第3話は、郵便番号・人別帳・戸籍・寺請制度
 檀那・旦那・布施・財施・法施・慈悲・菩提について

仏 教 談 義 3

   ----浮世根問 ねんだくり 其の三 ----
若々しい隣りのご隠居、好青年の隣りの寅雄さん、です。
書かなきゃどうなる?隣のご隠居さん 庭の沈丁花がぼつぼつ匂いはじめたな。 隣の寅さん 広島の川にも、白魚がのぼり始めるころですね。 ご隠居 「白魚の小さき顔をもてりけり」、という俳句がある。 白魚のあのすき通った小さな体に、つぶつぶの眼があり、顔がある。 その顔が、何ともまた小さいくせに、りっぱに顔であること。それ に気づいた驚きと感銘が、じつによく表現されている句だな。 寅さん プロ野球は春のキャンプを打ち上げてオープン戦が始まり ますし、お彼岸おはぎをうんと食ったあとは、春の選抜高校野球 が控(ひか)えています。 ご隠居 いよいよ春だな。 寅さん それはいいんですけど、郵便番号「七ケタ」は面倒ですね。 宛名を書くのに分厚い郵便番号簿と首っぴきしなければならない。 ご隠居 郵便局のほうは、七ケタによって、郵便物の仕分け作業が 簡素化されるということだが、たしかに書くほうは煩雑(はんざつ) になったね。 寅さん あれに、どんな意味があるんでしょうか? ご隠居 私は別に、郵便局のお提灯を持つわけではないが、従来の 五5ケタに、二ケタ加えることによって、全国津々浦々の町名まで 選別できるということだ。だから、判読不明のくせ字や、下手くそ な宛名書きを人間の眼に頼るよりも、数字を機械に読みとらせるほ うが数倍も速い。 寅さん 下手な字で悪うございましたね。 ご隠居 そう僻(ひが)みなさんな。なにも寅さんのことをいったわ けではない。 寅さん じゃあ、伺いますが、ご隠居の話だと、郵送先の七ケタの 数字だけを記入し、あとはただ何丁目何番何号のなんのなにがし様 と書けば、その郵便物はちゃんと相手に届くという理屈ですね? (7桁郵便番号を書いても、市町村名は書かれていたほうが無難です) ご隠居 県・市・町名を書かないで、枠(わく)の中にきちんと正確 に数字を書き込めば、もちろん先方に届く。寅さんもバーコードと いうのを知っているだろう? スーパーやコンビニなどの商品に付 いているやつだ。 寅さん ええ。レジの勘定(かんじょう)が早くなりましたね。 ご隠居 バーコードは、あのシマ模様を光学的に瞬時に読み取り、 商品を識別したり、値段を表示したり、店にとって貢献度の高いも のだ。郵便番号七ケタは、要するにあれなのだよ。 寅さん へえ、でも、なんだか味気ないですね。私は字を書くのが 苦手(にがて)だから、かまいませんが----。 ご隠居 七ケタ実施によって、ますます県名地名の書けない層が増 すだろう、と嘆(なげ)く有識者もいる。茨城県、埼玉県、新潟県な ど、すぐにはすらすらと書かれない。  ちなみに観音院の郵便番号は733−0032となったな。 寅さん 0032が東観音町を示しているんですね。 ご隠居 コンピュータ化の時代、数字化するのは、ま、やむをえな いことなのかもしれない。キャッシュカード、クレジットカードも みな個人をナンバーで識別する時代だからね。 寅さん ひょっとして、そのうち私たち一人一人が番号になるんで はないでしょうね? ご隠居 いやいや、寅さん、そういう考え方が、ある一部には本気 であるんだよ。国民背番号制といってね。これは、行政資源の公正 で平等な配分ということを建前(たてまえ)にしているが、これを、 国家がかりに悪用すれば、とんでもないことになりかねない。 寅さん 市民の人権とプライバシーを守るためにも、せいぜい郵便 番号七ケタどまりで結構ということですかね。
「お寺と人別帳(にんべつちょう)」  少し歴史の勉強です ご隠居 ところで寅さん、江戸時代、庶民の戸籍がどのようにして つくられていたか、あんた考えたことがあるかね? 寅さん それは係の役人が----。 ご隠居 区役所も役場も、そのころはありはしないよ。 寅さん 言われてみれば、そうか、 ご隠居 その昔、徳川幕府は、日本じゅうの戸籍づくりに、お寺と 各家家(檀家)を結びつけていた「寺檀(じだん)関係」というものを 利用したのだ。  昔の人にとってお寺というのは家族ぐるみで帰依(きえ)し、先祖 代々の墓を置いたり、慶事、仏事をとわず、何か、事が起きると、 お寺をわずらわせていたから、幕府はその密接なつながりに目をつ けたわけだな。 寅さん なるほど。お寺は、自分の檀家のことなら、一軒残らず、 どの家の内情もすみずみまで知りつくしていたわけですね? ご隠居 江戸時代の地域社会は、お寺を中心にその土地の社会秩序 を維持していたから、そこに少しでも公序良俗をみだす者が出ると、 寺としても立場上知らぬ顔をしているわけにはいかない。