第4話は、未熟な親、お釈迦様の菩薩修行、四弘誓願、六波羅蜜について
 仏と如来のちがい、仏性について、日本霊異記からの説話の紹介


仏 教 談 義 4

   ----浮世根問 ねんだくり 其の四 ----
若々しい隣りのご隠居、好青年の隣りの寅雄さん、です。
未熟な親隣のご隠居さん このところ、なにかと嫌な出来事が世間に多いな。 隣の寅さん まったくで−。私がいちばん許せないのは、親による 子どものせっかん……。どうしたら実の親が、いたいけなわが子を いじめたり、行き過ぎた折檻(せっかん)のあげく死においやったり するんでしょうね? ご隠居 親としての心得も、その資格もない人たちが、ことの成り 行きで結婚し、子どもができてしまって、さあ、どうしよう、てな ものだろう。わが子を折檻死させる親というのは、そんなケースの 夫婦が、あんがい多いのではないかな。 寅さん そんな無責任な考えならはじめから子どもを産まなければ いいんですよ。腹がたつ。 ご隠居 ま、そう怒りなさんな。最近の若い人は、全部が全部とは いわないが、人間として最も大切な部分----情操とかモラルの面に おいて欠ける人が多い。つまり、知識と肉体は一人前だが、心の面 が少しも成長していないから、子どもとちっとも変わらない。  だから自分の分身であるわが子が、自分の思いどおりにならない と、すぐに理性を失って、感情のおもむくままに平気で酷いいじめ かたをする。相手の痛みを思いやる気持ちが欠落している。 寅さん いつからそんな情けないことになったんでしょうね? ご隠居 子どもの頃から、お金で世の中すべての価値をはかる考え 方がはびこったことも、その原因のひとつではないかな。  これを比喩的に図式化すると、たとえば収入面からすると、本来 尊敬の対象であるべき親や先生などよりも、若いタレントやプロス ポーツ選手のほうが、はるかに高所得者だ。そこで、親や先生が、 どんなに偉そうなことを言っても、子どもの側からすると、なんだ、 稼ぎが少ないくせに文句ばかり言って、と、ほとんど尊敬の対象で なくなる。  そして世間には、夢のように優雅で、ぜいたくな生活をしている 人々がゴマンといる、と勝手に思いこみ、そんな暮らしに憧れなが ら成人し、結婚し、子どもを産み、さて改めて現実を見回すと自分 がこれまで夢に描いていた生活と、大きくかけ離れている。そのや り場のない心のはけぐちが、手近な子どもに、という図式だ。  寅さんは、外面如菩薩(げめんにょぼさつ)、内面如夜叉(ないめん にょやしゃ)という言葉を知ってるだろ。 寅さん うわべは慈悲深い菩薩様のようでいて、心の中は悪魔のよ うな人、というのでしょう? ご隠居 自分の子を虐待する親というのは、あれだよ。外に出る時 は美しく着飾り、人前では綺麗ごとをならべていても、家に帰れば とたんに夜叉になる。こわいね。 寅さん そんな親を持つと、子にとって悲劇ですね。 ご隠居 折檻も、肉体的に加えられるものばかりとはかぎらない。 勉強しなさい、勉強しなさい、という口で与える折檻もある。 お釈迦様の菩薩修行 寅さん 菩薩の話が出たついでにお聞きしますが、如来菩薩は、 どこがどう違うんです? ご隠居 菩薩に関する詳しい話は別の機会にゆずるとして、如来と 菩薩を手っ取り早く見分けるには仏像を見ることだな。  菩薩はいってみれば、仏の候補者とでもいったらよいか、さとり をひらこうとしている人間だが、如来は既にさとりをひらいた聖者 だ。  大乗仏教は、その二種類の仏教者の区別を、菩薩には、冠や首輪、 腕輪などアクセサリーをつけさせるのに対し、如来には、うすい僧 の着物をまとわせるだけの形にしている。  つまり、さとりをひらこうとする人間は、まだ、おしゃれの心を 捨てきれないが、さとりをひらいた人間は、すっかりおしゃれの心 を捨てて、裸の自己になりきっているという意味だろう。 寅さん そういえば、阿弥陀様もお釈迦様も、それほどよいものは お召しになっていませんね? ご隠居 そのお釈迦様にしても、最初から如来であったわけではな い。修行前は、平凡な迷いの衆生の一人にすぎなかった。 寅さん というと、お釈迦様も、菩薩の時代があったんですか? ご隠居 あったとも。釈迦が仏陀(ぶっだ)になる以前(まえ)、生ま れ変わり、死に変わり、国王や商人や奴隷や鳥獣にまで身をかえて 修行されたその期間は、菩薩であったな。 寅さん お釈迦様は、なぜ修行しようという気をおこされたんで しょうね? ご隠居 あるとき、感ずるところがあったのだな。そして自利利他 (じりりた)----人々に功徳(くどく)、利益(りやく)を施(ほどこ)し、 人々の苦しみを救済(きゅうさい)しようという誓いをたてられた。 それが四誓願(せいがん)、六波羅蜜(ろくはらみつ)という広大無辺 (こうだいむへん)な修行だ。 