Web版 月刊 観自在    [月刊「観自在」総目次]  [ ホームページ内検索]
仏教談議(ぶっきょうだんぎ)  2002年7月号   [仏教談議6月号] [8月]
   −いたわり 慈しみ 思いやり 相手の立場で考える


仏教談義(浮世根問・うきよねどい ねんだくり)その五十五

若々しい隣りのご隠居、聞きたがり屋の隣りの寅雄さん、です。
※「仏教談義」では、仏教でかつて一般にいわれてきた由来や逸話、  教養的なことがらを、二人の対談の形式ですすめています。 聖徳太子について 大日本大聖伝より(完結号) 佐田介石撰             (前号からのつづき)  「大日本史(だいにほんし)」(水戸黄門の名前で馴染み深い、 徳川光圀(みつくに)が一六五七年、江戸の藩邸「彰考館」で編纂 (へんさん)を始め、一九〇六年に完成した、漢文体の日本史)の 編集者の一人であった「森 尚謙」(もりしょうけん・一六五三 -- 一七二一没、儒仏おのおのに治道に資すべきで、不偏不党の立場を 唱える)という人は、晩年に書いた「護法資治論(ごほうしじろん) 十巻」という論文になかで、崇峻天皇暗殺の張本人は蘇我馬子であ ることは明白な事実であるにもかかわらず、聖徳太子はなぜ馬子を 討たなかったのか、そのわけを次のようにいっている。  聖徳太子は、天皇を弑逆(しいぎゃく)した馬子の罪を問わなか ったばかりか、その事件後も、何事もなかったように、馬子と二人 三脚で政治をとりつづけた。なぜ、太子は馬子を成敗(せいばい) しなかったのだろう。成敗が無理なら、せめて大臣の職から引きず りおろすぐらいの処断ができなかったのだろうか。  そこにはいろんな事情が考えられる。馬子が太子にとって祖母の 弟という血の濃さ、また、馬子が太子と同じように熱心な仏教信者 だった等々----。  しかしそれよりもはっきりいって太子の力が足りなかったからで はないだろうか。ことばをかえていえば仁弱な太子の性格のしから しむところであった。  それ故に、こんにち(一七〇〇年頃?)仏法が社会の公序良俗に 悪影響をおよぼしていると頑(かたくな)に考える世儒(せいじゅ・ 儒者)たちは、太子が馬子を討たなかったことを口実に、はげしく 太子を糾弾する。浅学未熟な書生たちが、口をきわめて聖徳太子を そしるのは、往時の事情を何一つ理解していないからである------  森尚謙は以上のように、つとめて聖徳太子を弁護しているのであ るが、しかしこれには大いに異論がある。森氏のいっているように 太子に、馬子を討つほどの力が足りなかったとは、私(佐田介石) は決して思わない。  太子が物部守屋を討伐(とうばつ)されたときは十六歳であった が、そんな若年にもかかわらず、守屋討伐軍の兵を統率して、みご とな指揮者ぶりを天下にお示しになった。だから太子の武勇のほど はすでに証明済みで、太子に馬子を討つだけの力が足りなかったと いうのはあたらない。  いわんや太子の薨去(こうきょ・皇族又は三位以上の人の死去を いう)のさい、皇族、群臣をはじめ世間の人々は、わが父母を亡く したように涙に暮れて、働く意欲を喪失し、耕夫は耕を止め、舂女 (いなつくめ)はその杵(きね)を止めたではないか。  これは、とりもなおさず当時の人々が、いかに太子を畏敬思慕し ていたかの証左である。  このように聖徳太子は天下の人望を得、その英知と勇気は大和朝 廷を圧倒していたのである。  しかも太子は皇太子(ひつぎのみこ)であり、摂政でもあった。 馬子がもし、ほんとうの意味の大逆をはたらいたとしたならば、 どうしてそれを断罪しないで黙認することがあろうか。  朝野あげて人望を一身にあつめていた聖徳太子が、あえて馬子を 処罰されなかった理由を推し量ってみると、ぎりぎりのところで、 馬子のとった行為について、ああするよりほかに仕方がなかった、 という暗黙の了解が両者のあいだにあったというほかはない。  いずれにしろ、太子が天皇弑逆事件に私情をはさんで、事の処理 に当たったという事実があれば、その薨去のとき、どうしてすべて の人々が生前の太子を追慕して嘆(なげ)き悲しむ道理があろう。  敏達(びたつ)天皇より推古天皇まで「日本書紀」に書かれてい る前後の文意と、私(佐田介石)がこれまで述べてきた当否をよく 照らし合わせれば、太子が真の聖徳の聖人であったことは、おのず から明らかであり、あわせて、従来から伝えられる蘇我馬子の汚名 をそそぐ一助にもなるのではないだろうか。かりにもし馬子の罪を 消すことはできなくても、聖徳太子の徳を掩(おお)い隠すことは できないはずである。 完。 仏教排斥の標的にされた太子 ご隠居 これまで数回にわたって「大日本大聖伝」をみてきたが、 著者の佐田介石さんは、以上で筆を措いている。 