菩薩形(ぼさつぎょう)の理由
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寅さん それにしても大日如来はなぜ菩薩のスタイルをされているんでしょうか?
ご隠居 私にもよく分からないが、大日如来が「如来」としては異例な「菩薩形」
をしていることが述べられている箇所に、「大日如来は菩薩の身を有する
ものであるにもかかわらず、如来が坐すべき師子座(ししざ)に坐したま
いて----」とあり、さらにまた「金剛頂経」に大日如来が菩薩形をとるの
は、「大日経」の宗教理想が大乗仏教の正統を継いで「菩薩思想」にあっ
たので、その菩薩の外形をかたちだけ真似たものだろう、といった解釈が
ある
一方、善無畏(ぜんむい)三蔵は「大日経・住心品(じゅうしんぼん)」
の冒頭の「菩薩の身を師子座と為す」という表現について、「菩薩の身と
は、もと菩薩道を行じし時、次第して(だんだんに)「地波羅蜜」を修行
し、第十一地に至る。
まさに知るべし、後地は即ち、前地を以って基となす。
故に云う、如来は菩薩の身を以って師子座と為す、と」と、「大日経疏(
しょ)」で述べておられる。
寅さん 大日如来がなぜ菩薩形なのか、そこのところがこれではよく分かりません
が・・・・。
ご隠居 講釈している当の本人の私自身も、さっぱり分からん。
如来さまのように覚りを完成させ涅槃に安住されたままでなく、菩薩さん
のように現世で救済してくださる慈悲をもあらわされているものとして、
諸仏諸尊を統一する最高の地位を象徴するにふさわしい威厳のある姿でえ
がかれる。
全ての如来・菩薩は、大日如来より出生し、大日如来の徳をそれぞれが分
担し、また衆生救済にあてられている諸尊の働きも大日如来の徳の顕現と
されたものだ。
ただ、ここにいう「師子」とは、「勇健菩提心」のことだそうで、「如来
は初発心(しょほっしん)以来これの上に乗っているから」であるとか、
あるいはまた「諸菩薩は心に深く法を敬い、身をもって、仏を頂戴(ちょ
うだい)している」からと説明されているが、いずれにしてもこれらによ
り、大日如来が修行中の菩薩形をとる理由があるようだ。
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| 登地の菩薩 |
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ご隠居 話題を変えよう。
ところで寅さんは菩薩をどのように定義する?
寅さん 教えられたとおり復唱しますと、菩薩は仏のさとり(無上菩提・むじょう
ぼだい)を求めて、未(いま)だ、仏とは成っていないものであるから、
仏と同じではないもの、です。
だけど、私の個人的感情では、菩薩も仏も少しの差異はなく、まったく同
等の信仰対象です。
ご隠居 そのとおりだな。菩薩は仏菩提を求めるものであるが、それだけが目標で
はない。それよりも、むしろ、「衆生を救済(きゅうさい)する」ことこ
そが第一の務めであるようだ。
したがって菩薩は一切の衆生を救済するまでは悟りを得ず、この世間にお
いて菩薩行を行ずる、とされている。
ではここで、宋の高僧伝から、その菩薩にかかわる話をひとつしてみよう
。
あるとき、善無畏三蔵法師が、ある長者の家に請じられて供養を受けられ
ようとしたとき、どこから来たのか、一人の羅漢僧が降って湧いたように
忽然と現れた。
何者とも知れないその僧に、善無畏三蔵が、とりあえず上座に着くように
席を勧められたところ、羅漢僧ははげしくかぶりを振ってこう言った。
「めっそうもありません。大徳は登地の菩薩ではございませんか。
どうして私ごときが大徳をさしおいて、上座に席を占めることなどできま
しょう」と丁重に辞退し、善無畏三蔵を敬礼(きょうらい)した。
そうした僧の謙虚さに感じ入って、善無畏三蔵は袈裟を施された。
すると羅漢僧は、それを推し戴くと、たちまちにして虚空に飛行し去った
と高僧伝に出ている。
寅さん 善無畏三蔵法師のことを登地の菩薩と呼んだその「登地」とはいったい何
のことです?
ご隠居 それは、すでに「十地」を登りつめた菩薩という意味ではないだろうか。
菩薩には、その境地の浅深により、十信・十住・十行・十廻向・十地、そ
して等覚、妙覚の五十二位の階位が設定されていて、このうちの「十地」
を十聖といわれ、菩薩の階位としての最終段階というわけだ。
「一切の仏法は皆十地をもって本と為し、十地究竟(くきょう・きわまる
こと)し、修行成就(じょうじゅ)すれば、一切智(仏地に達すること)
」を得るとされている。
つまり羅漢僧は、善無畏三蔵を十地に達したまぎれもない菩薩と見た、と
こういうわけだな。
寅さん その菩薩と言われた善無畏三蔵法師というのはたしか----
ご隠居 うん。この人は密教の成立に学問という思想的な側面から大きな影響を与
えた功労者といってよいだろう。
寅さん といいますと?
