Web版 月刊 観自在    [月刊「観自在」総目次]  [ ホームページ内検索]
仏教談議(ぶっきょうだんぎ)  2002年2月号   [仏教談議1月号] [3月/未]
   −いたわり 慈しみ 思いやり 相手の立場で考える


仏教談義(浮世根問・うきよねどい ねんだくり)その五十

若々しい隣りのご隠居、聞きたがり屋の隣りの寅雄さん、です。
※「仏教談義」では、仏教でかつて一般にいわれてきた教養的なことが らを、二人の対談の形式ですすめています。 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)  明治の初め、太政官(だじょうかん・明治前期の最高官庁。今の 内閣にあたる)によって国家神道の政策のため神仏分離がおこなわ れ、それを契機に全国的な仏教排撃運動が起こりました。  神仏分離の強行の先頭に立ったのは、主として国学者や地方官吏 そして神主さんたちであり、彼らに率いられた多くの民衆は、全国 各地のお寺や佛像を破壊してまわり、廃寺が続出したそうです。  廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは、文字どおり仏教を廃し、釈 尊をそしり、こわすということで、この文化大革命ともいえる廃仏 毀釈の実力行使は明治三年〔一八六八〕から四年ころにかけて頂点 に達しましたが、廃藩置県(藩を廃し、全国を郡県に改めた行政改 革・明治四年七月実施)を境に、しだいに鎮静化に向かいました。  神仏分離とは、具体的にはどういうことなのでしょうか----。  作家の司馬遼太郎さんは、次のように述べておられます。  ----平安時代に神仏混淆(こんこう=神仏習合)思想が完成され、 明治までそれがずっとつづいてきた。----真言、天台の政治感覚に 長(た)けた僧侶たちが、「日本土着の神も、蕃神(ばんしん)と いわれる仏教の仏も、あれは二つのものではなく、一つのものです」 という説を確立し、折衷(せっちゅう)して融和させ、仏教普及の ために日本の神々に仏教的な名をつけた。  たとえば権現(ごんげん)というのも明神(みょうじん)という のも、そうである。  権現とは日光サンを東照権現といったように、仏教の仏が権(か り)に神の姿で現れたもの、という仏教用語であり、明神というの は、諸説はあるが、たとえば、ダラニ経に「マサニ明神ヲ以ッテ証 トナスベシ」といったぐあいにいわれるように仏教語である。  明治は文化大革命期であり、その最大のものの一つは、日本固有 の神から仏教臭を消してしまう大運動であった。  そのため、権現や明神の呼称は廃され、あらためて日本らしい神 名をつけねばならなくなった。むろん、これは新政府の至上命令で あったから、神主サンたちの責任ではない----。 (29)欽明天皇----(30)敏達天皇-------押坂彦人皇子   きんめい |   びたつ   | (おしさかのひこひとのみこ)        |         |        |         --竹田皇子(母は推古)        |-(31)用明天皇        |   ようめい        |        |-(33)推古天皇        |   すいこ        |        |-----穴穂部皇子(あなほべのみこ)        |        |        |-(32)崇峻天皇           すしゅん 地に堕ちた聖徳太子の声望  こういった風潮の影響をもろにこうむったのが、ほかならぬ聖徳 太子〔五七四ー六二二〕でした。  それまでの徳川幕府を倒し〔一八六七年〕、明治維新の原動力と なった尊皇攘夷(そんのうじょうい)派の連中をはじめ、当時の知 識人〔庄屋や地主階級で、彼らのほとんどは国学(こくがく)を教 養として学んでいた〕は仏教を排斥し、そのついでのように聖徳太 子をこきおろしていました。  江戸中期の新井白石(儒学者、政治家・一六五七年ー一七二五年) なども聖徳太子のことをあまりよくは言っていません。  そのような時代思潮のなかにあって、聖徳太子はまるっきり堕ち た偶像でした。それまで太子に寄せていた信仰心に近い敬慕の情な ど、きれいさっぱり忘れたように、多くの民衆はだれも顧(かえり) みなくなってしまったかのようでした。  そればかりか、聖徳太子はむしろ陰口や悪口さえ叩かれるように なったのです。  そんな孤立無援の立場にあった聖徳太子を擁護し、熱心に弁護す る一人の僧侶が出てきました。  お名前を佐田介石〔一八一八ー八二〕と申される僧侶です。熊本 県の真宗の寺に生まれ、京都で仏教を学ばれ、文明開花に反対し日 本の西欧化を憂い、「ランプ亡国論」「栽培経済論」で国産品の愛 用などを説かれました。  