寅さん 仰々しいタイトルのわりには、あまり聖徳太子のことが 書かれていませんでしたね。 ご隠居 寅さんの指摘のとおりだが、でも、これを書いた著者の 主眼が、崇峻天皇を暗殺した馬子を太子はなぜ罰しなかったか、 といった点にテーマをしぼっているわけだから、聖徳太子に関する その他の話は二の次になってしまった。  というのも、江戸時代中期あたりから、太子は、儒者や国学者 の非難の対象となっていた。  非難の中心点は、太子が馬子の崇峻帝殺害を黙認した、という ことにあった。  国家主義からみて、最高の善は日本国家であり、天皇だ。その 天皇の生命を臣下が奪う、それは最高の悪だな。その最高の悪を 蘇我馬子がおこなうが、聖徳太子はその悪を黙認し、馬子の行為 を批判していない。儒学者や国学者は、天皇殺害の共犯者として 聖徳太子を告発することによって、仏教そのものを排斥しようと したわけだ。  仏教排斥のながれが、明治維新に至って、ついに「廃仏毀釈」と いう全国的な破壊運動にまで発展し、日本人がこれまで聖徳太子に 寄せていた信仰と思慕の念を根底から打ちこわしてしまった。  そうした逆風のなか「いや、そうではない。太子はやはり古来か らいわれているとおり、まちがいなく聖徳の人であった」と懸命に 反論したのがこの論文の要旨だから、崇峻帝と馬子との確執につい てながなが筆を費やしているのは仕方がないだろうな。 大和朝廷と渡来人 寅さん なるほど------、ところで、あの暗殺者の東漢直駒という 変な名前の人物ですが、あれはいったい何者なんです? ご隠居 たしかに読み方がふつうではないな。東漢直駒と表記して 「やまとの あやの あたい こま」。  つまり駒が名前で、直(あたい)というのは姓(かばね・古代、 家系や職名を表した称号)のことだ。  そして苗字を漢(あや)といったから、ほんらい彼の名は漢駒と いうことになる。  この漢氏は、古代朝鮮に中国がつくった植民地の楽浪郡、帯方郡 に住んでいた漢人であった。やがて高句麗が楽浪郡を滅ぼし、百済 が帯方郡を併呑した。  その結果、それまでそこに住んでいた漢人たちは次第に朝鮮半島 を南に移動し、ついに、一部の漢人たちが倭(わ・古代の日本)に 渡ってきた。  朝鮮半島から、朝鮮人系、中国人系の渡来は、五世紀後半の雄略 天皇時代にますます盛んになり、彼らはおもに河内(かわち・大阪) 飛鳥周辺に移り住んだ。その飛鳥辺に住んだ漢人を東漢(やまとの あや)といい、河内に住んだ漢人を西漢(かわちのあや)と呼ぶよ うになった、といわれている。  そして、馬子の家系の「蘇我氏」だが、この蘇我氏も一説による と百済王族の末裔(まつえい)ではないかといわれている。  つまり百済の蓋鹵王(こうろおう・百済第21代王・在位455-75) の弟、昆伎王が日本に渡来し、その子どもたちが雄略帝に可愛がら れた。(王篇+昆)  そして五世紀末ごろ葛城(かつらぎ)氏という豪族が滅んだあと、 昆伎王の子どもたちはその領地をもらい、蘇我氏を名乗るように なった。それ以来、東漢氏は蘇我氏を主君として仕えることになっ た、というのだな。 寅さん 蘇我氏が百済王の血筋なので、先祖代々朝鮮半島に住んで いた漢氏としては蘇我氏にあたまがあがらなく、日本へ来ても主従 関係がつづいたというわけですか。 ご隠居 蘇我氏が大和朝廷において絶大な勢力を張ることができた のは、じつは東漢氏の陰の力があったからだといわれている。  なにしろ彼らは、高度な知識を背景にした技術集団であった。  その当時、ほとんどの日本人が知らない文字の読み書きや、帳簿 に精通し、そのうえ、日本にまだない、いろんな最新技術まで身に つけていた。開明的な蘇我氏が東漢氏の持つこれらの知識技術に目 をつけ、積極的に利用した。それがために蘇我氏は馬子の父、稲目 (いなめ)の時代から大和朝廷の首班である大臣(おおおみ)にま で、のしあがった、というわけだ。 「日本書紀」より抜粋 「推古元年(五九二)夏四月、厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子とす。 よりて録摂政(まつりごとふさねつかさど)らしむ。万機(よろずの まつりごと)を以て悉く委ぬ」 「推古二年、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興し 隆(さか)えしむ。この時に諸臣連等(もろもろのおみむらじたち) 各君 親の恩の為に競ひて、仏舎(ほとけのおおとの)を造る。 即ち、これを寺と謂(い)ふ」 「推古十一年十二月、始めて冠位(こうぶりのくらい)を行ふ。 