仏教について、現代風に対談形式でわかり易く説きます。
第2話は、親子について、精神世界・仏像・信仰・信・解(げ)とは・・・

仏 教 談 義
若々しい隣りのご隠居、好青年の隣りの寅雄さん
   ----浮世根問 ねんだくり 其の二 ----
「やさしくない」お母さん隣のご隠居さん やあ、寅さんではないか。みかんでも食べながら
ゆっくりしていきなさい。
寅さん ありがとうございます。今年のみかんは滅法(めっぽう)甘
くて、おいしいですね。
ご隠居 去年は金融不安など、日本国じゅう、世知辛いことだらけ
で散々だったから、ことし一年はみかんのように、旨くいくといい
がね。

寅さん ところでご隠居。いま受験生をかかえている親御さんは、
どこもたいへんのようですが、なぜみんな、いい学校いい学校と、
眼の色を変えるんでしょう?
ご隠居 それはしかたがないだろう。今の世の中、競争社会なんだ
から……。
 みんな歴史社会の時間で習ったように、昔は、士・農・工・商と
人間産まれたときから社会の身分秩序がちゃんと定まり、上の階層
をめざそうとしても、社会の仕組みがそれを許さなかった。
 だから、職人の家の子などは、おぎゃあと産まれおちた時から、
すでに親の仕事に就くことがほぼ決まっていたものだ。

 でも、現在はそうでない。本人の能力と努力しだいで、いくらで
も上が望める社会だから、子どものときから勉強して、よい学校に
はいり、よい会社やよい仕事にありつこうと、親も子も、眼の色を
変えて受験勉強に取り組まなければならないことになる。

寅さん 出来る子は、それでまあよいとして、あまり勉強の得意で
ない子どもはどうなるんです?

ご隠居 そこが問題だな。日本はいまのように豊かな国だし、昔か
ら教育熱心なお国柄だった関係で、大学や短大など高等教育の進学
率が、アメリカに次いで日本は世界で二番目なんだ。
 まして現代社会は、親の欲目や、周囲に対する見栄や外聞から、
わが子を実力以上に評価して、どうも親のほうが子どもに期待をか
けすぎる傾向があるように思うな。これは子どもにとっては大変な
負担だよ。

 その証拠に、日本は就学率が高いわりに、児童からみた学校生活
の満足度では、先進諸国にくらべると低いし、子どもが両親を、ど
のようにみているか、といった国際比較でも、日本の児童と外国の
児童で評価に大きな差がある。
 たとえば、母親について「やさしい」と肯定する子が、外国では
九十%以上もあるのに、日本の子は六十%ぐらいしかない。
 また「お母さんのようになりたい」とか、「尊敬している」につ
いても同じような傾向がうかがわれ、日本の母親は外国の母親にく
らべ、わが子からどうもあまり高く評価されていない。父親につい
ても似たりよったりだな。

 だから、本人の気に染まぬことを、私設応援団のように、傍から
やいのやいのと、急き立てれば急き立てるだけ、子どもの気持ちが
親から離れていくばかりで、日本のお母さんは、子どもにとって、
決してやさしい存在ではなくなっているんだよ。

