Web版 月刊 観自在
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仏教談議(ぶっきょうだんぎ) その九十四

2005年10月号 [9月号] [12月号]


そのとき大徳は----
 今回は、歴史のなかに埋没してしまった、それも、ほとんど無名のまま生涯を終えた、幾たりかの大徳の言い伝えを取り上げてご紹介することにいたします。
 なお、大徳(だいとく)とは、徳の高い僧の一般的な尊称です。
亡母(もうぼ)の後生(ごしょう)
 紀州高野山に頼西(らいせい)という沙門(しゃもん)がいた。
 頼西の出生(しゅっしょう)にかんしては、こんな話が伝わっている。
 頼西は、母親がどうかして男児を授かりたいと、奈良の長谷寺の観音さまにご祈願していたとき、ある夜、錫杖(しゃくじょう)を賜った夢を見て、身ごもり、生まれたのだという。
 頼西は出家ののち、高野山に入って、八千座の護摩供(ごまく)を修すなど、山衆から「伊勢上人」と呼ばれて尊敬されていた。
 あるとき、その頼西のもとへ、いずくからともなく一人の童子が訪れ、弟子入りを志望した。とりあえず傍(そば)においてみると、幼いながらも、起居動作(ききょどうさ)の一々が実にみごとで、すこぶる頼西の意に適った。
 頼西はかねがね亡母(もうぼ)の後生(ごしょう)を、なんとかして知りたいものだと思い、いつも三宝に祈っていた。
 すると一夜、夢中に神僧が現れて、「頼西よ、汝は亡母の後生を何故に遠くへ求めるのか? ことさらに遠くへ目を凝らすことはない。もそっと身辺に目を移してみるがよい。弟子入りを請うているあの童子こそ、汝の母の再生である」と告げた。
 喜んだ頼西は、童子を呼び寄せると、腫れ物に触るような手つきで童子の髪を剃り落とし、弟子にした。
 念願が叶って出家した童子は、その日から脇目もふらず修行に打ち込み、衆に優れた僧侶に成長していった。それから十年が過ぎて夢のことを頼西が語って聞かせると、弟子は感慨ふかげな面持ちで聞いていたという。

(本朝高僧伝)
[本朝高僧伝・わが国各宗の僧侶
 千六百余名の伝記、七十五巻。
 一七〇二(元禄十五年)成る。
 卍元師蛮(まんげんしばん)著、
 僧伝中の白眉とされるている。]

焼けなかった袈裟(けさ)

 鎌倉時代の初め、法然上人(浄土宗の開祖・一一三三--一二一二)の念仏(専修念仏)の教化(きょうけ)が弘まって都鄙(とひ・都と田舎)をとわず、信仰する者が多くなり、鉦鈷(しょうこ)を首にかけ、仏名(ぶつみょう)を唱えながら諸国をめぐり歩く遊歴の僧がふえた。
 幕府のおかれている鎌倉は、それが最も盛んであった。
 二代将軍の源頼家はこれを甚だ嫌い、街の辻々に禁令の高札(こうさつ)を立てて、念仏僧の徘徊をきびしく取り締まった。
 禁令を無視し、仏名を唱えて、行乞(ぎょうこつ)する僧があれば、たちまち役人がこれを捕らえ、袈裟を引き剥(は)がして即座に焼き捨てるので、それらの僧はことごとく鎌倉からその姿を消した。
 ところがあるとき、その鎌倉で鉦鈷を打ち鳴らし、声高(こわだか)に念仏しながら大通りを闊歩(かっぽ)する一人の僧がいた。
さっそく馳せつけた役人がこれを捕らえて、「いずくの国の僧か?」と尋問すると、「我れは伊勢の国の称念」、と胸を張って答えた。
「汝、この高札が目に入らぬか?なぜ禁制を犯して、はばかりもなく、この府下を念仏して歩くか」
と、大喝(たいかつ)して、僧を取り押さえ、着ている袈裟をはぎ取って、柴を焚いて、火のなかへ放り込んだ。
「役人よ、沙門の袈裟は俗人(ぞくじん)の装束(しょうぞく)と同一ではない。それを焼けば大罪を得るぞ。それでもかまわなければ焼け。称念が袈裟はお前たちごときには、決して焼けじ!」と、
将軍頼家の政道を真っ向から論難し、仏法が衰えた「末法の世」を大音に嘆じた。
「ほざくな! このボロ袈裟を焼くことができぬだと? ならばこうしてみごと焼き捨ててくれるわ」
 怒り心頭の役人が、山のように薪(たきぎ)を積んで火をつけた。
 炎(ほのお)がやがて燃え尽きると、くすぶる煙のなかから袈裟があらわれ出た。それは火に投じる前と少しも変わらず、損傷をどこにも認めることはできなかった。
 眼前に演ぜられた不思議に驚き騒ぐ諸人の後ろに隠れて、こそこそと退散してゆく役人を尻目に、称念は灰のなかから袈裟を拾い上げると、さっとひとふるいし、何事もなかったかのようにそれを身につけて、ふたたび、鉦鈷を敲き高声に念仏を唱えながら、いずくともしれず立ち去った。
 これ、羅漢僧が仏法の不思議を示したるなり、と「東鑑(あずまかがみ)」にある。
 東鑑(吾妻鏡)五十二巻。鎌倉後期成立の史書。鎌倉幕府の事跡を日記体に編述。一一八○年の源頼政の挙兵から前将軍宗尊親王の帰京に至る八十七年間の重要資料。

