仏教用語は千三百年余の歴史のなかで、日本人の日常生活に溶け込み、
日本の文化となり、意外な意味で使われていることもあります。その用語集です。
*娯楽(ごらく)*(4/21up) 佛教用語の「娯楽」の意味には「自分自身を観じて、心のやすま ること」「楽しむこと」という意味で、娯は「楽しいこと」、楽は 「やすらかなこと」です。 娯楽というのはかつて、勤勉の慰労として、人々の心を寛がせ、 楽しませて、なぐさめるもの、という感覚でしたが、現代ではもう それも古い考えかも知れません。近年のように娯楽が氾濫している と却って情報過多で、人間関係の熟成や自然にふれる楽しい時間を 失くしつつあるような気がいたしますね。 お釈迦さま以来、修行僧の集団では歌舞観聴戒が定められ、歌舞 音曲(かぶおんぎょく)など自分がするのも観たり聞いたりするの も、娯楽的な性格のものは一切禁止されていました。ただし経文や 佛徳を讃えるために歌うように唱えることは許されていました。 僧たちの讃歌である声明(しょうみょう)梵唄(ぼんばい)は佛 教音楽として発展しました。 み佛さまを讃歎(さんたん)する法要に合唱や音楽、舞踊、後には 教えを基にした演劇などが行われるようになりました。 寺院の法要開催日には門前でさまざま娯楽が催され、市で賑わい、 庶民が集いました。 奈良平安朝の留学僧は教えのほかに、最先端の知識を持ち帰り、 多くの文物や文化をもたらし、寺院は文化の中心の場であり、娯楽 の要素の多くが発生し発展しました。 平安時代には法師が琵琶を引きながら経典を読誦し、余興に物語 を歌って聞かせたり、空也上人が始められた念仏踊、後には供養と 安息をかねた燈籠踊や盆踊りなどもありました。 猿楽、能楽、歌舞伎等も佛教説話に取材され、調べも梵唄などの 節から採られ、出雲の阿国の念仏踊は歌舞伎になり大成し、説教を 談義化した語り物は講談の類などに発展したりしました。
*開示悟入(かいじ・ごにゅう)* 国内では大蔵省や日銀までもさまざまな不祥事が明らかになり、 国民はやる瀬ないばかりで、いまさらのように情報の開示(かいじ) の在り方が問われています。 仏教用語の「開示」は「教えを説き示すこと」、「教えの内容を 開き述べて、教えを示すこと」であり、「真理を知らしめる」「理解 させる」という意味もあります。 「隠されているもの、はっきりしていなかった道理や意義を、明ら かにすること」を意味します。 「出世(しゅっせ)の本懐(ほんかい)」という佛教用語がありま すが、み佛さまがこの世に出られた目的をいい、「開示悟入」はそ の四つの目的を表しています。 開示悟入(かいじごにゅう)はそれぞれ「開」「示」「悟」「入」 に各々の意味があります。 開=み佛(ほとけ)さまが私たちの物事を正しくみる認識を開くよ うに導かれ、ものごとが障りがとれて見えわたること。 示=教えを示して、ことをわけて分かりやすいように見せること。 悟=迷いから覚めて真理を悟らせて、合点や納得のいくこと。 入=み佛さまの安らかな精神世界に入らせること、善き心を発して 自ら進んで内へ入ること。 開は開発(かいほつ)、示は顕示(けんじ)、悟は覚悟(かくご =覚醒悟了)で真理を得て目覚めた状態、入は証入(しょうにゅう) という意義もあります。 開発(かいほつ)は「他人をさとらせること」「自分自身の内の 仏性(ぶっしょう)を開き、明らかにすること」という意味もあり ます。顕示は、はっきりと明らかに示し見せることをいいます。 「鈴の法話」では十善戒を解り易く解説して頂いておりますが、 仏教を本来のように、身近なものとして参りたく念願します。
*修行(しゅぎょう)・行い(おこない)* 春の訪れを知らせる、有名な行事である「御水取(おみずとり)」 は「修二会(しゅにえ)」といわれる仏事の中にあります。 旧暦二月に、国内の安泰を祈願し修するために行われる法会(ほ うえ)という意味ですが、現在は三月に行われています。 このときの「修」は「修行」、「行を修める」ことで、「行」と は本来は「仏道」のことです。古くは「行い」「行ずる」といえば 主に仏道を修することをいいました。 「行う」は、戒律を守って日常を生活すること、規則通りに勤行 をすること、佛事をいとなむことをいいました。 現代の「行い」は、ふるまい、動作、品行、行状、身持ち、など という意味に使われ、「行いが良くない」などと使われることもあ ります。