そんなこ とで、いつの間にかそれぞれの家の家族構成にまで通じるようにな る。  その頃は、キリシタンや日蓮宗不受不施(ふじゅふせ)派の取締り が特に厳しい時代だったから、それを口実に、全国の寺院にくまな くその檀家や家族の中に、禁教の信徒がいないかどうか、一人一人 の身元、身分を寺から証明させる『寺請(てらうけ)』というものを 提出させていたのだな。 寅さん 日蓮宗不受不施派というのは、なんのことです? ご隠居 法華経を信じない者からは布施(ふせ)を受けず、法を施(ほ どこ)さないという純粋な宗派で、徳川家康はこれを邪宗門として、 キリシタンとともに弾圧したのだよ。  当時の『宗門檀那請合之掟(しゅうもんだんなうけあいのおきて)』 というのを見ると、これがひどい。それには、檀那役(布施や募財) に応じない者、先祖の年忌(ねんき)や法事を勤めない者、寺参りを しない者などはキリシタンとみなす、というのだからたまったもの ではない。 寅さん へえ、そんなもんですかね。私らにすると、仏様を中心に お寺と檀家が信頼しあい、仲睦まじくて結構なことと思いますが。 ご隠居 あんたのように、好意的に解釈するとそうだが、幕府の本 当のねらいは、寺請制度を利用した宗教統制人別帳づくり、つま り、戸籍制度づくりにその主眼があったのだな。 寅さん そうすると昔は、お寺が役所みたいに、身分証明証を出し ていたことになりますね? ご隠居 この「寺請」という寺檀制度は、日本の戸籍制度が確立す る明治四年までつづいたのだよ。
檀那と旦那  だんなと呼ばれる年になったです? 寅さん ところでご隠居、檀家というのは、なぜそう呼ぶんです? ご隠居 特定のお寺と永続的に葬祭の関係を結び、布施をおこなっ てそのお寺の護持(ごじ)にあたる家のことを檀家というな。  また、寺僧(じそう)を供養するという意味の、檀那(だんな)とか 檀越(だんおつ)という語源は、梵語のダーナパティからきている。 寅さん 日本でいう「旦那」は、その檀那がご本家なんですか? ご隠居 そうだ。もっとも、旦那という名称は現在ほとんど死語と 化(か)して、「越後屋、おぬしも悪(わる)だのう」と、時代劇に出 てくる旦那以外使われることがないようだがね。 寅さん そんなことはありませんよ。脛(すね)にきず持つ悪い奴は 警官を、そう呼びますし、場末のネオン街では「だんな、だんな、 いいコがいますよ」と袖(そで)を引っぱている。 ご隠居 それはともかく、「檀那」とは「布施」という意味だから、 うまく翻訳したものだな。そこで、なぜ布施と書くのかというと、 これは文字通り「布(ぬの)を施(ほどこ)す」ことであったのだよ。  インドの僧は、左肩から右の胸の下に、大きな布を身体に巻きつ け、これを偏袒右肩(へんだんうけん)といった。つまり袈裟(けさ) のことだな。その大きな布を入手することがなかなか困難であった。 それで、道に落ちているボロ布を拾い集めて袈裟にすることも珍し くなかった。  だから出家(しゅっけ)僧にとっては、財力のある在家(ざいけ)信 者から、袈裟とする大きな布を施してもらうのは、たいへんありが たいことであった。布施という言葉はそこから生まれたわけだ。  しかし布施は、なにも出家僧に限ったことではない。知己(ちき) をとわず、人にお金や品物を進呈するのも、それはそれで、立派な 布施だ。  ただし、その布施は、三つのものが浄(きよ)らかでないと、真の 布施にならないとされている。 一つ、人に物をあげるとき、恩着せがましい気持ちがあってはいけ    ない。施す人の気持ちが浄(きよ)らかであることが大切だと    いうのだ。 二つ、布施を受ける人が、それを受け取ることによって卑屈(ひくつ)    になるようでは、真の布施ではない。なんのわだかまりもな    く相手に貰(もら)ってもらって、はじめてそれが布施になる。 三つ、悪いことをして得た金品を施しても、それは布施ではない。    自分に不要なものを人に与えて、それで布施した気持ちにな    るのはまちがいだ。自分の大事なものを施すのが布施なのだ。  以上、三つのものが清浄でなければならない。佛教では、これを 「三輪(さんりん)清浄(しょうじょう)の布施」----といい、そのよ うな清浄な布施をすれば、それが、佛道修行になると教えている。 寅さん なるほどね。「檀那」という言葉が、日本では分限者(ぶげ んしゃ)の呼び名になったり、女房が自分の亭主をうちのダンツクと 親しみをこめて呼ぶ謙譲語(けんじょうご)になったり、そして梵語 では布施という意味でもあるんですね。それにしても、布施という のは、真心が大切なんですね?
