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Web版 月刊 観自在  いたわり 慈しみ 思いやり 相手の立場で考える
佛教談議(ぶっきょうだんぎ)  その三十八
平成13年・2001年2月号


 おとぎ話

ご隠居 寅さんは「御伽草子」というものを読んだことがあるか?

寅さん 聞いたことはありますが読んだ記憶はありません。

ご隠居 そんなはずはない。浦島太郎の話は知っているだろう?
 一寸法師や酒呑童子(しゅてんどうじ)、あれらはすべて「御伽
草子・おとぎぞうし」の物語だ。

寅さん へえ、浦島太郎や一寸法師が「御伽草子」だったとは知り
ませんでした。
 それで、ご隠居としては何が言いたいんです?

ご隠居 「御伽草子」といわれるものができたのは、今から約六百
年から五百年前の室町時代だが、そのなかの一つに「付喪神絵巻・
つくもがみえまき」というのがある。

寅さん つくも神とは、いったい何ですか?

ご隠居 付喪とは九十九(つくも)の意味で、九十九は百に一つ足り
ない数ということで「白」をも表す。つまり「百」字から「一」を
とれば「白」字となるから九十九、この九十九歳の長命の祝いを「白
寿」というのもこれからきていて、それはひどく年をとったもののこ
とをいっている。
 さて、この「付喪神絵巻」に古文先生(こもんせんせい)なるも
のが登場するな。

寅さん だれです? その古文先生というのは。

ご隠居 古文先生は、じつは、年の暮れに、不用になった他の器物
道具類といっしょに、道端に捨てられた古文書(こもんじょ)のこ
とだったのだ。
 年の暮れといっても、この物語は室町時代のころだから、むろん
旧暦であって立春の前日、つまり節分の日のことだ。
 人間というものはまったく自分勝手なもので、必要なときは重宝
して使っていたのに、古くてボロボロになると「弊履(へいり)の
ごとく捨てる」という慣用語があるように、やぶれ草履や靴などを
いかにも邪魔くさげにポイと捨ててしまう。
 そこで、捨てられた器物道具たちの人間に対する報復が始まる。
 これらの古い器物道具たちは、われわれは長いあいだ人間のため
に役立ってきたのに、古くなったからといって道端に捨てられると
は心外だ。
 その恨みを、妖怪化け物になって晴らしてやろう、とみんなで相
談し、妖怪に化(ば)ける方法を、同じように人間に捨てられた古文
書の「古文先生」に教えてもらい、節分の夜、古器物道具たちは種々
様々な妖怪となった。
 彼ら妖怪たちは京の船岡山の奥を根城に、夜な夜な京の町に出没
しては公家、町人、男女を問わず六畜(牛、馬、羊、鶏、犬、豚)
のたぐいもとって食った。京の町は大騒ぎになった。
 これが付喪神絵巻の上卷で、中は残念ながら現在残っていない。
 そして下巻は、この妖怪たちの改心の話となっている。

古数珠と真言の教え

ご隠居 彼ら妖怪たちは、護法童子という者に諌(いさ)められ、
自分たちの非を悟る。
 そしてもともと古器物の仲間であり、かつて彼らが妖怪になろう
としたとき、彼らを戒(いまし)め、いまは山中に隠棲している古
数珠の一蓮上人(いちれんしょうにん)というのに、どうすればよ
いでしょうか、と教えを乞(こ)うた。
 古数珠の一蓮上人がいう。「お前たちのようなものは、真言
密教の即身成佛(そくしんじょうぶつ)の教えによらねば、ほとけ
になれない」と諭(さと)したので妖怪たちも一蓮上人にならい、
真言の教えにしたがってほとけになった、という物語だな。
 なんとも奇妙な物語だが、佛教が日本にはいってきて、山川草木
悉皆成佛(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)という思想が定
着し、成佛するものは人間やその他の生き物だけにとどまらず、人
の手によって作られた器物にいたるまで含まれている、ということ
を言っているのではないだろうか。
 このような思想は、今なお行事として残っている「人形供養」や
「針供養」をみてもよく分かるような気がする。要は、日ごろ私た
ちが使っているどんな器物に対しても、つねに感謝の気持ちを忘れ
ず、ものを大切に、大事に使うという心掛けが大切ということでは
ないかな。

寅さん これからはゴミの日など大型ゴミを出すとき、よく心して
おくことにいたします。
 ところで、一蓮上人の数珠(じゅず)ですが、佛前に出るとき数
珠を持つのは、どういう理由があるんです?

