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3個のパン(96.12.29)


 「黒部へ行かれるの?」という声に目を上げると、覗き込む見知らぬ女性の顔がそこにあった。「えぇ、まぁ−」などと適当に答えて、私は手元の地図に再び目を 落とした。ところがその人はもっと近づいてきて、私の地図を覗き込むのだった。私は怪訝な顔をしながらも、彼女に「あなたもこちらの方へ?」。彼女はニコニコしながら「ええ・・・」と答える。
 私はヘェーと思いつつ、そこで「どちらまで?」と尋ねた。「私は大町だから・・・」と答えた彼女は、つまり信濃大町の地元の人だったのだ。
 私はといえば信州一人旅で諏訪、白樺湖、立科を巡り、そして小諸から小海線で又、諏訪に戻り、今日は黒部峡谷を訪ねようと松本駅で、黒部ダムの入り口でも ある信濃大町への普通列車を待っていたのだった。何しろ一時間に一本しかないときているのだから、時間を持て余し、ベンチに座って、地図を片手にいろいろと思いを巡らせている時、その人との偶然の出会いがあった。
 私にしてみれば、この三日間、ほとんど誰とも話を交わすこともなかっただけに、親しみやすいその人との会話は心地よかったのだろう。
 やがて列車がきて乗り込んだ私たちはゆったりと各駅停車の車窓を眺めながら、ずーっとおしゃべりを楽しんだ。彼女がかって名古屋近郊の一宮で働いていたこと、 私の勤め先のこと、休暇をとって一人旅をしていること、穏やかな景色を追いつつ「あれがワサビ畑」「あれが禄山美術館」「あの一帯が・・・」何々など、いろいろなそのあたりの地域の説明が加わった。
 あれは春先だったのだろうか。外の景色に劣らず、車内も乗客はまばらで、のどかなものだった。そうこうしているうちに、あっという間に一時間余りが経ち、気が つくと、私たちは大町駅前に立っていた。
 彼女は私に、黒部ダムへ向かう為のバス乗場を教えてくれ、そして私たちは別れた。お互いに二度と会うこともないだろう。名前も住所も聞くこともなく、 互いに笑顔で手を振りながら・・・。
 遠くに小さく去って行った彼女を見送ってから私は、また一人でベンチに座り、今度はバスをまっていた。ところがその時、私の肩をたたく人が・・・。見上げると、 私の膝に紙袋が押しつけられ、そして、彼女がそこに・・・。
 驚く私に彼女は、「バスを待ってる間に食べるといいよ」と、声をかけながら走り去っていった。私は一瞬、唖然とし、すぐ立ち上がりながら、走り去る彼女 に向かって、思わず叫んでいた「ありがとう!」。聞こえたのかどうかわからない。それほど、彼女は、風のように素早かったのだ。私の胸に紙袋に入った3個のまわるいパンを残して・・・。
 何かを求めて旅をしていた青春時代・・・。あれから20年の歳月が流れた。あの時の数年後、私は、一人旅の時宿泊した建物の隣の教会で、質素な結婚式を挙げ、 同じように白樺湖、立科と回った。けれども、大町を訪ねる機会はその後もなかった。一昨年、ようやく、信濃大町を連れ合いと立ち寄ることができた・・・ほんの短い時間だったけれど・・・。あの時の駅前の様子も、彼女の顔もまったく覚えていないのだが、あの時の出来事がハッキリと思い出された。そうだ、心は形がなくて、目には見えないけど、感じることができる。その時の彼女の温かい心が、ずーっと、私の中に、住みついていて、ひょっこりと、顔を出し、私は、時々、彼女と再会を楽しんでいるような気がする。

 投稿者:宮崎真沙(名古屋市在住)


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