現代の礼儀作法、儀礼などには仏教の所作から、体系化し 発展したものが多くあります。 源氏物語にも「行う」という言葉があり、一般の人々が「仏事を 行うこと」とふつうに使われていました。「行い声」はお経を読む 声をいい、「行い出(いだ)す」とは仏道修行の功徳(くどく)に よって、ある良い結果を生み出すことを意味しました。 行い澄ますは、仏道修行にいそしむこと、身口意を澄まして浄行 (じょうぎょう)を修めることでしたが、しだいに、気取った意味 合いがふくまれてきました。 修行は「悟りを求め、み仏さまの教えを実践すること」、戒律を 守ろうと努力して生活すること、托鉢(たくはつ)して各地を巡礼 するという意味もあります。 仏道修行の精神面を高めることから、学問や技芸などを修めて、 さらに磨くことも「修行」といい、そのために諸国をめぐることを 特に、武芸などでは武者修行と言いますが、技術の習得の場合には 「修業」とも書かれます。
*慚愧・慙愧(ざんぎ)* 「慙愧に堪(た)えない」という言葉がありますが、形骸化した 言葉のひとつかもしれません。 この慚愧・慙愧という漢字には「心」がついているように、人間 の心の重要な動きで「恥じ入ること」を表していました。 仏教用語では「恥じ入ること」「罪を恥じること」という意味で すが、さまざまな解釈がなされています。慚愧の「慚」は羞恥心を あらわし、自分が不完全であることを恥じること、「愧」には悪い 行いを悔(く)いるという意味もあります。 「慚」は心に自らの罪を恥じること、「愧」は自らの罪を人に告白 して恥じ、罪の赦しを請うこと、また、他に比べて自分の劣った点 を自覚して、引け目を感ずることという解釈もあります。 「慚」は人々に対して恥じること、「愧」は天に対して恥じるこ とという意味もあります。 さらに、「慚」は自らの言動を観察することによって過失を恥じ ること、「愧」は他人を観察することによって自らの過失を恥じる こと、とあります。 古くは「慚愧懺悔」(ざんぎさんげ)という熟語として用いられ、 自らが過去に犯した罪を、反省して、神仏や人々の前で告白して、 許しを請(こ)うことに使われました。 自分の言動を慎重にして、常々恥じる気持ちをもち、反省して、 率直に改めるというのが本来の慙愧のありかたです。自分の言動を 忘れずに、振り返ってよく考えてみることから始まります。 自らの恥ずべき行い、悪しき行いに気がつき、自分の名誉や面目 などを汚すことをはばかること、神仏への誓いに反する悪しき行い を恥に思うことは、結局は、自分自身の信頼を高め、自らの品位を 高めて、人生を大切にすることにほかなりません。
*浮世・憂き世(うきよ)* 「浮世の荒波にもまれる」「辛く苦しい浮世」という言い方があり ますが、そうした意味合いからか「憂き世」とも書かれます。 浮世は「この世の中」や「世間」「人生」「享楽の世界」などと いう意味に使われています。浮世話は、世間話の古い言い方、また 色恋の話を言いました。 近世では、浮世風呂や浮世床などのように、当世風で浮ついたよ うな感じや、好色の意をあらわすこともありました。 「浮世離れ」は世間の常識から、かけ離れた言動をすることをい います。 もとは漢語の「浮世(ふせい)」と佛教的な生活感情から出た 「憂き世」とがまじったような言葉だと言われています。 佛教的な諦めの気持ちからか、自分の思うようにならぬこの世の 中を、まず覚めた目で見て、憂き世とも書いたのでしょうか。 「浮世の闇」という言い方もあり、この世での煩悩や心の迷いを 言います。「浮世の絆」はこの世で自分を束縛する義理人情、家族 などへの責任を言います。 「浮世の塵」は、世の中の煩わしい思いや問題を、身にかぶる塵に たとえていう言葉です。 「浮世の波」は現実の世の中の浮き沈みや喜憂の定まりない有様を 大海の波にたとえていう言葉で、人間が荒波にもまれて翻弄される ことを表します。 「浮世の風」は自然の風の向きが意のままにならないように、世間 の風習や煩わしさが思うに任せないことをたとえています。 浮世も憂き世も、世の中が自分の思うようにならぬことが前提に あります。家庭で甘やかされたままが、世間で通用することは、ほ とんどありません。家庭では、社会で生きるときの忍耐や順応性を 躾しておきたいものです。