これからご覧いただく論文は、明治八年の師の著述で、書名を 「大日本大聖伝」 亦名 聖徳太子索隠(聖徳太子の実像にせまる) と記されています。  なお、佐田師は、聖徳太子を弁護するにあたり、文献を「旧事本 紀・くじほんき」に求めています。  この書物は神代(じんだい)から推古天皇(五五四ー六二八)の 代までを記述した歴史書で、蘇我馬子らが編集したものとされてい ましたが、江戸時代に偽書であることが明らかになりました。  そのため史料的価値は低く評価されがちですが、神代の物語、物 部氏などの記事には、見方によっては古代史料として貴重な文献と もいえるようです。  そこで著者は、「古事記」「日本書紀」に書かれた聖徳太子の実 像の判然としない点を、この「旧事本紀」の記述をかりて、太子の 汚名をそそぐことにしたのです。  なお、聖徳太子の事跡についてあまり詳しくない方は、最初のう ち、少しとっつきにくい点があるかもしれませんが、我慢してお読 みいただくうちに、おいおいと著者の佐田師が何を言い、そのとき 太子がどう行動し、どのように対処したか、千四百年前に大和朝廷 で繰り広げられた聖徳太子にまつわる事柄の全貌がすべて明らかに なってくることと思います。  お隣のご隠居さん、聞きたがり屋の寅雄さんも、途中からもちろ ん参加いたしますから、今しばらく忍耐づよくおつきあいください ますよう、お願いします。 「大日本大聖伝」 −佐田介石 撰− 凡例(はんれい・本のはじめに掲げるその本の読み方などに    関する箇条書きのこと) 一 日本書紀の叙述に意をつくしていない箇所がある。 書紀には厩戸皇子(うまやどのみこ・聖徳太子のお名前)は生まれ ながらにして言葉をよくしたと書いているが、具体的にどのように 言葉を理解していたのか、はっきりしない。ゆえに旧事本紀を引い て、日本書紀を補う。 一 日本書紀には、厩戸皇子が生まれながらにして聖智を具えてい たことが見えず、ゆえに旧事本紀を引いて書紀を補助する。 一 書紀に舌足らずの叙述がある。  物部守屋と中臣勝海が図って彦人皇子(敏達天皇の長子)の殺害 をにおわせる記述があるが、はっきり守屋を下手人と断定していな い。ゆえに旧事本紀を引いてその事実を証明する。 一 書紀に事柄の叙述に脱漏(だつろう)がある。たとえば聖徳太 子のご相貌(そうぼう)など。よって本紀を引いて補う。 一 書紀に辻褄の合わない箇所がある。たとえば蘇我馬子が天皇を 弑(しい)するくだりがそうである。日本書紀には、白昼、馬子が 東漢駒(やまとのあやのこま)に命じて崇峻天皇を弑逆(しいぎゃ く)するところなど、はなはだ理屈に合わない。  なぜなら、どれほど古代とはいえ、天皇は左右の衛士が守る九重 の宮殿奥深くに座すのに、どうして重臣でもない駒が、白昼、宮殿 に入って天皇を弑することができたのか、これが第一の不審である。  また、それを多くの衛侍(えいじ)たちが駒を見ながら、なぜ咎 (とが)めなかったのか、第二の不審である。  さらにまた、天皇が弑せられた際、時を移さずなぜ駒はその場で 取り押さえられなかったのか?  しかるに日本書紀は、この月、駒は馬子の女(むすめ)の河上娘 (かわかみのいらつめ)を掠奪したことが発覚して殺された、とあ る。つまり駒は、天皇を弑してからあるていど日数を経たのちに、 天皇弑逆の罪ではなく、馬子の娘をかどわかした罪によって殺され たことになる。これはとりもなおさず、天皇弑逆の真犯人を曖昧の ままに放置したことになり、第三の不審である。  このような不分明な点を、旧事本紀を引いて日本書紀を補助する。 一 旧事本紀は「先代旧事本紀」ともいう。  この書は、江戸時代の学者多田義俊らが偽書であるとして、文献 的価値を認めない向きもあるが、旧事本紀に拠らなければ事柄の分 かりにくいところがあり、あるいは論旨の一貫しない点がある。  したがって、この書の援けをかりて日本書紀に書かれていない部 分を補うこととする。  旧事本紀を偽書と主張する向きは、もしも旧事本紀が真物である なら、日本書紀の編纂当時すでにあるわけだから、どうしてこの書 を参考にしなかったのか、また世に知られることがなかったかとの 疑問が生ずるかもしれない。が、秦の始皇帝の焚書(ふんしょ・学 問思想書等を焼き捨てる弾圧)の例でも分かるように、天下をくま なく捜索しても焼け残った書があったように、朝命をもってしても 遺漏がなかったとはいえない。  この間の事情を古老に問うと、千数百年を経た古寺の中に秘蔵と 称し、封じて開かない庫があった。  その秘庫に旧事本紀が納めてあることを誰も知らず、日本書紀編 纂後、その封庫を開いてはじめて旧事本紀の存在を知った。