数珠の起源

ご隠居 「木患樹経」というお経に、こうある。
 お釈迦さまが、天竺マカダ国の霊鷲山(りょうじゅせん)に住ま
われていたとき、ナンダ国の国王が勅使(ちょくし)を派遣して、
お釈迦さまに申し上げた。
「我が国は小国のうえ、辺境にあるため、しきりに周辺の国々から
侵略されて食糧不足をきたし、悪疫が流行して人民が大いに困窮
しております。
 そんな状態なので私は日夜心のやすまるときがありません。
 如来がおひらきになった佛法というものの偉大さ、奥深さ、尊さ
のことを聞くたび、いつも佛教を渇仰(かつごう)し、どうかして
それを修行しようと思いましたが、うまくゆきませんでした。
 そこで、ねがわくば慈悲をもって、忙しい国政の合間においても
修行できる良い方法があれば、その要点となるところをお教えねが
えませんでしょうか」
 お釈迦さまが仰せになった。
「もし、煩悩業苦(ごうく)を滅しようと思うなら、木患(むくろ
じ)の種子一百顆(個)に穴をうがってつらぬき、それに糸を通し
てつねに肌身につけて、心を乱すことなく精神を統一し、至心に佛
法僧を唱えながら、ひとつひとつむくろじの珠を繰るがよい。
 このようにして百遍、千遍と繰り返し、一万遍それをすると、百
八の煩悩を断除するであろう」と。
 聞いた勅使がナンダ国へ帰り、そのことを国王に報告すると、王
はたいへん喜んで、はるかにお釈迦さまを頂礼(ちょうらい)し、
早速にむくろじの数珠を一千連つくり、王族一同に与えて善業を勧
めた、というのが、どうも数珠の起源のようだ。

寅さん ひとくちに数珠といっても、いろいろありますが」」。

ご隠居 数珠の最上品を一千八十珠とし、以下、百八珠、五十四珠
二十七珠、十四珠というのもある。
 数珠の材料としては鉄、赤銅、珊瑚、水晶、むくろじ、蓮子(は
すの実)等で作るを良し、とあるが、鉄や銅の数珠だと重くてかな
わんと思うがな。

寅さん 数珠の珠は百八つという数にこだわりがあるようですが、
何かわけがあるんでしょうか?

ご隠居 百八の理由か。よく人間の煩悩の数百八を滅するため、百
八佛智などと、いわれている。
 百八の数珠の輪っかを二等分すると片方に五十四個、もう片方の
連にも五十四個となるな。この五十四は、じつは菩薩修行の「十信・
十住・十行・十回向(えこう)・四善根(ぜんこん)・十地」の五
十四位を表したもので、もう一方の五十四は、その目的であるとこ
ろの「信住行向根地」を表したものとされている。
 したがって、一方は目的に向かって一心に努力することであり、
もう片方は、目的そのもののことであると言ってよいだろう。

数珠をつまぐる功徳(くどく)

ご隠居 つまり、この両方の五十四位が合わさると百八つとなり、
その一珠一珠がひとすじにつらなるときに、心の惑いを断ち、さと
りをひらいて佛果菩提(ぶっかぼだい)に至るとされている。
 だから、この数珠を貫く線(いと)を、佛道修行をする人のよう
だともいわれている。そのわけは、こうだ。
 ひとりの行者が数珠の珠を一つ一つつまぐることによって、それ
がすなわち、菩薩修行五十四位、十信十住十行十回向四善根十地の
段階をすべて実践し終えた、という意味だな。
 数珠の珠には、母珠(もしゅ・おやだま)と子珠(ししゅ・こだ
ま)とがある。
 そして、この母珠をお釈迦さまに見立てると、その両脇にある子
珠は文殊、普賢菩薩であり、これを阿弥陀佛とするとき、両脇の子
珠は慈悲の化身(けしん)である勢至、観音菩薩となる。
 したがってそれらの子珠を、修行する一つ一つの積み重ねと考え
れば、それをつまぐることによって、一段ずつ修行の位を昇ってゆ
き、やがて佛果に至る、ということではないだろうか。
 また、それをつまぐるとき、母珠を越えることができないのは、
ほとけの上には、それ以上の位が無いから、これを越えられるはず
がない。だから子珠は、母珠の所まで繰っていって突き当たると、
それからまた引き返して始めからつまぐる。これは、佛果を成就
(じょうじゅ)したあかつきにおいて、身をまた下位に引き戻し、
衆生(しゅじょう)を済度(さいど)するという意味があるとされ
ている。

寅さん 数珠一つについても、いろんな意味が含まれているんです
ね。ほかに数珠の功徳といったものがありますか?