財施(ざいせ)と法施(ほうせ)  ご隠居 そうとも。布施をくだいていえば、ほどこしのことだよ。 この、ほどこしという言葉のなかには、仁慈博愛という意味が含ま れている。  はやくいうと慈悲だな。だからそこには、人にものを恵み与える といった優越感は、毛ほどもない。  慈悲に湛(たた)え満たされている精神はただひとつ、人のことを 何よりも大事に考える心、抜苦与楽(ばっくよらく)------つまり、 己のもつ慈悲の心を発揚(はつよう)して、多くの人の苦しみを抜き 楽しみを与えるという意味にほかならないからだ。 寅さん となると、私たち凡人が慈悲を持つということは、なかな か容易ではありませんね? ご隠居 そんなことはない。寅さんは外を歩いていて、もし地面に 這(は)う蟻(あり)を見つけたら、何にも気にせず踏んずけて行くか い? 寅さん いいえ、なるべく踏まないようによけて歩きますよ。 ご隠居 そうだろ。寅さんのその心づかいが立派な慈悲なんだよ。 寅さん でもね、私はゴキブリが出ると、ハエ叩(たた)きを持って 家じゅう追いかけますよ。 ご隠居 ゴキブリを殺すのとは理由(わけ)がちがう。あれは人間に とって悪い病原菌を媒介(ばいかい)する害虫だから駆除(くじょ)し てあたりまえだ。  それはさておき、抜苦といっても、苦しみには、肉体的な苦しみ と、精神的な苦しみの二種類がある。  ここで話をもう一度、お寺と檀家の関係に戻すが、肉体的な苦し みは、財物(ざいもつ)をもってこれを救い、精神的苦しみには、法 (おしえ)をもってこれを助ける。  したがって、お寺と僧侶は法を施して人々の心を楽しませ、人々 は、財物を施して寺と僧侶の暮らしを支(ささ)える。  だから、その法を施す寺ということで、これを檀那寺(だんなでら) といい、財物を施す家というので、檀家というようになった。お寺 と信者さんの関係は持ちつもたれつ、まさにギブ・アンド・テイク なんだな。 寅さん あ、そうか。旦那というのは、ものを気前よく呉れるとい うので、旦那になったんですね? ご隠居 いまごろ気がついたか。だが、この財施(ざいせ)というも のは、ただ単に檀那寺にのみ、これを施すわけではない。  財施のほんとうの意味は、佛法僧の三宝に供養することであり、 あるいはまた、代々のご先祖を供養し、施すことであって、これら の供養と施行(せぎょう)を、特定の寺院でおこなうから、檀那寺と いう名称を付(ふ)したとも解釈できるな。  もし仮(かり)に、お寺の僧侶がその法を施さず、檀家がその財を 施さなければ、どうなるかな? 寅さん お寺は立ちゆきません。 ご隠居 財施と法施の二施によって結ばれた檀那寺と檀家の関係は 有名無実と化して、その寺は破寺(やれでら)となってしまう。 寅さん だれ一人お参りする者のいない墓だけ、寒々(さむざむ)と 残されたお寺になってしまうんですね。  ところで、「菩提(ぼだい)を弔(とむら)う」、というあの菩提と は何のことですか? ご隠居 正確にいえば阿耨多羅三藐三菩提<(あのくたらさんみゃんさ んぼだい)だ。これは無上正等正遍智(むじょうしょうとうしょうへ んち)という意味で、ひらたくいうと、このうえもない立派な心の光、 とでも考えれば分かりやすいかな。  つまりそれは、心の垢(あか)がすっかり取れて、かぎりなく清く 浄(きよ)らかになった境地(きょうち)のことで、仏教のめざす究極 の世界なのだ。仏のみこころも、ひたすらにこの菩提を得るために あるとも言えよう。  だから、お釈迦さまが四十九年のあいだ伝道をつづけ、あらゆる 手段を尽くして説法されたのも、つまりは、この無上菩提をもって 一切の衆生を救済するためであった。したがって、仏教を信仰する 者にとって、その目的とするところは、あくまでもこの無上菩提の 境地にたどりつくことにある。  そしてまた、檀那寺は、その無上菩提を得る方法を教える所だか ら、その寺を、菩提所とか菩提寺(ぼだいじ)といったのだ。ただし その場合、ひとり自分だけが菩提を得るという個人的なものではな くて、代々のご先祖様を供養し、その功徳(くどく)によって、あの 世の人々もみんな一緒に無上菩提の果報(かほう)を分かち合おうと 願う所なので、菩提寺というのだ。 寅さん なるほどね。私は菩提寺というのは、忠臣蔵の浅野内匠頭 (たくみのかみ)の墓所がある泉岳寺(せんがくじ)とばかり思ってま したよ。 ご隠居 寅さんも、お彼岸をおはぎを食べる日だ、などと思いこま ないで、せいぜいご先祖の菩提を弔(とむら)うことだな。         隣りのご隠居さん、ありがとうございます

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