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佛教談義(ぶっきょうだんぎ) その九 映画の幕切れ 寅さん  ご隠居を前にして、少々口はばったいんですが、人間と いうのは、よく考えてみると不思議な生きものですね? ご隠居 ほう、きょうはまた、えらく 深刻ぶったね。 で、どう 不思議なんだ? 寅さん だって、そうでしょう。人が生まれてくるときは、みんな 素っ裸です。そして、よーいどん で、それぞれの人生に向かって 一斉にスタートしますね。そのとき 厳密にいえば、その赤ん坊を 取り巻く環境がのちのちにまで影響するとはいえ、それぞれが各自 おもいおもいの人生を送り、最終ゴールにはいってきたときは同じ 時間を共有したとはとても思えないほど、人格や社会的地位に大き なひらきが生じている。これはどういうわけなんでしょう?  なぜ、人の一生に、これほどの差や ばらつきが出るのか、そこ のところを教えてほしいんです。 ご隠居 うん、なかなかつぼ所を押さえた質問だな。いま寅さんが 言ったように、人の一生は千差万別でピンからキリまである。そん な人生の不公平を、私たちは、個人が持って生まれた運、不運のせ いにしたり、どれだけ人生を真剣に生きぬいたか、その努力の多寡 (たか)や能力や、それぞれが属す生活環境などに理由を置き換え て、不公平を容認している。  だから不幸にして、恵まれない人生を送った人も、自分の来し方 を振り返って、これが人生というものさ、、と、あえて不平不満も 言わずに、諦めの気持ちとともに、自分自身の運命にひざまづいて いる、というのが実際のところのようだな。 寅さん たしかにその通りなんでしょうが、どうも釈然としない。 人の幸不幸に、ばらつきがありすぎる----。 ご隠居 寅さんは、因果応報(いんがおうほう)という言葉を聞い たことがあるだろう。 寅さん 善いことをすれば善い結果があり、悪いことをすればその 報いがあるということでしょう。 ご隠居 そうだ。でも大半の人は因果応報などあるはずがないと、 あたまから信じようとしない。  佛教は、自作自受(じさじじゅ)----自分で作(な)した、善い おこない、悪いおこないは、結局自分自身が受けなければならない、 とし、その自分という私たち人間の精神は、三世(さんぜ)、つま り、過去の自分と、現在の自分と、未来の自分は、ずっと連続して 変わることなくあり続けるから、現在生きている私たちも、この三 世にわたる因果の影響圏外には脱出できない、としてきた。  ところが、この因果関係を信じない人たちは、人間の一生を、過 去からきた原因とか、未来における結果など何の関係もなく、あく まで現実面だけで捉えようとする。 寅さん それでいけませんか? せっかくの人生を、みんなと楽し く快適に過ごせばいいし、悪いことをすれば警察が黙っていない。 ご隠居 そんなに割り切ってしまうと、人間につきまとう不公平の 説明がつかなくなる。まあ聞きなさい。経典で過去世を説き、後生 (ごしょう)を説いて、地獄、極楽の話をしても、三世因果を信じ ない人たちは、そんなものは勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の絵 空事にすぎないと一蹴(いっしゅう)して、目先のことしか眼中に ない。  しかし、ここで大事なのは、善をすれば、その善は、三世----過 去・現在・未来の自分に報い(むく)がおよび、悪をすれば、その 反対に、三世にわたって悪の報いがあることを忘れてはいけない、 ということを説いていたのだ。  心にまかせ、欲望をほしいままにして、自分の悪事を恐れない人 間は、この三世因果の道理を知らないから平気で無茶なことをやる。 寅さん 今のように日本を悪くした元凶ともいうべき、不良債権問 題をひき起こした金融関係業界の経営者や、それを指導監督する立 場にあった大蔵高級官僚たちは、少なくともその三世因果を知って いませんね。 ご隠居 佛教では、自分のした善や悪の行為が、即座にその報(む く)いとなり、因果(いんが)としてあらわれるものと、この世で おこなった善い行為悪い行為が、次に生まれる来世にまで引き継が れ、苦や楽の果報が唐突(とうとつ)にやってくると教えていた。 寅さん 悪の報いがたちまち現れるといえば、「太陽がいっぱい」 の幕切れ、みたいですね。 ご隠居 なんだ、その「太陽がいっぱい」、というのは? 