よって ことさらに秘していたことを咎められるのを恐れた寺主が、また元 通りこれを秘庫に蔵めてしまった。  ずっと時代がくだってある者がこの秘庫を開き、ひそかに筆写し た。旧事本紀が元僧家に伝わったゆえんである。  我が国には、かつて万国に卓絶した大聖人がいた。聖徳太子であ る。  けれども「古事記」「日本書紀」に記述されている聖徳太子の人 物像と事跡については、やや明確を欠くうらみがあるのではないか。  蘇我入鹿(そがのいるか)の乱(六四五年)のさい、過去の歴史 を記録した史料の大半が焼失した。  入鹿の乱の六年後に生まれた稗田阿礼(ひえだのあれ)という者 はたいへん記憶力に優れていた。  その阿礼が二十八歳のとき、朝廷に仕える高位高官をはじめ豪族 たちの各家に伝わる歴史をそれぞれ口頭で阿礼に逐一記憶させた。 (語部・かたりべ。日本の上代、朝廷につかえて、古い伝説や物語 を暗唱して語るのを職とした氏族) これを国紀に替えたのである。  和銅五(七一二)年、阿礼六十四歳のとき、我が国の正史が絶え ることをおそれた朝廷は、稗田阿礼が口述する話を、太安麻呂(お おのやすまろ)が編集して「古事記」三巻にまとめた。  しかしながら、阿礼個人のみの暗記にはおのずから限度があって 万全とは言いがたい。  その数年後、養老四(七二〇)年、舎人親王を編集責任者として (実際にたずさわったのは藤原釜足の子である藤原不比等・ふひと) 「日本書紀」が完成した。  「日本書紀」は往昔の出来事を広く古老に問い、また、蘇我入鹿 の乱の際に焼失をまぬがれた史料などをもとに編集したものである が、それでもなおかつ事柄のもれた箇所、あるいは疎漏なところが ないとはいえないので、それらの箇所を、旧事本紀を引いて「日本 書紀」を補完することとした。 聖徳太子の実像  第一の疑問。聖徳太子は、正史である日本書紀に、逆臣と書かれ ている蘇我馬子と共に事を謀(はか)っている。しからば聖徳太子 もまた、逆臣の罪をまぬがれるわけにはいかない。  聖徳太子がもし大聖ならば、どうして崇峻天皇を弑する大逆を犯 した馬子を処罰されなかったのだろうか?  この疑問は古来から根強くあり、太子の立場をきわめて悪くしてい る。ゆえにいま、聖徳太子の無実を証明し、太子の大聖であること を論じ、ついで逆臣とされてきた馬子の汚名を雪(すす)ぐことと する。  まず初めに、聖徳太子の大聖であるわけを話す。  聖徳太子には、世人と異なり、すぐれたところが十あった。 一に誕生の異、 二に得名の異、 三に相貌の異、 四に未然を知りたもう異、 五に幼にして老智をそなえられた異、 六に訴えを一時に聴かれた異、 七に三たび儲位(ちょい・皇太子の位)を辞退された異、 八についに即位されなかった異、 九に行政の異、 十に薨去(こうきょ)を追慕するの異、である。  一の誕生の異とは、聖徳太子はお産まれになってすぐ「裸は人に 非礼である。早く衣をまいらすべし」といわれた。太子は産まれお ちた時すでに礼儀をおわきまえになっていたのである。  二の、名を得たまうの異とは、太子には六つのお名前がある。  母妃が厩(うまや)の前で太子をお産みになったので、厩戸皇子 (うまやどのみこ)と名づけた。  また上宮(じょうぐう)という。これは太子が二、三歳の頃より、 幼くして智恵と徳をそなえられていたので父皇子(のちの用明天皇) が、わが子であるにもかかわらず賓客待遇でもって邸弟の上殿(じ ょうでん)に太子が住む宮をお与えになった。ゆえに、その名を称 して上宮太子という。  また聖徳という。太子の智は、天下のことにあまねく通暁して、 欠けるところなく、仁愛ひろく及び、人はその怒色を見ず、ゆえに 群臣その徳をたたえて聖徳という。  また八耳という。太子は同時に十人の訴えを聞き分けて誤らず、 一つ一つ問題を見事に決裁された。  また耳聡ともいう。これも耳をもってよく聴きわけられたからで ある。また豊聡耳(とよとみみ)という。これもまた、八耳と同義 である。  以上の六つの名は、いずれも日本書紀に書かれているところであ り、後人が勝手につけ加えた名ではない。  聖徳太子が凡常なみなみの人でなかったことは、これをもっても 知ることができるのである。 (以下は次号、2002-03月号につづく)

[観自在目次] [観音院ホームページ内検索] [総合目次]
[門前町] [寺子屋] [バーチャル霊園] [トップ]

ご意見・ご感想は、info@kannon-in.or.jp まで、お待ちしております。

Copyright (C) 1996-2002 観自在社 Kanjizai-sya. All rights reserved.