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観音院とのご縁あればこそ

                   (96.12.27)



 広島市南区にある比治山トンネルを東から抜けると、鶴見橋にさしかかり平和大通りへと続くことは、みんながよく知るところです。しかし、鶴見橋 のたもとの比治山側川べりに、小さなお社があるのはご存知でしょうか。
 
 あれは確か、今から十年前の正月のことです。当時私達一家は南区に住んでいました。近くのお地蔵さんを正月に三人で三箇所お参りすると、願いご とが叶うと聞いて、わたしは母と兄とで早速に出かけたのです。
 川べりにあるはずだがと鶴見橋のたもとを探していると、お地蔵さんもですが、小さなお社を見つけたのです。
 ちょうどそこへ、約束でもしていたかのように、一人のお年を召した女の人がやってこられたのです。その方は、「自分は海外に住んでいたが帰国し てみると、このお社が古くなって崩れかかっていた。それで自分が新しく建て直し、毎日見回るのを日課としているのです。
 そのお陰か、今94歳だがとても元気で、今日もこうして見回りができるのです。」と、おっしゃるのです。見ると、その方はそんな高齢には見えな いほど背筋はぴんと伸び、しゃんと立って話してくださるのです。
 私達は信じられないといった面持ちで「え、えー。94歳ですかあ。」と、眼をぱちくりし合っていると、そのお社のいわれを次のように話してくださった のです。「大昔のことだが、広島には七つの川があってその川の護岸工事をやっておった。しかし、この川だけはどうしたことか工事中に大勢の犠牲者が出る。そこで、どうしたものかと、川岸にこのお社を建て、川を守ってくださる神様を祭って、無事祈願をした。すると、その後は、犠牲者を出すことなく護岸工事を終えることができたそうな。」と。おおよそこういった内容の話を残すと、その方は後ろ手をしてゆっくり立ち去って行かれたのです。
 私達は、その話の内容もですがそれ以上に、私財を投じてまでなさったおばあさんの、神仏を大切にされる姿に強い感動を覚えたのでした。

 その年の三月末、私達一家は市の郊外へ引越し、その話はすっかり忘れていました。それから三・四年経った夏、母は観音院にご縁いただくことがで きたのです。
 その当時、「観自在」で紹介してくださったように、萬倍さまのお社を新しくされると聞いた母は、突然脳裏に、あのお社と94歳のおばあさんが よみがえってきたそうです。母は迷うことなく、「させていただきたい」と、お願いしたと観音院から帰宅するなり、私達子供と居合わせた祖母に伝えたのです。母の先祖供養にという一途な気持ちに圧倒された私達は、ことばをはさむ余地はありませんでした。

 あれから数年経った現在、我が家を振り返ってみると、それからというものはよどんでいた水が一気に清流となって流れ出すように、不思議なほど家 の中が何もかも整ってゆきました。家族それぞれ願うことが願い通りに、いや万倍にもなって叶っているのです。母はいつもお陰で万倍もの豊かな心をいただいたと言います。
 本当にそれを象徴するかのような出来事がありました。先日、ある所で老若男女八十人位の集まりがあり、その中で笑いの大会が催され、六人の 審査員が審査されたそうですが、なんと一位は母だったのです。いちばん驚いたのは母自身だったようですが、観音院の門をたたいた頃の母を思うと、想像もつかないことです。
 今の母の生活は、毎月第一日曜日の大般若経転読法要のお参りに始まって、観音院でのいろいろな教室に参加させていただくという、元気いっぱ いの生き生きとした日々です。母は、お参りするだけでなく、「こんにちは!」と、挨拶できる友達が増えるのがとてもうれしいと言います。

 十年前、近くのお地蔵さんを正月に三人で三箇所お参りすると、願いごとが叶うと言われたことは、やはりほんとうだったのですね。十年前に見た鶴 見橋のたもとのあのお社は、今でも誰かが守っていてくださるのでしょうか。あの94歳のおばあさんは、お元気であれば104歳になっておられるはずですが。
 わたしも、少しでも誰かのお役に立ちますよう、また、いつも法主様が願ってくださいますように――人には温かく、思いやりを持って――過ごす ことができますよう努力いたします。


 投稿者:お結び萬 (広島市安佐南区)


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