聖者の化身

 和州(大和)高宮寺の沙門(しゃもん)願覚は異僧なりけり。毎日早晨(そうしん・明けがた)に房を出でて、日暮れに房に帰る。
身行粗放(しんぎょうそほう・日頃からおこないが粗雑乱暴)にして、葷酒(くんしゅ・くさい野菜と酒)を厭(いとわ)ず。
 時に一(ひとり)の信士(しんし・出家せずに受戒した男子)ありて、これを師の圓勢に告げて、譏(そし)る。
 師云わく、汝ひそかに彼が房を夜中に窺い見よ、と。
 信士その言に従い窺い見るに、豈図(あにはか)らんや、室内は燈火無きに光明照灼(しょうやく)せり。信士驚いて尊敬せり。
 然(しか)るに願覚は間もなく示寂せり。仍(よっ)て寺僧集まりこれを火葬せり。
 その後、信士事ありて江州(ごうしゅう・近江国)に至り、願覚が示寂(じじゃく)のことを語りければ、聞く人の曰く、覚師は頃(このご)ろ当地に来たられ、今は某処に在りと。
 信士これを怪しみ、往(ゆ)いて謁見すれば、紛(まぎ)れもなき願覚なり。
 願覚、信士を見ていわく、起居安きや(よお、元気にやっているか)と。信士益々聖者の化身(けしん)なることを知りたりとなん。
       (本朝高僧伝)

二人の僧  

 和州(大和)奈良の大安寺に、二人の僧がいた。
 ひとりは持法といい、法華経を受持(じゅじ)しており、いまひとりは持金(じこん)といって、こちらは金剛経を受持していた。
二人は半里ばかり隔たった場所で各々の庵(いおり)をむすび、仏道にいそしんでいた。
 さて、両者の暮らしぶりどうかというと、持金のほうは、この僧にはもしかして天からの授かりものを受ける徳のようなものが具わっているのか、彼の身辺はいつも粥飯(しゅくはん)茶菓(さか)など潤沢(じゅんたく)で、かなり余裕があるようだった。
 それに反して、持法のほうは、毎日欠かさず托鉢(たくはつ)に出掛けて帰るという規則正しい日課で、その暮らしもいたって質素なものであった。
 このように、両者の日常の暮らしぶりがかけ離れていたから、日を追って、持金の心中にだんだんと奢(おご)り高ぶる念が萌(きざ)すようになった。
 我は金剛般若経を受持しているため、その効験によってこのように、つねに天供(てんぐ・天からの授かりもの)に恵まれ、なに不自由なく豊かに暮らしている。
 それにひきかえ持法の不器用な生きざまはどうだ。彼は毎日をかた苦しく、融通のきかない生活をしているから、いつもあのように貧しいのだろう、と自分勝手におもいこんでいた。

 あるとき持法のもとから、使いの童子が、持金の庵へやってきたので、よい機会とばかり、自分には天供という恩恵が付与されているんだぞ、と、子ども相手に大いに自慢した。それを童子が帰って持法に話した。持法はその話をただ笑いながら聞いていた。
 さて、次の日のことである。
 持金の庵にいつもの天供はなかった。天供のない日がそれから三日間におよんだ。不安と焦燥にさいなまれた持金は、その恨みつらみのはけ口をあろうことか、金剛般若経の発起主である須菩提尊者(しゅぼだいそんじゃ)のせいにしたのである。
 するとその夜、夢のなかに白眉の老僧が現れて持金に告げた。
「我れは須菩提なり。汝は金剛般若経を受持するは殊勝なれども、精誠至らず、つねに驕慢(きょうまん)の邪心あり」と。
「では、そんな私がこれまで何故天供を受けていたのでしょう?」
と言葉をかえすと、老僧が言った。
「それは、持法比丘(びく)が、汝を憐れむがゆえに、十羅刹女(らせつにょ・法華経陀羅尼品にある)に命じて送供させたのである。汝はその事実を知らないばかりか、かえって持法比丘を侮蔑し、浅はかにも己れのほうが優れているとうぬぼれているのだ」と、叱りつけられたところで夢から覚めた。

