Web版 月刊 観自在
− いたわり 慈しみ 思いやり 相手の立場で考える 
若い僧侶の綴るよもやま話

2005年10月号 [9月号] [11月号]

「花の香り、智慧の明かり」


 菊月、という名が示すとおり、菊花の香る季節になってきました。
 菊は、姿も香りもよく、また、日持ちもするので、仏前にお供えする仏花としても重宝されます。
 供花(くげ)は、華道の歴史の中でもその源流となるくらい影響を与えました。
 菊は、もともと薬用として奈良時代に中国から渡ってきた物で、平安貴族たちが観賞の対象として愛でたことから日本でも栽培を始めました。現在の菊は、観賞用として交配を重ね、品種改良がなされた結果、美しい花を咲かせるようになりました。
 丹精こめて育てた菊の展覧会や、菊人形展などがニュースでとりあげられるのもこの時期ですね。
 さて、み仏さまに花を供えることは、仏教徒にとってとても大切なことです。観音院でも、いつも多くの方が花をお供えされてお参りされています。
 仏前を荘厳するもののなかで、五具足(ごぐそく)、略式化されたものに三具足があります。み仏さまに向かって左から、瓶、香炉、燭台を飾り、それぞれに花、焼香(線香)、灯明をお供えします。花の種類は、季節の盛り、時花がよいとされますが、真言宗では、好んで緑の美しい高野槙(まき)が供えられます。
 供花には最も美しく見える正面がありますが、み仏さまにお供えしているのに、何故、お参りに来ているわたくしたちの方に、花の正面を向けているのか、とほのかな疑問をもたれる方もいらっしゃるでしょう。
 花は、見る者の気持ちを穏やかにします。美しい花の姿も、その香りも、人々に安らぎを与えるものです。
 み仏さまは、抜苦与楽の心で、常にわたくしたちの苦しみを除き、幸せを与えようとお考えになっています。つまり、み仏さまは、あえてみなさまの側に花を向けることで、その忍耐と慈悲の心を示されているともいえます。
 密教の修法の際にも花は使用されます。花といっても、実際には「樒(しきみ)」の葉を用います。
その葉の形が「青蓮華」に似ているところからよく「花」の代用として使用される樒は、香気があり、乾燥させて抹香(まっこう)の原料にすることもあります。
 大きな法会の際に、散華(さんげ)という儀式で僧侶が投花する「花びら」にもこの「樒の葉」が用いられます。

 仏前を荘厳する代表的なものに、閼伽(あか)、塗香(ずこう)、華鬘(けまん)、焼香、飲食(おんじき)、灯明、の六種類があります。これらは、「六種供養」と呼ばれます。
 それぞれに、仏道を志す行者が行うべき徳目として、布施、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)があり、これらを六波羅蜜と呼びます。

 以前にもお話しましたが、六種供養は、古代のインドで来賓を接待する際の作法がもとになっています。
 お客様を自宅にお招きした際、まずは水(閼伽)で足や手を洗ってもらいます。インドは暑い国なので汗を沢山かくのですが、水が貴重なので、毎日お風呂に入るわけにはいかないので、そこで、汗臭さを消すために良いお香(塗香)を体に塗って体臭を紛らしてもらい、また、部屋の中も同様にお香を焚いて香りよくさせておきます。
そして、お部屋に招いて食事でもてなします。灯明で照らされた部屋で、ゆっくりと会話を楽しんでもらった後、お土産を渡して、最後にもう一度、口をすすいで帰ってもらう、というのが接待のながれになっていたようです。もちろん、現在は水道の設備も整っているのでこの通りではないとは思いますが。
 灯明は、何故、智慧(ちえ)のたとえとされるのでしょうか。
 わたくしたちは、「本来は仏となる性質」を持っているのですが、煩悩が邪魔をして、それに気づかせないとされているのです。その煩悩の根源となっているのが根源的な「無明(むみょう)」とされます。
 無明とは、明かりが無い、つまり、真理に暗いということです。
 何も知らないまま、手探りで、生きていくのは大変に困難を伴います。善き道を選び、どのように歩むべきかを判断するため、わたくしたちは勉強をして知識をつけていきます。
 智慧は、危難の多い暗い道を照らす「灯明」のような働きをすることから、このたとえができたのでしょう。
 仏前に荘厳された灯明は、み仏さまへの供養と同様に、わたくしたちを迷いの世界から抜け出させるために、暗い足元を照らすみ仏さまの「慈悲の灯火」の象徴でもあるのです。

 さて、十月は観音院で「万灯会(まんどうえ)」という厳かな仏事が行われます。
 昨年の万灯会は、台風の通過中、大雨と大風の中で執行されましたが、多くの参拝者の方が参集されました。
 万灯会は、本来はその名の通り、一万の灯火をともして、仏を供養する大行事です。日本でも、平安時代には東大寺や薬師寺で行われていたとされます。
 長者の万灯よりも、貧者の一灯という言葉が示すとおり、たとえわずかであっても、気持ちが込められた寄進のほうが尊いとされています。
 人は、自分の利益にばかり目を向けがちでありますが、財を他人に喜んで分け与えることで、自我を無くし、穏やかな暮らしを送ることができる、と仏教は説いているのです。施しを受けた人の喜ぶ姿は、仏前にお供えする花や灯明のように、施主の心を豊かにします。それは、布施を受けた人の体を通して、み仏さまがわれわれの心を教化(きょうけ)なさっているともとれます。
 仏教では、修行のなかで、まず「布施」を行えと説きます。人のために何か役立つ行動をとりなさい、と指導されます。
 親切にすること、感謝され、ありがとう、という言葉を聞くと、それだけで充足感が得られることがあります。
 その気持ちを大切にしなさい、という意味で、この「布施行」を最初に行うべきものとしたのかもしれません。
 他のためになることではあるが、自分が今、行動を起してみたところで大した変化は望めない、何も自分がやらなくてもいいのではないか、と誰しもが諦(あきら)めてしまうシチュエーションで、あえて実行してみること、それもある意味、貧者の一灯であるといえるでしょう。
 利他(りた)は「菩薩道」の最初の一歩です。
 踏み出す意思、即ち「菩提心」があれば、いずれは、互いに仏と呼ばれる日も来るでしょう。
 みなさまの心に、仏法に帰依する篤い信仰心が芽生えたとき、仏さまが、すべての生きとし生けるもののために、慈悲の明かりで道を照らし続けてくださることに気がつくことができるでしょう。


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