大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・ 大智・小智、あわせて十二階(冠位十二階の制・603年)」 「十二年(六〇四)夏四月に、皇太子、親(みずか)ら肇(はじ) めて憲法十七条作りたまふ。一に曰く、和(やわらか)なるを以て 貴しとし、忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ」 「十三年秋七月に、天皇、皇太子を請(ま)せて、勝鬘経(しょう まんきょう)を講(と)かしめたまふ。三日に説き、竟(お)へつ。 この歳。皇太子、亦、法華経を岡本宮に講く」 「十五年秋七月に、大礼 小野妹子を大唐に遣す」 「推古二十九年(六二一)の春二月、半夜に、厩戸豊聡耳皇子命 (うまやどのとよとみみのみこのみこと)、斑鳩宮(いかるがのみ や)に薨(かむさ)りましぬ。  この時に、諸王・諸臣、及び天下の百姓(おおみたから)悉くに 長老は愛(めぐ)き児を失へる如くして、塩酢の味(あじわい) 口に在れども、嘗(な)めず、少幼は慈(うつくしび)の父母 (かぞいろは)を亡しなへるが如くして、哭き泣(いさ)つる声、 行路に満てり。乃ち、耕す夫は耜(すき)を止み、舂(いねつ)く 女は杵(きねおと)せず。  皆曰く、〔日月輝きを失ひて、天地(あめつち)既に崩れぬ。 今より以後、誰をか恃(たの)まむ〕といふ」 「厩戸」命名についての異説 ご隠居 聖徳太子薨去(こうきょ)のさいのもようについて「日本 書紀」はこのように書いているが、「聖徳太子伝暦」はちがう。  その本では、聖徳太子が死ぬ前に、沐浴(もくよく)して新しい 衣服に着替え、妃にむかい、「吾は今夕、遷化(せんげ・死)する から、汝もいっしょに逝こう」といった。妃もまた、新しい衣装を 着て太子の寝所にはいった。  翌朝、太子と妃が起きてこないので、人々が部屋の戸を開くと、 両人とも死んでいた。このとき大臣以下 群臣 百官、天下の衆生は、 父母の死を知ったように哭泣(こっきゅう)したとある。 寅さん へえ、それはどうみても、自殺か、後追い心中としか考え られませんが----。どちらが正しいんでしょう? 「日本書紀」と 「聖徳太子伝暦」と。 ご隠居 「聖徳太子伝暦」は平安時代にできた本で、あまり信用さ れてない。しかし、「太子伝暦」にある太子と妃との共死の記事の 影響からか、聖徳太子の死について疑問を持つ学者は、現在も大勢 いるようだ。  もう一つ興味深いのが、太子のお名前のことだ。 寅さん 厩戸皇子の名前がどうかしましたか? ご隠居 定説では、太子の誕生は母后間人皇女(はしひとのひめみ こ)が臨月の身で禁中(きんちゅう)を歩いていて、厩の戸に突き 当たり、そのはずみで無痛分娩した。  だから、それに因(ちな)んで厩戸皇子と名づけられた、とされ ている。  しかし、そうではない、という説がある。どういう説かというと 厩戸の名は、蘇我馬子の名と関連があるというのだ。 寅さん あ、そうか。馬小屋と馬子、---- 語呂も合いますね。 ご隠居 太子の母、間人皇女は蘇我稲目の娘・小姉君と欽明天皇の 間に生まれた。その小姉君の弟が馬子だから、馬子からみると太子 は姪の子であり、太子からみると馬子は祖母の弟にあたる。  稲目の長女、堅塩媛(きたしひめ)も欽明天皇との間に太子の父 用明天皇と推古天皇を生んでいる。  堅塩媛のほうは、馬子とはどうも腹違いらしいが、馬子にとって 甥と姪であることにかわりない。  しかも太子には、馬子の娘、刀自古郎女(とじこのいらつめ)が 妃となっているから、馬子と太子は舅と婿でもある。  稲目から政権を受け継いだ馬子は、五七〇年ごろから六二六年ま で実に五十六年間も大臣の席にあった。敏達、用明、崇峻、推古の 四朝にわたって政治をとりつづけてきたわけだ。  厩戸皇子がお生まれになったのは五七三年といわれているから、 馬子がちょうど大臣になったころ聖徳太子がお生まれになったこと になる。  甥の用明帝と、その妃となっている姪の間人皇女に最初の男子が できたのだから、馬子からみると孫みたいなものだ。  仔馬が生まれるのは馬小屋の戸の中だ。こうして赤ん坊は、権力 の座についたばかりの祖母の弟・蘇我馬子によって「厩戸」と命名 されたとな。 (聖徳太子についてのお話・完)

[観自在目次] [観音院ホームページ内検索] [総合目次]
[門前町] [寺子屋] [バーチャル霊園] [トップ]

ご意見・ご感想は、info@kannon-in.or.jp まで、お待ちしております。

Copyright (C) 1996-2002 観自在社 Kanjizai-sya. All rights reserved.