ご隠居 「金剛頂瑜伽念珠経」に次のように書かれている。
「煩悩を滅しようと願うなら、つねに数珠を身体から離すことなく
所持し、専心に諸佛の名号(みょうごう)を念ずべし。
 手に数珠を持ち、心の上に当てがって静かに考え、雑念を捨て去
り、そして頭上にいただき、あるいは頸(くび)に掛け、あるいは
肘(ひじ)に置く。
 数珠を頭上に戴けば、無間(五逆の罪を犯した者が絶え間ない苦
しみを受けるという八大地獄の一つ)をきよめ、頸に掛ければ四重
(殺・盗・淫・妄)を浄める。
 数珠をまた手に持ち、あるいは肘(ひじ)に掛ければ、人々の罪
を除き、念ずる人自身の身口意(しんくい)をことごとく清浄に
せずにはおかない」と、説かれている。

身口意をきよめる数珠

寅さん 私はこれまで、数珠というのは、ほとけさまの前に出ると
きのアクセサリーぐらいにしか思っていませんでしたが、ご隠居の
話だと、数珠にはそれを持つことじたい、自分自身を清浄にしてく
れる浄化作用があるわけですね。

ご隠居 そのとおり。数珠を身に帯びることによって、五逆十悪を
寄せつけない。
 つまり、数珠を手にしたかたちが、すでに邪念悪心に立ち向かう
姿なのであって、身口意のおこないが、おのずから清浄にならざる
を得ない。
 まして読経、念佛、焼香、礼拝(らいはい)のとき数珠を手にし
ていれば、その功徳は倍加する。
 われわれは、人間の生まれついた性(さが)として、ついつい欲
心を起こしたり、腹を立てたり、うぬぼれたり、おろかなことをし
たり、と、いろいろ良くないことを平素しがちなものだ。
 けれども、数珠をつまぐり、ほとけさまに対するときは、そうで
はない。きれいさっぱり邪心が洗いぬぐわれて、善心が生じる。
 先ほどの「金剛頂瑜伽念珠経」に、念珠結縁(けちえん)の功徳
を説いてこういっている。
「もし、数珠を頭上にいただき、あるいは耳に、あるいは頸に、あ
るいは肘に掛けるならば、その人の言辞はすなわち念誦(ねんじゅ)
と成って三業を浄める」と。

寅さん 三業をきよめる?

ご隠居 三業(さんごう)は、身口意の三つによってつくる善悪の
おこないのことだ。
 したがって三業が穢(けが)れるとは十悪業(殺・盗・淫・妄語・
綺語・悪口・両舌・貪・瞋・癡)のことであり、三業を浄めるとは
不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪淫(ふじ
ゃいん)・不妄語(ふもうご)・不悪口(ふあっく)・不両舌(ふ
りょうぜつ)・不貪欲(ふけんどん)・不瞋恚(ふしんに)・不邪
見(ふじゃけん)の十善戒のことをいう。
 また、言辞がすなわち念誦になるとは、数珠は、さっきも言った
ように、そういう功徳のあるものだから、すくなくとも普段から数
珠を身に携帯しているほどの人は口にする言葉までやさしく、美し
い。かりそめにも、他人の悪口を言ったり、二枚舌を使ったり、嘘
をついたり、おべんちゃらなどは決して言わない。
 いや、そんなチャランポランなことを言おうとしても、数珠を手
にしていると、数珠の手前、恥ずかしくて言えなくなるわけだな。
 だから、「数珠功徳経」というのに、こう説いている。
「もし、かりに佛名(ぶつみょう)、陀羅尼(だらに・善をたもち、
悪を起こさせない秘密のことば)をよく念誦することができなかった
としても、念珠を手に持ち、あるいは身に所持しているならば、行
住坐臥(ぎょうじゅうざが)、その人の口にする言葉にいたるまで、
すべてほとけを念じ、陀羅尼(だらに)を誦(じゅ)する功徳とま
ったく同じであり、佛果を得ること無量である」とある。
 さらにまた、身口意の三業が清浄(しょうじょう)であれば、た
とえ念佛念誦(ねんじゅ)しなくとも、ふだんより発している言語
じたいが、そのまま念佛であり、また念誦である、とも説いているな。



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