 目覚めてしばらく呆然としていたが、いま見た夢がはっきり脳裏に蘇るにつれて、持金は恥ずかしさに堪えられなくなった。そこで勇気を鼓舞しおもいきって持法をその庵に訪ねることにした。
 これまでの己れの不心得を詫び見た夢のことも正直に話した。
 とくに天からの送供(そうく)が三日間途絶したことに話がおよぶと、聞いていた持法がにっこり笑って、
「ああ、それは出生飯(さば・僧侶の食事の際の一作法で、飯食ごとに七粒ほどのご飯などを取り出し、施す作法を、さばという)を、私がついうっかりして忘れたからでありましょう。以後、こころして失念しないように気をつけることにいたします」と、こともなげに言った。
 それより以後、持金の天供はまた以前のごとくになったので、持金はますます持法に心服し、彼の法力を畏敬(いけい)するようになったということである。
        (本朝高僧伝)

聖徳太子異聞(いぶん)

 日羅という僧がいた。肥後(ひご)の国の出身で、日羅(にちら)とは、日本の羅漢(らかん)といった意味合いから、後世になって名付けられたものであろう。
 日羅は幼少のときより神異(しんい・人間わざでない不思議)を有し、学問にも広く通じていた。
 仏門へ入った日羅は、さらに仏法を求めて百済(くだら)へ渡りやがて国王の恩寵(おんちょう)をこうむり、一般庶民からも敬愛される「善知識(仏道へと導いてくれる善い友人)」となった。
 このことが風の便りで日本にも伝わって、時の帝(みかど)敏達(びだつ)天皇(在位五七二年--五八五年)の叡聞(えいぶん)に達した。
 天皇は、紀の押勝、吉備の羽島という官人ふたりを百済に派遣して、日羅を日本に召還(しょうかん)した。それは敏達天皇十二年の夏のことであった。
 その当時、日本はまだ「倭(わ)」と呼び、仏教受容の崇仏(すうぶつ)派の蘇我馬子(そがのうまこ)と、これに反対する物部守屋(もののべのもりや)が、はげしく反目していた時代であり、聖徳太子(五七四年--六二二)は十歳の少年であった。
 あるとき、聖徳太子は、巷間うわさに名高い百済帰りの僧をひと目見ようと、大勢の見物人のなかにまぎれ、お忍びで日羅の滞在する館をお訪ねになった。
 すると日羅は、大勢が居並ぶその見物人のなかより一瞬の逡巡もみせず、ぴたりと聖徳太子に視線をあて、指をさし示して、
「このお方は神人(しんじん・神のような心の持ち主)なり!」とうやうやしく太子を再拝して、次のような偈(げ)を説いた。

「 敬礼救世観世音
  伝燈東方粟散王
  従於西方来誕生
  演説妙法度衆生 」

{ 救世(くぜ)観世音菩薩を
  敬礼(きょうらい)す 
  東方の粟つぶほどの小国の王
  西方より生まれて来る
  妙なる法を演説し 衆生を度す }

 偈を説きおえた日羅は、全身より光明を放ち聖徳太子を赫々(かっかく)と照らしだした。
 それに相応ずるように、少年の太子も眉目(びもく)より光りを放って、正面から日羅を照らした。
 二人のあいだに、そのような神異(しんい・人智を越えて神秘霊妙なこと)がくりひろげられてのち、聖徳太子は小さく吐息をもらして、つぶやいた。
「ただ惜しむらくは、日羅法師、その在世久しからず、やんぬるかな------」と。
 はたして日羅は、そののち幾許もなくして船中において寂(じゃく)したという。
 ときに聖徳太子いわく、
「日羅は聖者なり。我れ昔、南岳にありしとき、かれ来たって弟子となれり」と「聖徳太子伝」にある。
 なお南岳は、五岳{中国の信仰上の五つの霊山とされ、泰山(たいざん)・東岳、華山(かざん)・西岳、衡山(こうざん)・南岳、恒山・北岳、嵩山(すうざん)・中岳}のうちの一山です。  



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