寅さん とはいっても、いま受験生をもつ親は、わが子の頑張りを
固唾をのんで見守り、合格を神仏に祈っていますよ。


信仰の不思議 ご隠居 まあ、いわしの頭も信心から、だな。 寅さん なんです、そのいわしの頭というのは? ご隠居 節分の夜、いわしの頭をヒイラギの枝に刺して門口に置く と、悪い鬼がやって来ないという風習が鎌倉時代からあった。いわ しの頭も信心から、はそのことを言ったもので、いわしの頭のよう なつまらない物でも、信仰の対象となれば、ありがたい物に思われ るという意味なんだよ。 寅さん ふーん、するとご隠居は合格なんか神仏に祈っても無駄だ とおっしゃるんで? ご隠居 そうは言ってない。「苦しいときの神だのみ」、という諺 があるように、人間は、苦しかったり、なにか願いごと叶(かな)い ごとがあるときは、日ごろ不信心の者でも必ず神仏におすがりする ものだ。 寅さん 不信心者と、信仰心の厚い人とでは、さぞかしご利益(りや く)に差が出るでしょうね? ご隠居 それは当たり前だ。お祈りの姿勢とか、かける熱意がちが えば、それをうける神仏の感応(かんのう)度にも、当然ひらきが生 じてくる。そう身近な例では、観音院の護摩(ごま)祈願だな。あの 熱祷(ねっとう)が仏様に通じないわけがない。 寅さん じゃあ、ひとつ伺いますが、祈りというのは、一体ぜんた い何なんでしょうね? ご隠居 あんたから正面きって、そんな質問をされると戸惑ってし まうが----物質世界と精神世界をつなぐ、眼には見えないが、確実 に存在する架け橋とでもいえばよいかな。 寅さん 話がとたんに難しくなりましたね。 ご隠居 ひらたくいうと、私たち物質世界の願望----たとえば入学 試験合格や開運厄除(やくよけ)、商売繁昌、家内安全などを、あち らの精神世界にいらっしゃる神や仏に、誠心誠意まことを尽くして お願いする行為が「祈り」であって、それが一本の橋を渡るように あちら側につながり、神仏の「みこころ」にまで到達するというこ とだろうかな。 寅さん へえ、祈りなんてのは不思議なものなんですね。 ご隠居 ああ、不思議だとも。では少しばかり寅さんに講釈してあ げようか? 寅さん 分かるていどにおねがいします。 ご隠居 そもそもだな。宗教というものは不可思議きわまるもので あって、宗教についてまわるこの不可思議さは、どうしようもない ものだ。そこにこそ宗教上の不可思議な特別な味わいがあり、また それを味わうことが、ほかでもない、信仰というものなのだよ。  だから、信仰とは一体ぜんたい何であるのか、いちいちその要素 を分析することなどできはしないが、それでも、無理やり信仰とい うものを突き詰めて考えれば、それは人間の理解できる領域と、理 解不能の領域との、ぎりぎりの限界にあって、理性と感情が複雑に からまりあった念力といったらよいだろうかな。 寅さん -----? ご隠居 おや、みかんが酸っぱくなったか? 寅さん、宗教という ものはだね、頭で考えて分かるようであって、そうでなく、とても 理解できそうでないようでありながら、ほんとうは理解できるもの なのだよ。少々もってまわった言い方だけど、いま言った頭脳で考 えられるようでいて、肝心な部分のところは、もやもや霞がかかっ たように、どうにも分からなくなるのが宗教上の学問であってだな、 最初のうちは、理解できそうにないようであって、最後は自分自身 納得のゆくのが、ほかならぬ宗教上の信仰というものなのだよ。  つまり、こういうことだ。学問から入る宗教は、あくまでも知性 によって知識を吸収しただけにすぎないが、信仰は、人間のあらゆ る情念を集約したものだけに、宗教に対する理解の度合いが、格段 にちがうのだな。これを仏教の側面からいうと、(げ)と(しん) の差ということになる。 寅さん なんですか、それは? ご隠居 「解かる」ことと、「信ずる」ことだ。この解と信の、ど ちらが大切かというと、仏法では、信ずることをもって始めとし、 解かることはその次としている。  つまり学問や、知識によって仏教を理解する人は、信じる点にお いて浅く、反対に、信仰心からはいった人は仏教に対する捉え方が 深いのだな。  仏教を、学問の面からだけで究めようとする人は、とかく信仰の 面において欠けるところが多い。一方、信仰の面から仏教にはいっ た人は、教義の知識や理解にいくらかは劣っていても、ただひたす ら信じることによって心が満たされ、十分にしあわせなのだな。 寅さん それじゃあ、やっぱり、いわしの頭からアプローチしたほ うが、入学試験合格の確率が高いですね。