寅さん 待ってください。お釈迦様が、出家前に誓いをたてたとい う四誓願というのは、なんのことです? ご隠居 四弘願行(しぐがんぎょう)といって、生きとし生けるもの を救済したいという菩薩の四つの願いのことだな。列挙すると、 一つ、衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)。  これは誓ってすべての生きとし生けるものを、理想の彼岸に渡す ことで、つまり一切の衆生を救済しようという願いだ。 二つ、煩悩無数誓願断(ぼんのうむすうせいがんだん)。  これは誓ってすべての迷いを断とうという願い。 三つ、法門無尽誓願学(ほうもんむじんせいがんがく)。  誓って佛のすべての教えを学び、実践しようという願い。 四つ、仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)。  誓ってこのうえない仏の道であるさとりの世界に到ろうという 願いのことだな。 寅さん じゃあ、六波羅蜜(ろくはらみつ)というのは? ご隠居 「布施(ふせ)」と「持戒(じかい)」と「忍辱(にんにく)」 と「精進(しょうじん)」と「B禅定(ぜんじょう)」と「智慧(ちえ)」 だよ。  分かりやすくいうと、ほどこし、いましめ、たえしのぶ、はげみ、 しずまり、さとりをいい、菩薩のおこなう六つの修行の徳目のこと だな。 寅さん そして、お釈迦様は如来になられた? ご隠居 釈迦にかぎらず、これから先如来になるものは、現在菩薩 として修行しているはずで、いつの時代にも無数の菩薩がいること になる。また、そのような菩薩は出家僧とはかぎらず、在家(ざいけ) でもいっこう差し支えない。  菩薩は慈悲と犠牲的精神の権化だから、この世の人々を救いおわ るまでは、自分だけ悟って、その境地に安住してはならないと決意 している。つまり、一般社会から超越しないで、人々といっしょに 歩んでいるということだな。 仏と如来のちがい 寅さん 菩薩が修行して、如来になることまでは分かりましたが、 私たちはふだん仏様(ほとけさま)のことを、如来様という場合があ りますね。あれは何故です? ご隠居 「」は本来、「仏陀」または「仏図」という。  日本語の「ほとけ」は、「仏図家」が転訛したものらしい。  仏陀(ぶっだ)というのは、知者とか覚者という意味で、知者と は迷者に対して名づけ、覚者とは覚った人の意味だ。  では知者がどれだけのことを知っているかというと、知者は無限 の時間と、無限の空間を超えて、有情(うじょう)----人間やすべて の生きものと、非情(ひじょう)----木や石など喜怒哀楽の心のない もの等の一切の諸法を理解しているから知者なのだな。  また覚者はどういう人かというと、自覚覚他(じかくかくた)覚行 円満(かくぎょうえんまん)といって、我という自分とはなんである かをさとり、物質や肉体の執着から離れて、絶対真理をさとる人だ から覚者という。  要するに、一切衆生(いっさいしゅじょう)は、当面することにあ れこれ迷いものごとの真理を覚知できないが、仏はよく宇宙の真理 と、その実相を覚知しておいでになるから、仏陀----知者覚者とい うのだ。覚知についての説明は際限がないからこの辺でやめよう。 寅さん うまく逃げましたね。ご隠居も本当のところ、よく分から ないんでしょう? ご隠居 正直いうとそうだ。でも仏陀は、なにもお釈迦様一人にか ぎったわけではない。人間はみなお釈迦様と同じように、佛になり うる素質と能力が具(そな)わっていることを忘れてはならないな。 だから経文にも、是心作仏(ぜしんさぶつ)是心是仏(ぜしんぜぶつ) と説いている。 寅さん では「如来」の解釈は? ご隠居 まず如来の「」の字句だがこれは、ありのままである、 ということで、如如(にょにょ)とも真如(しんにょ)ともいう。  真如----永久不変にして、現実そのものの真理のことだが、その 真如の概念は、形もなく姿もなく、過去と未来の無限の時間を経過 してもまったく変化しないもの、たとえてみれば、空気のようなも の、とでも言ったらよいかな。 寅さん 逆らうようですが、それは少しおかしくありませんか?  最近は、私たちが日常出しているフロンガスによって、空気中の オゾンを破壊していますし、二酸化炭素によって年々地球の温暖化 がすすみ、低い都市は水浸しになると心配しています。 ご隠居 寅さんみたいに、仏教をいちいち現実の話に当てはめては いけないよ。仏教というものは、あくまでも形而上(けいじじょう) のことを説いているのだから----。 寅さん だからといって、永遠であるはずの宇宙でさえも、ビッグ バンに始まって、今もこの宇宙のどこかで新しい星が誕生したり、 年数の尽きた星が最後の爆発を起こして消滅したりしていますよ。 