寅さん アラン・ドロン主演のフランス映画です。地中海だか、 エーゲ海だか、お金持ちの青年と、貧乏なアラン・ドロンがヨット でクルージングを楽しむんですが、その間いろいろあって、ドロン が相手の青年を殺害して 海へ投げ込みます。やがて港町に着いた そのドロンがヨットのオーナーになりすまし、上流階級気取りで陸 にあがったまではよかったのですが、船を補修するため海から引き 揚げるととっくに大海の藻屑(もくず)と化しているはずの死体が、 錨綱にからまって、ずるずる、ずるずると船底から白日にさらされ るという、たいへんショッキングな幕切れです。 ご隠居 ふーん、それは因果応報がすぐにあらわれたケースだな。 悪業のつぐない 寅さん 話を戻しますが、その善の行為、悪の行為というのは、ど んな種類のことを指しているんですか? ご隠居 いわゆる十善十悪のことだ。この十悪を実際に仕出かせば すぐさま法律に抵触したり、法律に触れないまでも人間関係が円滑 にゆかなくなる。  そして、たとえそれらの行為がこの世でまかり通ったとしても、 死後の世界において、その罪を裁かれ、それでもなお罪を拭(ぬぐ) いきれぬ場合は、また人間に生まれてきて、その過去世(かこせ) において犯した悪業のつぐないをしなければならないとされていた。  つまり、みだりに殺生(せっしょう)すると、その罪じたいが毒 素のように体内に繁殖し、運よくまた人間に生まれてきたとしても、 生涯多難で、盗みをすれば、その罪は消えることなく、また人間に 生まれても、つねに経済的に苦しむことになる。  邪淫(じゃいん)を犯せば、のちの世まで祟(たた)って、男女 間の愛情をこじらせる原因となり、夫婦仲が悪く、子孫のことでも 悩み苦しむとされた。  妄語(もうご)、嘘つきの罪は、後生にわざわいが及んで、多く の人に欺かれ、謗(そし)られ、嫌われる。  綺語(きご)----これは真実に反して飾りたてた言葉のことだか ら、お世辞や、おべんちゃらを言っていると、救いようもなく気障 (きざ)で軽薄な人間に生まれてきて、多くの人の侮辱を受ける。  悪口が後生に及ぼすわざわいは、ゆくところいつも悪評がつきま とい、他人の感情を害する言葉を好んで用いるというな。  両舌(りょうぜつ)、二枚舌の及ぼすわざわいは、それによって 家族の和が乱され、ついには一家ちりぢりに離散するという。  慳貪(けんどん)けちで欲張りに徹した罪の後生のわざわいは、 どれほど十分あり余っても、満足ということを知らず、つねに不足 感に責めさいなまれるという。  瞋恚(しんに)----自分の心に逆らうものを怒り憎しむわざわい は、短気で、怒りっぽく、いつも苛々しているという。  邪見(じゃけん)、--よこしまな考えの後生に及ぼすわざわいは、 やはり、よこしまな家に再び生まれ、しかも、その心もよこしまに、 ひねくれているというな----。  十悪業の報いは後生において、ざっと、このようなものだそうな。 寅さん へえ、そいつは大変だ。その十悪が、後生にわざわいをし ないような、何かうまい工夫はありませんかね? ご隠居 そんな便利なものはないが、十悪業を裏表まったくひっく り返した十善業というのを、「因果経」によって、すこし説明する と、次のように説いているな。  現在おこないが正しく、立派な人は、過去において忍辱(にんに く)、恥を耐え忍んだ経験によって培(つちか)われた強い精神の 持ち主だからである。  反対に人柄が卑しくみにくいのは、過去において瞋恚(しんに)、 怒りや憎しみによって、精神が荒(すさ)んでいるからである。  現在、厄難に苦しむものは、過去において、慳貪、けちで欲張り に終始したからである。  人となりが高貴な人は、過去において 感謝の気持ちを忘れず、 神佛の礼拝を怠らなかったからである。人となりが下品なものは、 過去において他人をあなどり、おごり高ぶったからである。  人となりが円満で、長命な人は過去において、慈悲の心を大切に して生きたからである。その人が短命なのは、過去における殺生の 報いであるとされた。  生まれつきお金に不自由しない人は、過去に施物(せもつ)を惜 しまなかったからである。  人となり聡明な人は、過去において、積極的に学ぶことを心掛け たからである。  そして、人となり六根(ろっこん)の清らかな人は、過去におい て自分を律して、持戒(じかい)につとめたからである、といった ように、過去が現在におよぼす善悪の因果を懇切丁寧に説いている。 