人間にあるまじき言動や欲望が内在して
いて放置すると、世間も無茶苦茶になり、観音院も途方もないこと
になるからです。


 人は欲望のままに生きると
      この世を地獄にしてしまう

■毎月「観自在」に四百字詰め原稿用紙にして三十枚から四十枚の
原稿を書き続けて約二十年、その前に日刊の「朝の言葉」を十年く
らい、毎週のテレホン法話は八百字、私はよく話し、よく書くこと
に努力してきました。
 そして気が付いてみたら六十五歳、ファンというか信徒さん随分
と多くなって驚いています。
 これは大きな幸せで、皆さんにも、み佛さまにも、とても感謝し
ています。

 十善戒の話について、再三にわたり「私のことが書いてある」と
皆さんから指摘されます。これは根拠のない誤解です。
 私は私の心を見つめて、人生経験と照合して、私の信仰に基づい
て感じたことを述べています。
 ですから、これらの原稿は私の懺悔(さんげ)であり、あるいは
成功の記録であり、助言の集大成でもあります。また時としては、
自分自身に対する戒(いまし)めでもあり、み佛さまに対する誓い
でもあります。
 で、できれば苦しみ悩むような生涯は送りたくありません。皆さ
んにも、折角この世に生命を受けられのですから、充実した楽しい
生涯を過ごして頂きたくて、いろいろと述べてきた次第です。

▼私が生きてきて、組織を運営するにあたり、私も人も、組織も、
運営や内容、将来に対する構想などについて説明することに、絶対
に慳貪(けんどん)であってはならないという信念をもつようにな
りました。
 今日では「説明義務」としてその概念が比較的に知られてきまし
たが、企業秘密とか個人秘というくくり方で伏せられてきたものが
少なくありません。
▼そのような訳で、私は今後も私や観音院の現在や将来について、
或いは、教義について明確にして行くことをお約束します。
 明確にすることによって皆さんに安心して交際して頂けること、
皆さんに皆さんのお寺であることに確信をもって頂くことが出来る
と思います。
 また、それによって出来ることと出来ないこと、しなくてはなら
ないことと、してはならないことが明確になってくると思います。

▼さて、私の日常について少し述べておきましょう。
 起床は毎日午前五時ごろ、しばらく佛前(ぶつぜん)にあって、
八時前後に食事をします。
 朝昼は小むすび二、三個、目玉焼きにサラダ、みそ汁が普通です。
 午前中は書き物をして、午後は来客と会い、夕食は午後六時ごろ
一汁二菜です。接待で外で食事をすることがありますが、遅くとも
午後十時までには寺に帰ります。
 その後に来客があることもあって就寝するのは午後十一時です。
 東京には月に一週間くらい滞在しますが、往復は新幹線のぞみの
グリーン車を使っています。
■ここ十数年超多忙で、所謂(いわゆる)休日は一日もありません。
体調は良い方ですが、加齢による衰えは致し方ありません。体力の
続く限り僧侶として勤(いそ)しんでいます。


 出来ないことを出来ると誤解されないために
     能力を過大に評価されると慳貪と誤解される

■観音院の年間施入金は約一億二千万円、予算に基づいて支出が執
行されています。これらは五十名の評議員の意見を聞いて、十名の
責任役員が決定します。教師総代七名の意見も入れられます。
 決算は三名の監事によって精査され、使途不明金などは一円もあ
りません。
 公私の別は厳格で絶対に混同しないよう運営しています。収支計
算書は毎日作成されています。
 用件を明確にしない職員の外出はありません。何時、何処まで、
何をするために車両を使用し、幾らの費用が支出され、何キロ走行
したかなど完全に伝票が作成されて保存されています。
 私について「お忍び」でと誘われることがありますが、私は職員
か役員の同行が無いと外出することは絶対に有りません。
 これは住職も全く同様で、厳しいようですが習慣です。慣れてし
まえば何でもありません。
 お寺は、み佛さまと皆さんのために在るのですから当然過ぎるく
らい当然のことです。
 三十数年前から計画して、軌道に乗せて、職員の誰一人として苦
痛に思っている者はいません。


観音院の法主さんだと言われても
        何も権限なんか持っていません

■お寺を囲む商売は、沢山あります。どこのお寺さんでも住職さん
が全ての権限を持っておられるようです。そこで、観音院に何かを
売り込みたい人は「住職さん」と名指しで電話口に呼び出そうとさ
れますし、アポ(予約)も取らずに直接に尋ねて来られます。
 観音院の住職は皆さんの悩み事や困り事の相談には乗りますが、
商用の用事には決定権がありませんので面談しません。

 法主(ほっす)である私も教義に関するお話や悩み事や困り事相
談なら話を聞きますが、商用で時間を割くことはありません。法主
などと大層な名前を頂いていますが、私は観音院で役職はおろか、
如何なる地位にもありません。
 単純明快に言えば、私は観音院が居心地が良いので六畳一間を頂
いて居させてもらっているだけです。面倒を見てもらっている立場
で、観音院の運営に関しては、意見を求められれば述べるだけで、
それだけの存在です。