宇宙は永遠ではない。 ご隠居 それはそれとして、ま、ともかく、この地球上をおおって いる空気のように、無形無相で、生まれたての赤ん坊のように純真 無垢(むく)な心を、すべての人間は本来同じように授かっているも のなのだ。だから涅槃経(ねはんぎょう)において、一切衆生にはこ とごとく仏性(ぶっしょう)があると説いている。  そしてその仏性は、有情(うじょう)の生きものだけに具わってい るのではない。山川草木、土や石ころなど、あらゆる非情にも本性 があり仏性がある、というのが仏説だな。 寅さん 植物ははともかく、土や石ころにも仏性があるんです? ご隠居 み仏に救われる素質、つまり仏性があるのは、生きものだ けではない。この地球上のすべての物質に、本来仏性が具わってい るという量りしれない包容力が仏教というものなのだな。 寅さん 仏教は、途方もない大風呂敷をひろげて、なにもかも面倒 をみるものなんですね。  では最後に聞きますが、如来の「」とは何ですか? ご隠居 来というのは、「去来(きょらい)」の意味だ。真如の道に 乗じて来て正覚を成ずるなり、とあるな。  お釈迦様は三祇(さんぎ)百劫(ひゃっこう)という長い長い修行に よって、円満覚性(かくしょう)という真如法性(ほっしょう)を正し くお悟りになり、如も来もともに具備されたから如来と申しあげる。 しかし私たち衆生は、如は持ち合わせているものの、来が具わって いない。わかったかな? 寅さん 分かりません。 ご隠居 では、仏と如来をこうイメージすればどうかな? 寅さん どうイメージするんで? ご隠居 仏は浄法界(じょうほっかい)において、いつも静かに座っ ていらっしゃる。如来は、私たち衆生を救うため、時として法界か ら去来されるとな。         隣りのご隠居さん、ありがとうございます
 妻と暮らすため母を殺そうとして逆に死んだ男の話                 −「日本霊異記」より−  聖武天皇の御世(みよ)、武蔵(むさし)の国にある男がいた。男は 筑紫(つくし)へ防人(さきもり)として、母を伴い赴任した。男の妻 は国元で家を守っていた。  ところが男は日がたつうち、国の妻恋しさのあまり、とんでもな い悪企(だくみ)みを起こした。当時父母の喪(も)は一年で服喪(ふく も)中は兵役を免除されていたから、母親を殺せば、国へ帰って妻と 一年のあいだ一緒に過ごせる。  母親は天性信心の人であった。男が母にいう。「山中で、七日に わたり法華経を説く大会(だいえ)があるそうな。聞きに行こう」  欺(あざむ)かれたとも知らず、母親はいそいそと身を洗い浄めて、 山深く男と入って行った。と、男の様子が一変する。 「母者(ははじゃ)、可哀想だが命をもらう」と血走った眼で睨(にら) みすえた。  母は息子の顔をまじまじと見て「どうして、そんなことを言う? お前、もしや鬼でも憑(つ)いたか?」  男は刀をぎらりと抜く。母親は泣き崩れ、大地を叩いて訴える。 「木を植えるのは、その実を食料にするためであり、木陰を得るた めだ。同じように、子を育てるのは、その子の立派な成長を楽しみ 老い先をつつがなく暮らすことにある。頼りにするそのわが子が、 こともあろうに何ということを----」  男はしかし耳をかさない。観念した母親は、身にまとっていた衣 服を脱ぎ、それを三つに分けて静かにいう。 「よいか、これは私の遺言と思って聞いてくれ。一つの衣は長兄で あるお前にくれてやる。一つの衣は二男にわたせ。もう一つは三男 にわたしてくれ」  そして、いよいよ男が母親の首を斬ろうとした、その時である。 突如、男の立っている大地が轟音(ごうおん)とともに裂けて、男を のみこんだのだ。母親は、割れ目になかに引きこまれてゆく男の髪 をしっかりとつかみ、天を仰(あお)いで哀願(あいがん)する。 「私の子は、いま正気ではないのです。何か悪いものに憑(つ)かれ て狂っているのです。本当は良い子ですから、どうか罪を許して助 けてください」  母親は力をふりしぼり、息子の髪を懸命につかんでしばらく耐え ていたが、やがて男は、地の底へずるずると落ちていってしまった のである。  愛するわが子に、最もむごいかたちで背(そむ)かれた母親は、男 の髪を故郷へ持って帰り、その髪を箱に納めて、仏前に置き、ねん ごろに追善供養(ついぜんくよう)をしたという。  母の慈愛はふかい。深いがゆえに、どのように悪い子といえども あわれみの心を垂(た)れて善を修めるのである。  親不孝をしてはいけない。親不孝の罪は、すぐその報(むく)いが 現れる。
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