New*数珠|供養|萬燈会|愛着|諦め|円満|突慳貪|
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■数珠(じゅず)■ 数珠は菩提樹の実やいろいろな香木、水晶などを丸くし、小さな 穴を開け、その珠を糸でつなぎ輪にしたもので、み佛さまを礼拝す るときに用います。 数珠の玉は百八個が正式なものですが、自らの百八煩悩(ぼんの う)の消滅し、怒りや不安の心を鎮めるように念じます。 真言や佛名を念誦(ねんじゅ)することに用いるから「念珠(ね んじゅ)」ともいわれるようになったともいわれます。 み佛さまを拝むときに、百八の数珠を一個ずつ、爪繰(つまぐ)り ます。無心に数をとることができますので、精神を集中し、祈念の 方に専心できるわけです。 インド古語の原語には「つぶやく」という意味もあるそうです。 珠(たま)を一つ数えるごとに一回み佛さまを念ずるところからい う「数珠」といわれました。修行のとき真言や念誦を百回、千回、 一万回など回数を無心に数えるためにつまぐる佛道具です。小さい 珠百八個を貫き、中間には別に大きめの珠があり、これを母珠(も しゅ)といい、母珠より絹の房が垂れています。 数珠にはいろいろな玉数がありますが、その数は意味を持ってい て百八煩悩をはじめ、半数の五十四個は菩薩の五十四位を表し、そ の半分の二十七個は二十七賢聖を表すとされることもあります。 腕輪念珠は左手首にしますが、携行用の数珠で、み佛さまのよう に心優しくありたいと願い、御守りとして身につけて、自らが悪し きことに近づかないように加護を願い、また自分の言葉を制御でき るように戒めるものです。
■萬燈会(まんどうえ)■ 萬燈会(まんどうえ)は、数限りなく多くの御燈籠(おとうろう) の御明かりをみ佛さまに捧げて、讃嘆し、御加護をお祈りする法要 をいいますが、「会」という漢字は「え」と読みます。 「萬」は数字の千万という意味よりは、非常に多くの数、数のたい へん多いこと、ひいては無数のという意味で、また、真心を尽くせ るだけ尽くして、という意味に用いられています。 他の佛教用語では、一期一会(いちごいちえ)を始めとして、法 会(ほうえ)、会者定離(えしゃじょうり)、怨憎会苦(おんぞう えく)、会得(えとく)、会釈(えしゃく)などがあります。 「会」の意味には「会うこと」、一つに合せること、「人々が集ま ること」、主に「佛事を行う集まり」の意味で使われています。 また会には、会得など「さとる」という意味もあります。 「一期一会(いちごいちえ)」は、茶会の心得として有名ですが、 生涯に一度の出会いと思い、その場の目の前の方を大切にもてなす ことをいいます。 会者定離(えしゃじょうり)は「会うは別れのはじめ、人生には 悲しいことにどのように親しい人とも必ず別れることがある」とい う意味で使われています。 怨憎会苦(おんぞうえく)のほうは「怨み憎しむのにかかわらず 会わなければならない苦」という意味で、この現世のままならぬ、 つらいありさまを如実に表現している用語として有名です。 「大般若会(だいはんにゃえ)」は大般若経六百巻を転読(てんど く)して、除災招福や万民豊楽、国家安泰を祈る大法会として有名 です。慈悲の教えを受け継ぎつつ、自らの人生の向上を願い、また 一統の御加護や子孫の繁栄を願う、善き人々が集う大法要です。
■愛著(愛着・あいじゃく)■ 「…に愛着(あいちゃく)を感じる」「…を覚える」「…は愛着の ある品」などと現在でもよく使われる言葉のひとつです。 物や人への思いを断ち切れないこと、その物や人に馴れ親しんでい て愛情を感じていて思い切れないことをいいます。 佛教用語の愛著(あいじゃく)は、迷いであり、断ち切るべきもの としてあげられています。「自分の欲望にとらわれて」みだりに、 でたらめに執着することで利己的で良い意味はありません。 喉が乾いて水を求めるような貪(むさぼ)りの心、尽きない渇きに たとえられる妄執の「渇愛」と同じであるとされます。 「愛執」という言葉もあるくらいで、愛は、憎しみと表裏し、愛は 憎しみを含むものとして、克服されるべきとされています。 「愛着慈悲」とは、自分の愛着の心から生じた誤った慈悲であり、 悩み苦しみを生じて周囲の人々を惑わす名ばかりの慈悲として区別さ れています。 佛教用語の慈悲は、本来は「慈」と「悲」のふたつの佛徳であり、 「慈」はすべての人々に対等な真実の友情のような、いつくしみの心 をもつこと、「悲」は他の人の苦しみを自らの苦しみとして感じ、情 を同じくし、苦しみを抜くことをいいます。 どちらも相手の立場になって考えることが基本にあります。 生きる上での規範として、十善戒の教えや朝の言葉の教えを持って まいりましょう。現代語で解りやすく書かれている観音院の常用教典 「まとこの道」は皆さまに無料で差し上げています。 ※常用教典「まとこの道」は、参詣時にお申しつけ下さい。 E=mailや電話での送付の依頼も受け付けます。