仏様は鑑賞物ではない ご隠居 そういうことになるかな。そこで思い出されるのが、和辻 哲郎の「古寺巡礼」を批判した亀井勝一郎の主張だ。「古寺巡礼」 は、和辻哲郎という哲学者が、「大正七年の五月、二、三の友人と ともに奈良付近の古寺を見物したときの印象記」だが、仏像の美し さを、繊細な感性と、のびやかな文章によって浮き彫りにした作品 として知られ、これまで多くの人に愛読されてきた。それに評論家 の亀井勝一郎が噛みついた。和辻は要するに、仏像を美の対象とし て見るのみで、信仰の対象としていない。  仏像は昔から信仰の対象でありつづけたのであり、したがって、 それは信仰の対象として礼拝(らいはい)されるとき、真に美しい姿 を発現し、祈りの姿勢のなかでこそ光り輝くであろう、と亀井勝一 郎は言っている。 寅さん つまり和辻さんは、仏様を、美術作品を見る態度でながめ ているというんですね? ご隠居 いちがいに、そうとばかりは言えないが、学者ともなると 自分の容認できない論旨には、こだわるからな。 寅さん その点、私など学問でなく、信仰心からはいっているだけ 仏教の理解が深いことになりますね? ご隠居 そうかもしれないな。今年、寅さんに思わぬ幸運がころが りこんでくるかもしれないし、いま机にかじりついて勉強している 受験生も、春の訪れとともに晴れて合格の日がくるかもしれない。 そんな幸運を得るために、何かにすがり、何かに祈って救いを求め る----それが信仰というものだ。だから信仰というものは、さっき も言ったように、理性と感情をひっくるめ、感謝とおそれと、希望 を寄せ集めたようなものだから、理屈も言葉もなにもありはしない。   なにごとの おわしますかは知らねども            ただ貴きに なみだながるる だな。仏様をあおいで、ただただありがたく、なんとも名状しがた い気持ちになる----それが真実の信仰というものだろうな。 信心深い女が現(うつつ)に閻魔王庁に行き               奇(くす)しい表を示す話             「日本霊異記(りょういき)」より  河内(かわち)の国に、女性の仏教修行者がいた。その人は、生ま れつき心が清らかで、三宝(さんぽう)を信敬し、彼女の般若心経を 誦(ず)する声は、えも言えないほど美しく、人々から厚く信頼され ていた。  ところが、ある晩のこと、彼女は寝床に入ったまま俄(にわか)に 死んだ。そして閻魔王の前にいた。閻魔は彼女を敷物にすわらせ、 「じつは汝(なんじ)の誦す般若心経が、ことのほか素晴らしいとい う評判なので、ちょっと来てもらったのだ。頼むから聞かせてくれ」 という。  仕方なく、彼女がお経を誦し始めると、閻魔は椅子から立ち上が り、ひざまづいて礼拝しながら、「貴いものだ。評判どおりみごと である」と感じ入った。  こうして三日目にして帰宅を許された女修行者は、閻魔の王宮の 出口で、黄衣(こうい)の三人に出会った。彼らは彼女を見て、嬉し げに声をかける。「これはこれはお懐かしゅうございます。近頃、 お目にかからないので、どうしていらっしゃるのかと心配しており ました。三日後、私たちは奈良の京の東の市に居りますから、また お会いできるでしょう。貴女も早くお帰りください」という。彼ら と別れ、ふと、気がついてみると、女修行者は元通り生き返ってい たのだった。  そして三日目の朝、彼女は、黄衣の人たちとの約束を思い出し、 奈良の東の市で待つことにした。  でも、待ち人はいっこうに来ない。  そこへ、一人の物売りが、市の東門から入ってきた。お経を手に 高くかかげて、「だれかこの経を買わんか」と、これみよがしに彼 女の前を通り過ぎていった。  女修行者は、その経を買い求めようと思い、供(とも)の者をやっ て物売りを呼び戻した。  経を開いて見ると、それは昔、彼女が写経した梵網経(ぼんもう きょう)二巻、般若心経の一巻であった。一心に書き写し、まだ、 供養しないままに紛失して、長年たずね求めていたが、どうしても 手に戻らなかったものである。  女修行者は、内心の喜びをかくし、目の前の物売りが、そのお経 盗人の当人とは分かっていたが、言い値で買い戻したことはいうま でもない。  そして、はたと、思い当たったのである。  奈良の京の東の市で、また会いましょう、と、閻魔の王宮の門の 所で約束したあの三人は、じつはいま自分が手にしているこのお経 の三巻であったことを----。  女修行者はさっそくに法会(ほうえ)を設(もう)け、帰ってきた経 を熱心に念誦(ねんじゅ)して、昼夜も休まなかった。  涅槃経(ねはんぎょう)にいうように、「もし、現在、善を修行す る人がいるなら、その名は天界や人間界に知れわたり、悪をおこな う人がいるなら、その名は、地獄に知れわたるであろう」とは、こ のことをいうのであろう。

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