▼「刻苦耐労(こっくたいろう)」とは働くにあたり横着をせず、
多くの困難な仕事にも愚痴を言わず、コツコツと遣(や)り遂げる
ことです。
▼「剛健弘毅(ごうけんこうき)」とは、心身を健康に保ち、心を
大きく広くもつことです。
▼「日常勤勉」とは、陰ひなたなく一心に仕事に精励することです。
▼「団結奮闘」とは、私の場合であれば皆さんと親密に相談しなが
ら力を合わせて、出来ないと思われるようなことも遣り遂げる生活
態度のことです。
▼「報恩積善」とは、生かされていることに感謝し、日々善行を積
んで努力し飽きないことです。
▼「持戒堅固(じかいけんご)」とは、ともすれば挫(くじ)けそ
うになる自分を励まし、堅く十善戒を守ろうとする心で日々を過ご
すことであります。

■これらの事柄も、馬車馬のように騒々しくやってはなりません。
静かに、淡々と、丁寧に、思いやり深くすることが求められます。

▼人々は、他人や自分を取り巻く環境に、激変を望んでいません。
物事は維持されないと支持されません。
 さりとて同じことの繰り返しでは飽きられます。信用されるため
には創意工夫が積み重ねられることも同時に求められます。

 行動はよくよく考えて、僅かでも進歩向上しなくてはなりません。
 一番大切なことは、一貫した行動の理念です。どのように変化す
るか不明なものは支持されません。
 より便利に、より高機能に、より使いやすく、より安く、より親切
に、人は絶えず他人から期待され、その期待に誠実に応えることが
受け入れられる条件です。

■慳貪な人か、不慳貪な人かで、社会適応性は大きく変わってきま
す。
 物を惜しみむさぼること。けちで欲ばりなこと。なさけ心のない
こと。むごいこと。また、愛想がないこと。邪慳(じゃけん)にす
ること。相手の立場で考えないこと。他人を怠惰にさせること。
甘えさせること------。これらは全て慳貪なことで、自己を過ち、
他人を不幸にする大きな原因となります。

▼慳貪には、誤魔化しが付き物といえます。何故なら嘘をつかない
と通用しないことが多いからです。
 慳貪は、喧々(けんけん)とした物言いが多いものです。情愛に
欠けるので、一方的な物言いで自己主張が強く、言葉に相手を脅か
すような、かつ投げやりな言葉を多く含むものです。

▼誰が、何時、何処で、何を、誰のためにしたか、これらのうちで
不明なことが多く、不明なことは慳貪であるが故に起きることであ
り、多くは慳貪な人の利益のためになされていることが多いもので
す。
▼慳貪な人の共通点は事後報告が多く、事前に相談されていないよ
うです。何故なら、事前に相談されると許可されないような身勝手
な計画であり、後で一方通告的に報告され物議をかもします。

▼慳貪な人に会うのは、段々と厭(いや)になるものです。話すの
も厭になってくるものです。話したり、会ったりする都度に慳貪な
人から傷つけられているからです。
 慳貪な人は心に剃刀をもち、言葉に剃刀を含んでいます。知らず
知らずの内に財産を掠(かす)め取られ、心臓を文字通り切り刻ま
れます。
 傷つけられると痛いですから、避けて当然です。
 他人に会ってもらえない、話すことを避けられる人は、自分が慳
貪でないか反省して下さい。何処(どこ)かに剃刀を隠しもってい
ないか反省されれば思い当たる筈です。
 剃刀を捨てて、相手の立場で考えることが出来るようになれば、
救われる第一歩です。

■慳貪な人と出会ったら逃げるにこしたことはありません。同時に
自分の心から慳貪さを除く努力も、世渡りには大切な心掛けです。
▼私は慳貪な人でも少しは受け入れる心をもっています。ただし、
少しであって多くではありません。
 相当な辛抱や我慢が必要です、多くの場合は、裏切られることは
覚悟しておかねばなりません。
 限界に達した場合は「悪い触れ合いであった」と割り切って、そ
の人を忘れることにしています。

 「僧侶だから救う義務があるのではないか」と聞かれると、「そ
のような義務は最初から無い、各個人の問題」とお答えします。
 脇を甘くすると自らが破滅し、寺を崩壊させることになります。
 私は、慳貪な人を救えるほどの能力は無く、思い上がってはなら
ないと自戒しています。


※僧侶が決してしてはならないことは、金銭で人を救おうとするこ
とです。貸付も絶対にしてはなりません。金銭を貸し付けることは
僧侶が債鬼になることを意味します。この世の中で債鬼に責められ
ることは最大の苦しみです。僧侶が世間の人を責める債鬼になるこ
とは、み佛さまが強く厭(いと)われることです。

※僧侶は法を説くに慳貪であってはなりません。機会があれば法を
説くことに終始しなければなりません。ただし人を見て法を説かね
ばなりません。全ての人に無分別に法を説いてはなりません。相手
の理解度に応じて法を説かねばなりません。
 また、僧侶は自分の属する宗団について説明義務があります。

※観音院は、金銭を貸し付けたり給付することはありません。職員
も月賦で物品を購入することを禁止されています。信徒間の金銭の
貸借に寺が関与したり、紹介したり保証することは厳禁、と定めら
れています。これは重要な戒律で、破戒すると僧籍を失います。
慈悲と金銭には、関係が無いことをご理解下さい。

※慳貪(けんどん)は、なかなか直らない性格のように思います。
いろいろと慳貪ゆえに苦労して、これではいけない、と学習効果が
あって、それから性格改造に苦労されて、善い人格が形成されるよ
うに思います。人間は一人では生きて行けません。和を保ち、幸せ
に生きるためには種々の約束が生じます。
                
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