ご隠居 真言宗の依りどころとなった根本経典のひとつに「大日経」がある。この
お経のほんとうの経名は「大毘盧遮那成佛神変加持経(だいびるしゃな・
じょうぶつじんぺんかじきょう)」というそうだが、お大師さまは、この
長い名のついた経を、梵語の字義を訳すと「大日」と読むことができるの
で、「大日経」と呼ぶことを好まれたといわれている。
さて、この「大日経」を七世紀の終わりごろ、インドで勉学していた中国
僧の無行が写し、それが人の手によって中国長安へ送られた。
それからしばらく歳月を経て、七一六年、八十歳の高齢をおして善無畏三
蔵がインドから長安へやって来た。この人は、東インドのオリッサという
国の王位を捨てて仏門に入った密教の高僧だった。
そして、八十九歳のとき弟子の一行のもとめで「大日経」を漢訳したが、
その訳経の際に用いられた底本(ていほん・土台とするもとの本)が、あ
の無行が書き写した写本であったという。
善無畏三蔵は、さらに「大日経疏」(二十巻)を一行の筆記により作成し
ており、この「大日経疏(大日経の意味をときあかした注釈書)は、真言
宗の「大日経」解釈の規準とされているわけだから、私たちにとっては、
時空を超えてたいへん関係深い僧侶と言えよう。
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| 説法はすれども・・・・・・ |
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開元寺の智弁法師は年少のころより、人に秀でて聡明であった。
いかなる経論も、一聞一見すれば、その言わんとするところの本義をたちどころに読み取るほどの秀でた能力を有していた。
智弁は長ずるにおよんで、その該博(がいはく)な経論の知識を駆使(くし)し、持ち前のなめらかな語り口でもって、処方を熱心に説法してまわったが、しかし、どうしたわけか、予想に反して、彼の言葉に耳を傾ける人はきわめて少なかった。
経論を背負い、諸所を説法して歩いても、肝心の聴衆が集まってくれないのでは、どうしようもない。
ある寺の門前で、ひといき入れながら、智弁は自らを省み、深い思いに沈んでいた。
「なぜだ。なぜ人が集まらないのか? 私の説く経論のどこかに、私自身気がつかない欠陥か誤りがあるのではないだろうか?
私の説法を、あたかも路傍(ろぼう)の石でも見るが如く、無関心に通り過ぎていく人々を、わずかでも立ち止まらせるには、なにをどうすればよいのだろう?」
と、そのとき、人の気配に、ふと首(こうべ)をあげると、錫杖(しゃくじょう)を手にした一人の老僧が立っていた。
「率爾(そつじ)ながら、法師はいかなる経論を研鑽(けんさん)し、それによって、いかなる義理---- 人間がおこなうべきただしい道理を究めておられますか?」
と、問いかけてきたので、
(ははぁ、この辺はどうやら聖境であるらしい。この旅の老僧もひょっとして羅漢なのではあるまいか・・)と考えた智弁は、己れを率直にさらけだして、これまでしてきた説法の不人気不首尾ぶりを切々と訴えた。そして、
「もし聖賢であられる貴僧の教えを親しく仰ぐことが叶えられますならば、以後は、わが口を閉じ、舌を結んで二度とふたたび、人前に立っての説法は、いさぎよく断念いたします」というと、老僧は破顔して言った。
「なかなかどうして。法師は識見至高のお人であります。ただし、ここでよくお考えいただきたい。
かの大聖釈尊においてすら、”無縁の衆生を度することはかなわなかった”ではありませんか。いわんや法師は説法で初歩の段階です。
その貴僧が、無縁の人々をどうして度すことができましょう。つまり、貴僧がこれまで接した人々は、貴僧と縁がなかった、というだけのことです」
「ならば私は、これから生涯、それらの衆生と無縁のままで終わるのでしょうか?」と、智弁はがっくり肩を落として溜め息をついた。
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| 結縁(けちえん) |
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「では、こころみに貴僧のために結縁の実際をご覧にいれましょうか。ところで貴僧は、いまそこにいかほどの食糧と旅費を持ち合わせておりますかな?」と、老僧がなぐさめ顔で尋ねた。
「郷関を出てこのかた、南に北に久しく旅をつづけておりますのでごらんのごとく何もかも費消しつくし、ただいま所持する物といえば、着古したこの袈裟一衣あるのみであります」と、自嘲まじりにいうと、老僧は、大きくうなずき、
「それでよろしい。しからばその衣を売却してきなさい」と言った。
衣を脱ぎ、その売価で雑穀を買いもとめると、二人は連れだって広い野原へやって来た。
老僧は、あたりの地形を窺(うかが)うように、ある地点を定めてたたずむと、持参した雑穀をおもむろに撒いて、香を焚(た)き、長跪(ちょうき・からだを伸ばしてひざまずき礼をする)して祈願(きがん)した。
「今ここに、我が施す食物を食するもの、ねがわくは、当来(とうらい・今からのち)の世に、わが法門に帰依(きえ)せよ。
われ、汝らをまさに教化(きょうけ)して菩提に至らしめん」と誓願(せいがん)した。
すると、みるみるうちに天空より、色とりどりの鳥たちが乱下し、地上に撒かれた穀物を、われがちについばみはじめ、地中からもケラ・アリなど無数の虫が這い出てきて穀粒にむらがり集まった。
その様子を満足げに見守りながら老僧が言った。「これよりのち二十年後に、またあらためて、経論を開講(かいこう)なさるとよいでしょう」
言いおわると、たちまち姿がかき消えた。
智弁はそれから以前に増して経論の研鑽(けんさん)につとめ、彼の経論の解釈にはいよいよ深みと厚みを加えていった。
けれども、老僧の言いつけを固く守って、人前では口を緘して講義することは差し控えていた。
それから二十年過ぎ、智弁は ぎょうの都において経論の講義をした。
すると、不思議なことに、実に無慮数千人にもおよぶ聴衆が詰めかけたのである。しかもそれらはいずれもみな二十歳(はたち)ぐらいの年格好の者ばかりで、それ以上もそれ以下の年齢のものも、一人としていなかったのである。
(宋の高僧伝より)
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