■諦(あき)め・諦観(たいかん)■ 「人生は諦めが肝腎」などと、人を慰めたりします。また「諦めるに、 諦め切れない」などという言い方もありますように、現在ではほとんど 断念する、思い切るという意味で使われている言葉です。 しかし、諦という漢字(中国語)の本来の意味は、つまびらかにする、 明らかにする、まこと、さとり、などで、思い切るなどの断念の意味が ほとんど無いそうです。 佛教用語としての諦めは「明らか」であり、明らかに見極める、もの ごとをはっきりさせるという意味があります。 熟語にすると「諦観(たいかん)」「四諦(したい)」など佛教用語 は「たい」と読むことが多いようです。佛教で「諦」とは「真理を観察 して明らかにみる」という意味です。 ものごとを正しく見て、あるがままに受けとること、明らかに見るこ とは、簡単なようで、実はもっとも困難なことです。 私たちが生活している現実のようすと移り変わりをきちんと見極めて、 善意で努力していくことが、本来の「諦め」なのです。 明らかに見るとは、周囲の状況を見極めること、見極められる範囲を 知ること、偏見や邪推なく見ること、そして、自分の能力やものごとの 限界を知ることになります。これらのことから、しだいに「思い切る」、 「断念しなくてはならない」という意味が出たようです。 佛教では、結果を自分で決めつけない、人の好意やものごとに期待し ない、恨みや怒りをもたない、起こった変化に対しては、柔軟に修正し つつ過ごさせていただくことです。 こうした佛教の教えが欠落して、悲観的で、消極的な、その場にとら われたような意味だけが残りました。 人生には山あり、谷ありしますが、不運に遭っても苦況におちいって も、投げやりにならない、不貞腐れない、投げ出さないことが大事です。 どのような不本意な時でも、開き直らずに、誤りは訂正し、ことわり を言う、修正するといった態度が、傷口を広げず、改善を早め、周りの 人々の助けも集まりやすく、肝要となります。 すべてのものごとを明らかに見るか否かで、またさらに将来のものご とを悪くするか、好転させるかの、運の分かれ目となります。 「諦める」を仏教の本来の「明らかにみる」ように、何ごとも前向き に考えて、明朗に生き抜いてまいりたいものです。
■円満・円満成就(えんまんじょうじゅ)■ 「ものごとが円満に解決した」「家庭が円満である」など、と現代でも よく使われる良い言葉のひとつですね。 また「あの方は性格が円満だ」などという使い方もありますが、性格が ゆったりとしていて、刺々しくない、かどが無い、穏やかな人柄、感情が 荒くなく温厚なことを言います。 「円満」は佛教用語で、「満たすこと」「完全な、欠けることの無いこ と」「成就(じょうじゅ)すること」、すべての条件を満たすこと、また 条件をみたし資格を具(そな)えることを意味しています。そのほかには 「身体が整い、豊満であること」などという意味でも使われています。 「円満する」「円満成就」などという言い方もあり「不完全なところを 補い、熟成させ、完全な状態にする」ことです。 「円」とは満月の如く、清明で欠けたところが無く、満ちてまどかなこ とをいい、「円満」はみ佛さまの御徳の完全なことにたとえられています。 円光(えんこう)は、満月のようにみ佛さまの頭上から放つ円輪の光明 のこと、いわゆる後光(ごこう)と同じ意味です。 円満融通といういいもありますが、み佛さまの慈悲がすべてにわたって、 とどこおることなく、自由自在でであること、み佛さまの悟りの境地をい う用語です。 円通大士(だいし)とは観世音菩薩さまの異称です。 円融(えんゆう)という用語もありますが、生きとし生けるものありと あらゆるものは、それぞれ個性を発揮しつつ、相互に融和し、完全円満な み佛さまの世界を形成していることを表します。
■突慳貪(つっけんどん)■ 「つっけんどんな物言いをする」とか、「あの人はつっけんどんな人だ なぁ」などというときの言葉を、漢字にすると「突慳貪」と当てはめるこ とが多いようです。 とげとげしい物言いや態度、ぶっきらぼうで不親切なものの言い方をす るときに現代でもよく使われます。 慳(けん)とは、けちで、欲張りなことをいい、貪(むさぼ)るとは、 欲望のおもむくままで、我欲に底が無いことをいいます。 佛教用語で慳貪(けんどん)とは、物惜しみが強く、むさぼり、自分の 欲望を中心に考えることで、親切心の欠けたことをいいます。 日常生活においても、人はちょっとしたことで苛々すると言動が荒れや すくて身近な人々に、つっぱねたような物言いや態度になりやすく、しか も、自分では気付きにくいものです。 慳貪な言動は、その場のことがよく見えない状態で、だれかれの見境無 く無礼になってしまっています。 