人生の努力目標 寅さん なるほどねえ。ところで六根というのは、なんです? ご隠居 六根は人間の五つの感覚器官、眼・耳・鼻・舌・身と意、 つまり心のことだ。人に迷いが生じるのは、すべて六根が原因なの で、この六根からくる一切の迷いを断ち切り、心身を清らかに保た なければいけないというのだな。  富士山など、修験道(しゅげんどう)で霊山(れいざん)とされ る山へ登るとき、六根清浄(ろっこん・しょうじょう)と唱えるの も、そんな意味があるからだ。 寅さん ご隠居の話のように、仮にもし、それがほんとうなら、私 たちは、いま自分自身のしているおこないや、暮らし方の善し悪し で、未来というか、来世の人生も、おのずから定まってゆくという ことになりますね? ご隠居 そのとおりだ。佛様(ほとけさま)も説いておいでになる。 過去の自分がどう生きたかを知ろうと思えば、現在の自分の姿を、 ありのままにみつめよ。また、未来の自分を知りたければ、いまの 自分が、どのような姿勢で自分の人生に対処しているか、そのこと を自問自答するがよい、とな。 寅さん 慈悲深いはずの佛様も、ときには人間を突き放したような 薄情なこともおっしゃるんですね。 ご隠居 そうではない。人間が、人間として生きてゆくためには、 最低限守らなければならない「社会ルール」というものがある。そ のルールを守って人生を送れば、しあわせな未来が約束されている のだよと、佛様は言っておいでなのだ。 寅さん なんだか上手く下駄をあずけられた気分ですね。それで、 私たちが守るべき社会ルールを具体的にいうとどうなります? ご隠居 十善戒という恰好の目安があるではないか。  殺さず、盗まず、邪淫せず、嘘(妄語)をつかず、飾り言葉(綺 語)を使わず、悪口せず、二枚舌(両舌)を使わず、貪(むさぼ) らず、瞋(いか)らず、邪見をもたない、というのが、それだ。 寅さん やっぱり十善戒ですか。 私はこの十善戒のことを考えだすと気分が滅入(めい)るんです。 ご隠居 何故だ。いま流行の失楽園でもしでかしたか? 寅さん それほどモテはしません。 でも、男ですから、美人を見ればつい目移りしますし、不愉快なこ とがあれば腹も立てます。殺生はいけないといわれても、無遠慮な 蚊や蝿がたかれば叩きますし、たまには心にもないお世辞を言って 人様を持ち上げたり、悪口をいうことだってあります。  そしていちばん守るのが難しいと思うのは、嘘をついてはいけな い、という不妄語の戒です。  大嘘を競う大会で、大勢の出場者が、つばきを飛ばして嘘八百を 並べ立てる中にあって、私は生まれてこのかた、一度も嘘というも のをついたことがない、と、大言壮語したやつが優勝した、という 笑い話があるぐらいで、嘘をつかない人間なんて、この世の中には たして居るんでしょうか? ご隠居 そう正面切ってつっこまれると返答に困るが、寅さん、こ れはつまり、あれだ。この十善戒はたとえて言えば、机の前の壁に 貼った「べからず十箇条」を、折りにふれて眺めながら、反省の材 料にするといった性質のものと考えたらどうだろうか。 寅さん では、受験生が〇〇をめざしてがんばるぞ! といったた ぐいのスローガンみたいなもの、と理解してよいわけで? ご隠居 そんなところだ。嘘にしても、嘘の皮でかためたような嘘 つきは、病院に行ったほうがよいが、寅さんのように、十善戒をい ちいち杓子定規(じょうぎ)に堅苦しく解釈していると、それこそ 病気になってしまう。  門外漢の私が、こんな無責任なことをいうと、慈雲尊者(じうん そんじゃ)に叱られそうだが、要は、自分の良心に恥じない程度に、 ほどよい線で折り合うことではないかな。 寅さん 慈雲尊者というのは? ご隠居 慈雲尊者は江戸時代の中頃、京都の阿弥陀寺で「十善法語」 を著述した人で、その冒頭に「人の人たる道はこの十善にある」と 書いている。  この人は、宗派意識のこだわりを戒め、直接釈迦その人の精神を とらえようとした。だから「十善法語には宗派の臭気つゆばかりも なく、直ちに佛法を丸はだかにして見る心地するなり」と、世間の 共感と尊敬を一身にあつめ、いつしか尊者と呼称されるようになっ たといわれている。
第八話|第十話kanjizai index

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