ものごとをよく考えずに気ままに言ったりやったりする、短絡的で、対 人関係の礼儀作法が訓練されていない場合が多くようです。 優しい言葉のひとつも、他人に喜んで施(ほどこ)すことを不可能にす る迷いの状態ともいえましょうか。 また、突慳貪な言動は自分の立場が分からなくなった時、怖いもの知ら ずで、周りの状況をよく観察できない状態でもあるといえます。 さらに、言動が荒く、当たり散らすようなときに、よく「けんけんする」 という表現が使われますが、この言葉も「険々する」「剣々する」あるい は「慳々する」と書くことができて「慳貪」から派生したような言葉であ るかもしれません。 よく考えて謙虚に、自己を抑制して、良い態度と良い言葉を惜しむこと なく与え、周囲と順応するよう努めることが、将来の幸福を創ってまいり ます。すべては自分自身のためです。 ■不慳貪(ふけんどん)■ 佛教には、日常生活のなかで人間として守るべき十善戒(じゅうぜんか い)のなかに「不慳貪」という戒律がありますが、「汗して働くに惜しむ ことなかれ」と御佛様はいわれています。 常に態度を清々しく丁寧にして、身のほどをわきまえて、勤勉であるこ とは、人に信頼してもらえる最初です。 人として生まれ、勤労意欲の高いことや礼儀正しくあること、人間関係 を良く保つことは、結局は、日々の言動の積み重ねで、自分自身の品性を 高め、周囲にも幸福を増大させることにつながります。
人形浄瑠璃や文楽は、日本の古典芸能のひとつとされていますが、佛教 の声明(しょうみょう)が源流ともいわれる琵琶で語る平曲や謡曲(よう きょく)などを基にした語りの民芸のひとつといわれています。 室町末期に流行った芝居で、牛若丸と薬師如来さまの化身(けしん)と された浄瑠璃御前の物語が好評を博し、これら物語的音楽芸能の名となっ たそうです。 のち三味線や操り人形芝居と結合して庶民的な観劇として発展して現代 に至ったといいます。 「浄瑠璃」といえば、清浄(しょうじょう)な瑠璃(るり)のことで、 瑠璃(るり)はインド古語の梵語の音写「吠瑠璃」の略したものとされて います。 七宝(しっぽう)の一つで清浄で透明な青色の宝石をいい、紺瑠璃とも 言われました。 佛典には「浄瑠璃世界」というのがあり、東方にあるという薬師如来さ まのお浄土をあらわし、浄瑠璃浄土ともいわれます。 観音院の境内におまつりする赤い御社の「萬倍(まんばい)さま」のご 本地(ほんじ)は薬師如来さまですが、詳しくは薬師瑠璃光如来といわれ ます。お薬師さまはこの現世で、苦しみ悩む人々を癒(いや)して下さる 御誓願(ごせいがん)をおもちです。 諺に「瑠璃も玻璃(はり)も照らせば光る」というのがありますが、光 るものは数々あるが、それらのつまらぬものの中に混じっていても、本来 素質の優れたものは光を当てれば輝いてすぐに分るという意味に使われて います。 み佛さまの御名前のなかにも、瑠璃観音さまというのがありますが、 「三十三観音」の中の一尊とされ浄水に浮ぶ蓮華に乗られ、御手に香炉を 持たれた御姿であらわされています。
■滅相(めっそう)も無い■ 「とんでもない」「あり得べきことでない」など、そのようなことは 無い、と否定するときに使われます。現代では少し古風な言い方ですが よく使われます。 佛教用語の滅相は、四相(しそう)といい、万物の変化を示す四種の 相のひとつで、それは生相・住相・異相・滅相で、これによって、生滅 (しょうめつ)と無常のすがたを説明しようとすることです。 滅相は一切のものが滅して現在から過去に入ることをいいます。ここ からさらに、つまり滅相の無いものはない、すべてのものごとに滅相は ある、というところから「滅相もない」と言われるようになったという 説があります。 佛教の無常は、物ごとがとどまるところがないこと、消滅することで 現象の観察にしか過ぎないのですが、日本の佛教観では文学的に受けと られ寂しく悪いことのように誤解されて現代に至っています。 また「ものごとが滅して行くことなどは有ってはならない」というよ うな意味合いが語源となったという説もあります。 ■滅法(めっぽう)強い■ 「むちゃくちゃ強い」「めちゃ強い」「むやみにやたらに強い」など とよく使われています。 滅法は無為法(むいほう)といわれることもあります。因縁の支配を うけないもの、覚りをあらわします。因縁によらないものをいいます。 「法」は「教え」や「道理」と同義に使われることもあり、そこから 「ひどくものごとの道理にはずれていること」をいいます。 佛教用語の意味から離れて、漢字の意味合いからできてしまったよう な使われ方をしています。 さらに「とんでもない」ということに使われました。また、逆に「と てもすばらしい」ということにも強調として使われています。
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